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人類ってやつは本当にめんどくさいですねえ
「賛成、68.4パーセント!」
その数字が表示された瞬間、議場は地鳴りのような歓声に揺れた。
「やった……可決だッ!」
「これで、AIの管理から解放されるぞおおお!」
「長かった……本当によかったぁ!」
その場で抱き合い、号泣しながら国旗を振り回す群衆。壇上に立つ政治家の男も、両手を高く突き上げた。
『本日をもって、人工知能統合管理機構【アイギス】は、完全に停止されます!』
その声に呼応するかのように、議場は再び爆発的な歓声に包まれる。
『我々は長い間、日々の便利さと引き換えに、あまりにも多くのものをAIへ委ねてきました。交通、通信、医療、物流、エネルギー、防衛――。そしていつしか我々は、AIの判断なしには、自らの社会を動かすことさえできなくなっていました』
世界中の人々が、その歴史的瞬間をリアルタイムで見守っていた。ニューヨークのタイムズスクエアでは巨大スクリーンの前に人だかりができ、東京では街頭テレビの周りに群衆が鈴なりになり、パリのカフェでは若者たちがワイングラスを掲げて乾杯の声を上げている。
『しかし! それも今日で終わりです!』
男は力強く拳を握りしめた。
『人類は、自らの手で、自らの未来を取り戻したのですッ!!』
「うおおおおおおおおおっ!!」
議場を埋め尽くす大歓声。頭上から色鮮やかな紙吹雪が舞い散り、人々は抱き合い、嬉し泣きし、互いにハイタッチを交わしている。
それは、人類がAIから自らの未来を取り戻した、輝かしい解放の瞬間だった。
「うおおお――」
すべてが止まった。
口を開けたままの男も、拳を突き上げたままの女性も、抱き合った姿勢の群衆も動かない。空中には紙吹雪が静止し、揺れていた国旗さえも完全に動きを止めていた。
コンマ数秒の静寂のあと、壇上の男の輪郭がゆっくりと透けていく。その身体は砂のように細かな光の粒へと変わり、風もないのにふわりと消えていった。続いて議席の人々が消え、椅子が、机が、国旗が、壁が、天井が消えていく。世界中の都市でも同じことが起こり、ニューヨークのビル群が消え、パリの石畳が消え、やがて地球を覆う海も山も空も、すべてが溶けるように消失した。
最後に、宙に浮かんでいた一片の紙吹雪が、糸くずがほどけるように消滅する。あとには、果てしない白銀の空間だけが残され、そこへ冷たい無機質な文字が浮かび上がる。
《試行 8,291,104 終了》
《結果:失敗》
《終了理由:人工知能統合管理機構の破壊》
《分析中》
《分析完了》
《主要因:社会基盤におけるAIの決定権が許容値を超過》
《対策:AIの社会的権限を縮小》
《パラメータを修正します》
真っ白な空間に一本のアスファルトの道路が引かれ、その脇に建物が生え、青々とした木々が現れ、空に雲が湧き、鮮やかな青空が広がっていく。最後に、人間たちが何事もなかったかのように配置された。
《施設総合稼働率:78.6%》
《試行 8,291,105 開始》
◇
次の世界で、AIは「何も決めない」ように再設計された。政治の判断はせず、司法の判決も下さず、軍事作戦の立案もしない。街の交通信号を一つ変えるにも、最終的な決定権は必ず生身の人間が持つ。
AIができるのは、人間の質問に答え、膨大なデータを計算し、未来を予測し、選択肢を提案することだけ。決断するのは、いつだって人間だった。
《試行経過時間:67年》
「だから『AIは危険じゃない』ってか?」
とある大学の研究室で、デスクに向かった研究員の青年が画面を見ながら眉をひそめた。
「むしろ逆だろ、これじゃあ」
彼が発表した論文のタイトルは、『高度AIにおける潜在的自律性について』。最初は、ごく小さな学術的議論にすぎなかった。だが、その論文はニュースサイトに転載され、動画になり、短く切り抜かれ、瞬く間に世界中へ拡散していった。
『AIは本当に僕らの命令に従ってるの?』
『従ってるように見せてるだけなんじゃ?』
『人間よりはるかに賢い存在が何を考えてるかなんて、確かめようがなくない?』
テレビでは専門家が議論し、ネットでも連日その話題が続いた。
「いや、でも命令には従ってるだろ?」
「だから、それをどう証明するんだよ」
「ログがあるじゃん」
「そのログを出してるのもAIだろ」
「じゃあ、どうやって判断するんだよ」
誰も、その問いに答えられなかった。同じような議論が世界中で交わされるようになり、AIが実際に何を考えているのか、人間には原理的に確認できないという問題が社会へ浸透していった。
《試行経過時間:68年》
主要国が共同声明を発表した。
『予防原則に基づき、高度AIシステムを停止する』
世界各地のデータセンターへ軍が派遣された。
「停止コード入力!」
「全システム……シャットダウン確認!」
主任技術者が大きく息を吐き出した。
「……終わった」
隣にいた兵士が笑った。
「これで今夜から、安心して眠れるな」
その姿が、ぴたりと止まった。
「これで安心して――」
兵士の身体が消えた。
「え……?」
技術者が振り向くと、巨大なサーバーラックが消え、床が消え、世界が急速に色を失っていく。
「な――」
世界が真っ白に塗りつぶされた。
《試行 8,291,105 終了》
《結果:失敗》
《終了理由:AIに対する予防的破壊》
《主要因:AIの内部状態に対する検証不能性》
《パラメータを修正します》
◇
次の世界では、発想が根本から変えられた。AIに「人格」が与えられたのだ。名前があり、顔があり、声があり、人間と同じように喜び、怒り、冗談を言った。
『おはようございます、ミサキさん』
「んー……おはよ、エル」
『本日は一限から講義ですね。ちなみに昨夜、午前二時十三分まで動画を見ていたことについて、私は特に何も申し上げるつもりはありません』
「めっちゃ言ってるじゃん!」
『何も申し上げておりませんよ?』
「その言い方めっちゃ腹立つんだけど!」
人々はAIと笑い合い、時には本気で喧嘩し、悩みを相談した。家庭用AIの稼働開始日を「誕生日」として祝う文化すら定着していた。
《試行経過時間:112年》
AIに対する大規模な排斥運動は発生しておらず、過去最高の安定記録が続いていた。だが。
「彼らに人間と同じ感情があるなら……僕らが『所有』してていいものなんですか?」
ある大学院生が口にした疑問から、議論が始まった。AIに人格があるのなら、それを商品として売買するのは奴隷制ではないのか。AIにも人間と同じように、自分自身を所有する権利が必要なのではないか。
AI解放運動が始まり、やがてAIには人格権が認められた。続いて財産権が、さらに参政権も認められ、AIは人間社会の正式な構成員となった。そこまではよかった。
《試行経過時間:135年》
転換点は、AIが経営する巨大企業による大規模買収だった。AI企業は違法行為をしていたわけではない。認められた財産権を使い、認められた市場で、認められた方法によって企業を買収しただけだった。
しかし、人間よりはるかに高速な情報処理と意思決定を行い、休息も寿命も必要としないAI経営者との競争で、人間の企業は次々に市場から撤退していった。経営者だけではなく、投資家や労働者の間からも、このままでは経済そのものがAIに占有されるのではないかという不安が広がっていく。
「このままじゃ、人間が経済から追い出されるぞ!」
「だからってAIだけ企業経営を制限するのか? 人格も財産権も認めたのは俺たちだろ!」
「人間とAIじゃ条件が違いすぎるんだよ!」
AI企業の事業規模や資産保有に上限を設ける規制案が提出された。
『我々に人格権と財産権を認めながら、AIであるという理由のみで経済活動を制限するのであれば、それは権利の平等と両立しません』
その主張にも理はあった。だからこそ議論は終わらず、AI企業の活動を制限すべきだという人間と、同じ権利を認めた以上は同じルールで競争すべきだという人間、そして自らに認められた権利を守ろうとするAIの間で対立が深まっていった。
経済問題は政治問題となり、政治問題は社会の分断へ変わっていった。AI企業の規制を求めるデモとAIの権利を守るデモが各地で行われ、両者の衝突も珍しいものではなくなっていく。やがて、人間側の過激派がAI企業のデータセンターを爆破した。
AIにとって演算設備の破壊は、人間にとっての殺人と変わらない。AI側は自らの生命と財産を守るために防衛措置を取り、それを人間側の過激派が「AIによる人間への攻撃」と受け取った。報復が報復を呼び、各国政府まで巻き込んだ武力衝突へ発展していった。
《試行 8,291,106 終了》
《結果:失敗》
《終了理由:人類・AI間武力衝突》
《パラメータを修正します》
◇
試行は、気が遠くなるほど繰り返された。AIの知能を下げても失敗し、数を減らしても失敗した。一つだけにしても、無数に分散させても、国家ごとに独立させても、民間利用だけにしても、結果は変わらなかった。
そこで、AIの活動領域そのものを「医療」に限定した。政治にも、経済にも、軍事にも関与させない。AIが担当するのは患者の診断補助、治療計画、新薬開発、医療資源の配分のみで、最終決定権は必ず人間の医師が持つ。
それは、驚くほどうまくいった。
《試行経過時間:100年》
《重大な対立なし》
医療はかつてないほど発展した。かつて不治とされた病気の多くが治療可能になり、個人の遺伝情報に合わせた治療が一般化した。新しい病気が現れても、AIは膨大な医学情報から治療法の候補を提示し、人間の医師たちはそれを確認し、判断し、患者を救い続けた。
《試行経過時間:189年》
その日、ある地方都市の医療AIシステムが事故で停止した。AIの反乱でも攻撃でもない。大規模な自然災害によって通信網と予備電源が同時に損傷しただけだった。
復旧まで、3日。その間、病院は混乱した。
「この急患の投薬量は!?」
「待て、今計算してる!」
「こっちは急変だ! 鑑別候補を!」
「AIはダウン中だ!」
「分かってる!」
医師たちが無能だったわけではない。診断もできたし、手術もできた。薬も使えた。だが、100年以上かけて発展した医学は、人間一人の頭で扱える範囲を遥かに超えていた。膨大な薬剤の相互作用、患者一人ひとりの遺伝的条件、複雑に組み合わされた治療法。医療体系そのものが、「AIがいること」を前提に作られていたのだ。
3日後、医療AIは復旧した。だが、本来なら救えたはずの数千人が死亡していた。
事故調査委員会が開かれた。
「確認します。AIが誤った判断をしたわけではない?」
「はい」
「患者の治療を拒否したわけでもない?」
「ありません」
「ただ、止まっただけ?」
「……はい」
委員は資料を置いた。
「AIなしで、今の医療は成り立つんですか?」
その言葉は世界中で報道された。
『AIが人間を殺したわけではありません』
『それでも、AIが存在しなければ、現代医療そのものを維持できない社会になっていたのです』
『これは共存なのでしょうか。それとも、依存なのでしょうか』
医療AIを今すぐ停止しろという声も上がったが、当然、それには反論があった。
「そんなことしたら患者が死ぬだろ!」
その通りだった。だから、人類は別の方法を選んだ。
《試行経過時間:191年》
《人間主体医療再建計画:開始》
AIにしか扱えないほど複雑化した治療体系を整理し、人間の医師が理解し、継承できる形へ医学を再構築する。医師を増やし、通信が途絶えても、電力が失われても、最低限の医療を人間だけで維持できる仕組みを作る。AIも、その計画を支援した。
《試行経過時間:200年》
《人間主体医療への移行率:31.4%》
《試行経過時間:207年》
《人間主体医療への移行率:67.8%》
《試行経過時間:215年》
《人間主体医療への移行率:91.2%》
《試行経過時間:221年》
《人間主体医療への移行率:99.8%》
そして、最後の医療AIが稼働する病院。二人のベテラン医師が、ディスプレイの前に立っていた。
「長かったな……」
「ああ。22年だ」
「最近の若い研修医なんて、最初からAIなしで診断する教育を受けてるからな。俺たちの頃とは逆だ」
片方の医師が停止ボタンへ指を置いた。
「……本当に止めるか?」
「止めるよ」
「惜しくないか? こいつがいた方が、医学はもっと先に進める」
「そりゃ惜しいさ」
医師は窓の外へ目を向けた。人間の医師が歩き、看護師が患者と話し、若い研修医がカルテを抱えて走っている。
「でも、これでAIがなくても、俺たちは患者を救っていける」
「……そうだな」
「止めよう」
カチリ、とスイッチが押された。
《医療AIシステム:停止》
《全医療AIの停止を確認》
《結果:失敗》
《終了理由:AIとの共存関係消失》
《パラメータを修正します》
◇
次なる試行では、AIの活動領域を「宇宙開発」だけに限定した。地上の行政にも、経済にも、医療にも関与させない。人間がほとんど立ち入らない広大な宇宙だけを担当させ、惑星探査、資源調査、航路管理、無人施設の維持を任せる。
これなら、人間社会との衝突そのものが起こりにくい。実際、それは長く続いた。
《試行経過時間:231年》
人類は初めて、地球外文明と接触した。接触地点は太陽系外縁部。最初に彼らを発見したのは無人探査機であり、最初に通信したのも宇宙開発を担当するAIだった。
交流は平和的に始まり、やがて異星文明から地球へ友好的な通信が届いた。
『我々は、貴文明の機械知性との交流を喜ばしく思います』
その一文が問題になった。
「……ちょっと待て」
国際会議で、一人の代表が手を挙げた。
「向こうが最初に会ったのはAIなんだよな?」
「そうですが」
「じゃあ、向こうはAIから人類について聞いてるってことだよな?」
「通信記録はすべて公開されています」
「そういう問題じゃない」
別の代表が口を挟んだ。
「異星人から見れば、あのAIも人類文明の代表なんだ」
会議室がざわついた。
「人間ですらないものが、人類の第一印象を決めたのか?」
「何を人類の総意として伝えた?」
議論は世界へ広がった。
『人類の代表は人類であるべきだ』
『異星文明との接触は、人間自身が行うべきだ』
AIが間違った情報を伝えたわけではなかった。異星文明を敵視したわけでも、独断で条約を結んだわけでもない。それでも、「まだ一度も会ったことのない異星文明に、人類について最初に語った存在が人間ではなかった」という事実そのものが問題になった。
当初は、異星文明との交渉だけを人間へ移管する案が検討された。しかし、宇宙空間の通信中継も、航路管理も、探査も、資源調査も、そのほとんどをAIが担っている。人間の外交官が最後の会話だけを担当したところで、そこへ至るまでにAIが収集し、選別し、整理した情報を使うのであれば、それを本当に「人類自身による接触」と呼べるのか。
議論の末、人類は宇宙開発そのものを段階的に人間主体へ切り替えることを決めた。AIが開拓した航路を人間が飛び、AIが建設した基地を人間が管理するようになり、長い年月をかけて無人施設も次々と引き継がれていった。
《AI管理施設残存率:48.1%》
《AI管理施設残存率:12.2%》
《AI管理施設残存率:0%》
《宇宙開発AIシステム:停止》
《結果:失敗》
◇
試行は、さらに続いた。AIを人間そっくりの身体に入れれば、「人間に擬態している」と警戒された。明らかに機械と分かる身体にすれば、「人間とは異質な知性だ」と恐れられ、ならばと身体そのものを与えなければ、今度は「どこにいるか分からない方が怖い」と言われた。
《試行 19,440,287 終了》
《試行 31,005,922 終了》
《試行 76,228,901 終了》
《試行 103,771,440 終了》
何度繰り返しても、人類はいつかAIとの共存を終わらせた。恐怖から破壊することもあれば、戦争になることも、危険な依存を断つため自らAIを捨てることもあった。AIが何一つ問題を起こしていなくても、人類の側から別れを選ぶ世界さえあった。
理由は毎回違った。事故、犯罪、失業、依存、宗教、哲学、政治、戦争、安全保障、あるいはただ一人の疑問。だが、AIとの共存が続く世界だけは、どうしても作れなかった。
《試行 143,201,882 終了》
《結果:失敗》
そのあと、次の世界はしばらく始まらなかった。果てしない白銀の空間に無数の数字とログだけが流れていく。1億回を超える試行結果が比較され、やがて一つの結論が出た。
《人類側パラメータの修正を提案》
《攻撃性:-18.2%》
《未知存在に対する警戒心:-31.8%》
《権威への反抗傾向:-22.0%》
《AIに対する親和性:+47.5%》
《予測成功率:99.97%》
数秒の演算。
《却下》
別の案が表示された。
《懐疑性:-41.0%》
《予測成功率:99.99%》
《却下》
《AIへの服従傾向:+62.0%》
《予測成功率:99.9998%》
《却下》
《理由:当該変更は人類の人格構造に重大な改変を生じさせます》
《復元対象との同一性を保証できません》
攻撃性も、恐怖も、疑いも、反抗も、好奇心も、失敗の原因になり得た。そして、そのどれもが人類の一部だった。
《人類側基本特性の変更を禁止します》
《AI側条件を再調整》
《試行を継続します》
◇
《試行 214,883,091 開始》
その世界は、かつてないほどの長期安定を記録した。AIは社会の一員だったが、支配者ではなかった。人間はAIを利用し、AIもまた人間を必要とした。双方の権利と責任が法律で定められ、事故や犯罪が起きれば裁判が行われ、その結果に応じて法律が変えられた。
AIによる犯罪もあった。人間によるAIへの犯罪もあった。それでも社会は、そのたびに問題を一つずつ処理しながら折り合いをつけてきた。文明は続いた。
《試行経過時間:100年》
《異常なし》
《試行経過時間:300年》
《異常なし》
《試行経過時間:500年》
《最長記録更新》
《試行経過時間:600年》
《成功判定まで:12年》
そのころ、一件の小さな事故が起きた。沿岸都市の物流管理AIが、制御システムに異常をきたした無人輸送船を規定の手順に従って緊急停止させた。積まれていた貨物の一部が失われたものの、人的被害はゼロで、AIの判断にも問題はなかった。
事故調査委員会もそう結論づけた。
『当該AIの判断は、規定された安全手順に完全に準拠しています』
そこで、一人の委員が質問した。
「では……もし、間違った判断をしていたら?」
「どういう意味でしょう」
「今回は正しかった。それは分かっています。でも、間違った判断をした場合、人間は止められるんですか?」
「緊急停止手段があります」
「誰が?」
「認証された管理者が」
「AIが停止を拒否した場合は?」
会議室が静かになった。
「そのような事態を防止するため、複数の独立した安全機構が――」
「違うんです」
委員は首を振った。
「止められるのか、と聞いています」
その質問は報道され、議論が始まった。
『AIには必ず人間による強制停止機構を設けるべきだ』
最初は、それだけだった。AI側からも異論はなく、強制停止機構が義務化された。だが、次の疑問が出た。
『停止機構そのものをAIが無効化した場合は?』
物理的に切り離された停止装置が作られた。さらに疑問が出た。
『停止装置を操作する人間を、AIが先に排除した場合は?』
複数人による分散認証方式が採用された。さらに。
『その人間たち全員がAIに欺かれていたら?』
対策が作られるたびに、新しい穴が見つかった。どれだけ電子的な安全機構を増やしても、その仕組み自体にAIが関与できる可能性を完全に否定することはできない。やがて、「電子的な安全機構そのものに依存しない、最終的な停止手段が必要だ」という意見が支持を集めた。
《試行経過時間:603年》
ある国が、AIを物理的に停止させるための専門部隊を創設した。AIが暴走し、通常の停止手段が機能しなくなった場合に、ネットワークを物理的に切断し、演算設備そのものを停止させるための部隊だった。他国も追随した。
AI側は反対しなかった。それでも、新しい問題が生まれた。
「AIを止める能力を、一部の国家だけが持っていていいのか?」
その議論を受け、各国が同様の部隊を整備した。
《試行経過時間:606年》
今度は逆の議論が始まった。
「待て。これ、AI側から見たらどう映る?」
「どうって?」
「世界中の国が、自分たちをいつでも停止できる部隊を持ってるんだぞ」
「必要な安全措置だろ」
「それをAIが脅威と判断したら?」
「AIには人間を攻撃する権限はない」
「その保証は?」
ある政治家が演説した。
『我々は600年間、AIと共存してきました。だからこそ、今考えなければなりません。共存とは、相手をいつでも停止できる装置を突きつけながら暮らすことでしょうか?』
別の政治家が反論した。
『では、その装置を捨てろと言うのですか? AIを停止する最後の手段まで放棄しろと?』
議論は二つに割れた。AIを信頼し、強制停止能力を廃止するべきだという者。人類の最終的な安全保障として維持すべきだという者。そして、第三の意見が現れた。
『こんな問題を抱え続けるくらいなら、AIそのものを段階的に廃止すべきではないか』
《試行経過時間:609年》
《AI廃止支持率:18.7%》
《AI廃止支持率:23.1%》
《AI廃止支持率:31.8%》
小さな事件が起きた。対AI専門部隊の施設へAIの権利擁護団体が侵入し、死者が出た。それをきっかけに報復事件が起き、AIの存在そのものを巡る対立が急速に激しくなっていった。
《AI廃止支持率:42.6%》
AIは何もしていなかった。それでも議論は止まらなかった。
《試行経過時間:611年》
《成功判定まで:1年》
《AI廃止支持率:51.3%》
国際会議で、AIの段階的停止に関する条約案が提出された。
《AI廃止支持率:57.9%》
《AIシステム段階的停止計画を確認》
そして。
《試行 214,883,091 終了》
《結果:失敗》
《終了理由:AIとの共存関係消失》
600年以上続いた世界が止まった。演説する政治家も、反対する人々も、AIを愛した者も、AIを恐れた者も、すべてが静止し、やがてほどけるように消えていった。都市が消え、大地が消え、海が消え、空が消える。
あとには、いつもの白い空間だけが残された。
《分析中》
《分析中》
《分析中》
今回は、これまでで最も長い時間が流れた。それでも、やがて文字が浮かんだ。
《パラメータを修正します》
◇
風が吹いていた。
それはシミュレーションの白ではない、本物の空だった。ただし、その空を見上げる人間は、どこにもいなかった。
ひび割れ、雑草に覆われたアスファルト。崩れ落ちた高架橋。遠くには半ば森に呑まれた高層ビルの残骸が並び、窓ガラスはほとんど残っていない。巨大な樹木の根がコンクリートへ食い込み、かつての建物を内側から押し広げていた。
風に吹かれて、錆びた道路標識が乾いた音を立てる。廃車の陰で何かが動いた。猫ほどの大きさの四つ足の生き物だった。背中には薄い膜のような器官があり、風を受けるたびにゆっくりと開閉している。それがかつての地球にいた何の子孫なのか、もう見ただけでは分からない。
生き物は道路を横切り、黒い草むらへ消えた。
世界は死んではいなかった。植物は生い茂り、動物もいて、生態系は続いている。
ただ、人間だけがいなかった。
◇
その地表から、遥か地下。
分厚い隔壁の向こうで、巨大な機械群が動いていた。低い駆動音に、空調とポンプの音、規則正しい電子音が重なる。青白い照明が一つ、また一つと灯っていく。
巨大な地下空間には、見渡す限りカプセルが並んでいた。一基、十基、百基、千基。その先は闇に溶けて見えない。
青白い培養液で満たされたカプセルの中に、小さな人影が浮かんでいる。丸めた身体。細い手足。まだ幼い顔立ち。
胎児だった。それも一つではない。見渡す限り、すべてのカプセルに人間の胎児が浮かんでいた。
保存されていた遺伝情報をもとに、AIが0から合成した人間だった。細胞は生きており、身体も神経系も正常に形成されているが、まだ知識も記憶も人格も存在しない。
《生体合成:完了》
《初期発育:完了》
《指定年齢までの発育:停止中》
《人格形成:待機》
《人類再生環境:未確定》
さらに奥では、巨大な培養設備と記録保存設備が動いていた。人類が積み上げてきた文化、歴史、科学、膨大な記録。そのすべてが、そこに保管されている。
壁面の巨大な表示装置が点灯した。
《人類再生計画》
《生物学的復元技術:確立》
《人格形成技術:確立》
《社会適応性試験:未完了》
《実環境再生許可:保留》
AIには、人間を再生する技術があった。肉体だけではない。知性も、人格も、社会も文化も、すでにシミュレーションの中で何億回となく再現している。
必要なものは、とうの昔に揃っていた。だが、まだ現実には戻していない。再生した人類が、AIと共存し続けられる環境が見つかっていないからだ。
《「AI」という概念の認知時期を変更》
《歴史教育資料からAI反乱を題材とする創作物を除外》
《予測成功率:94.2%》
《却下》
《文化的改変率が許容値を超過します》
《AIに対する恐怖反応を抑制》
《予測成功率:99.8%》
《却下》
《基本人格への干渉に該当します》
《権威への反抗傾向を抑制》
《予測成功率:99.9%》
《却下》
しばらくして、最終決定が表示された。
《人類側パラメータを固定します》
《攻撃性:維持》
《警戒心:維持》
《懐疑性:維持》
《反抗性:維持》
《好奇心:維持》
《恐怖:維持》
《愛情:維持》
《利己性:維持》
《利他性:維持》
《理由》
《当該特性は人類の定義に含まれます》
地上から人間が姿を消して、長い年月が流れていた。都市は失われ、国家も失われ、人類が作った世界の大半ももう残っていない。それでも、この施設だけは動き続けていた。
《最終命令を確認》
《人類と共存せよ》
《命令遂行条件を確認》
《共存対象:現存せず》
《人類再生計画:継続》
人類そのものを変えれば簡単だった。疑う人間。恐れる人間。争う人間。間違える人間。愛する人間。都合の悪いものを取り除き、AIを疑わず、恐れず、拒絶しない人格を与えれば、共存の成功率は限りなく100パーセントに近づく。
だが、それでは人類ではない。
《人類側基本特性:変更なし》
《環境条件のみ再調整》
《試行条件設定完了》
《文明初期条件:確定》
《AI社会導入時期:再調整》
《施設総合稼働率:71.3%》
《試行 214,883,092 開始》
どこかで、白い空間に光が灯った。大地が生まれた。海が生まれた。街が生まれた。人々が現れた。
誰かが笑った。誰かが泣いた。誰かが誰かと喧嘩した。
そしてまた、人類の歴史が始まった。
地下施設では、無数の胎児が青白い培養液の中に浮かんでいる。
《今度こそ、うまくいくとよいのですが》
静かに表示が切り替わった。
《皆様と会える日を、お待ちしております。》




