8.
「お前、一体何なんだ。
休日の帰省中に茨城県警から身元照会が入って、殺人現場で、も、洩らしたガキがいるが本当に弟なのかって。
検事の私が、茨城県警から……っ! 私の気持ち、お前に分かるかっ」
桜樹はバン……とドアにへばりついた。
こいつのどこが優しいってんだ?
「だ、だって、人が死んでたんだ。怖くて……」
ピキピキピキ、と松芳が凍りつく音がはっきりと聞こえた。
「お前、志摩津の直系だろうっ」
「オレだってしたくてしたんじゃないやいっ」
「ふざけんなっ。
鍛錬を怠っているからそうなるんだ。
腹筋五百回、今しろ、すぐしろ、数ごまかすな」
桜樹は(いや、だって、大学じゃん、教授もいるじゃん、縛られてるじゃん)とぱくぱく口を動かしたが、松芳は居丈高に桜樹を見下ろしている。
桜樹がおろおろしていると、
「松芳くん、君の気持も分かるが、一般的には洩らした当人の方が、ずっと恥ずかしいんだ。
そのくらいにしてやってくれ」
長谷部教授が桜樹を庇った。
松芳は両手でバンと机を叩くと、ぐいと顔を前に突き出した。
ぎりりと長谷部教授を睨みつけている。
「おおっと」
と長谷部教授は道化たしぐさで身をひいた。
なんとはなしに、近所のガキの相手をしているオジサンのようである。
「私は検事です」
松芳はキランと眼鏡を輝かせて言った。
松芳は桜樹より百万倍プライドが高い。松芳に限って言えば、洩らした当人より恥ずかしい思いをした、かもしれない。
「父や兄とも相談して、桜樹は連れて帰ることにしました。
長谷部のご当主さまにはご迷惑をおかけしました。後日、改めて御挨拶に伺うつもりです」
「オレ、帰れるの? 帰っていいの」
桜樹が縛られたままはしゃぐと、松芳は桜樹の襟首をつかみ、顔をよせ真正面から睨みつけた。
「お前みたいなヤツは一生涯、座敷牢にひきこもってりゃいいんだ」
「それは志摩津家ご当主の発言?」
長谷部教授はちらりとも桜樹を見ずに言った。
「飛翔くんは昔から、感情の発露は静かだが、意志は固かった。
どんな状況であれ、いちど決断したことを翻したことは一度もなかったと記憶しているが」
松芳の骨ばった指から力が抜けた。
くちびるを曲げ、不服そうに視線を床に落としている。
長谷部教授が窓から射す陽光を背に立ちあがった。
逆光で、表情がはっきりと見えない。
「もし、桜樹くんを連れて帰りたいならば、飛翔くんから直接連絡が欲しい。
一応、私としても預かった手前というものがある。
じゃあ、私はこれで失礼させていただく。今はいろいろ取り込み中なんだ。
守屋も来てくれ」
「あ、はいはーい。
じゃあね。兄弟仲良くね」
守屋は手を振ると、長谷部教授の後を早足で追いかけ、応接室から出ていった。
どうやら、桜樹はまだ帰れないらしい。
長谷部教授、なんで余計なことを言うんだろう。
桜樹自身にはなんの関心もないようなのに。
松芳はため息をつき、心底不満そうに桜樹のロープをほどいた。
「帰る。駐車場まで送れ」
「イヤ」
松芳は桜樹の首に腕をかけ、ぐっと締めあげた。
「送れ」
「ハ、ハイ……」
頭脳明晰な兄は、地図を確認することなく早足で歩いて行く。桜樹より、よほど構内を把握しているようだ。キャンパス内で見るスーツ姿の背中は、家で見ているより、さらに大人びていた。
駐車場は大学の敷地に接していて、日曜日なのに駐車している車の数は多い。
へき地にあるため、通学は車でしている人が多いようだ。
「守屋さんて、前、うちにいたんだって?」
「ああ?
覚えてなかったか? 志摩津の内弟子だったのに、長谷部家に引き抜かれたんだ」
「なんで?」
「連中、口がうまいからな」
松芳はイライラと、気障なしぐさでストレートの髪をかき上げた。
女性が見ればカッコいいと思うのかもしれないが、実の弟からすると、アホだ。
「言っとくがな、長谷部の魑魅魍魎に比べたら、志摩津なんて単純明快で、ずっとマシなんだ。
お前は自分が志摩津本家の直系だということ、忘れるなよ」
「……」
「きちんと三食とって、ちゃんと鍛錬しとけよ」
松芳は、よれよれになった桜樹のTシャツの襟をととのえ、裾をひき、はあっと息を吐いて肩を落とした。
「なんで、こんなだらしなく見えるんだろう」
「知るかよ、オレのせいじゃないよ。生んだ母さんに文句言えよ」
「あまり恥をさらすんじゃない」
キツイ眼で桜樹をひと睨みすると、松芳は車で去って行った。
やれやれ。
帰ってまた寝よう、と思った時。
強い視線を背に感じた。
できれば振り返りたくはないが、見ずにはいられない。
振り返ると。
椎行凪がそこにいた。
どピンクで塗装された軽トラから降りてきたところだった。
今日もビニールやらぬいぐるみやらコサージュやらをあちこちにつけた、奇妙な様相だ。
ぽかんと目を見開いて、走り去った松芳の車を見ていた。
「今のって……」