6.
長谷部教授は、あとは守屋に任せると言って、今からゼミ生徒たちの様子を見、刑事たちと学長室へ行き、野瀬の家族に会いにいくと告げ、慌ただしく出ていった。
桜樹の大荷物を見て、守屋は吉鷹のメモにあったアパートまで、車で送ってくれた。
大学から山道を降りてすぐのふもと、表通りに面して近くにコンビニも見える、二階建のアパートだった。
オートロックでもなければ、鉄筋のマンションでもない。
寿荘という名の、古臭い、いかにも昭和の時代のアパートだ。
なぜか、藤木海も一緒に乗り、同じアパートで降りた。
「なんでついてくるの、引っ越し手伝ってくれるの」
桜樹が言うと、藤木海はぷううっとほおを膨らませた。
「どうして僕が君の引っ越しを手伝うわけ?
ここ、僕のアパート。僕もここに住んでるんだ」
「そうなんだ。じゃ、これ持ってって。
二階。大変なんだ」
桜樹は段ボール箱を海に突き出した。
海はあんぐりと口を開けた。
「君さ、兄さんがいるんだっけ。すっげー過保護にされてきたろ」
「ま、さ、か。アイツら見たら、絶対そんなこと思わないって。すっげー悪魔で暴君なんだ。
日々虐待されて、暴力に罵詈雑言。
従兄もいるんだけど、コイツがまた、ちょー根性歪んでいて、性格悪くて。
えーと、部屋は二階のいちばんはし……あー、西日がすっげー入りそう。
ち、よっしぃ、どうせ適当に選んだんだ」
錆びた鉄の階段を上り、一番奥の部屋の鍵を開けた。
真新しい畳の匂いのする和室。
すすけた磨りガラスの窓から西日が射しこんでいる。
中には何もなかった。
ベッドと卓袱台、机に本棚。
シンプルな食器や調理道具、日常生活品、勉強道具があるだけ。
テレビもなければPCもなく、ゲームもオーディオセットもマンガもない。
「なんだよっ、これっ」
桜樹はあわてて段ボールをひっくり返し、スポーツバッグの中身もぶちまけた。
やけに軽いと感じてはいたが、中身は着替えと、弁当にお茶っぱだけだった。
「ウソウソウソ、テレビもパソコンもゲームもないっ」
ゲームのない生活なんて耐えられない。慌てて、吉鷹に電話をかける。すぐに回線がつながった。
「よっしー、ひどいじゃない、ゲームないじゃない、パソコンもテレビもないじゃない、なんだよ、これじゃあ……」
最後までしゃべる前に回線が切れた。
リダイヤルをするが、『お客様がおかけになった番号は……』とそっけなく流れてくる。二度、三度とかけなおしてもおなじだ。
「うそぉ……」
ふんふんふん、と勝手に浴室をのぞいていたらしい海がもどってきた。
「部屋のつくりは同じだねえ、って、どうしたの」
「な、なにもない……」
「そお? ひととおりそろっているように見えるけど」
「ないんだよっ!」
桜樹は地団駄踏んで叫んだ。
「ないんだってばっ。
ないないないない。
なんにも必要なものはないっ。
こんなんで生きてけるわけないじゃん。
あいつら、オレに死んでほしんだよっ」
海は膝をかかえこんでしゃがみこみ、ぶちまけられた桜樹の荷物をひっくりかえして吟味していた。
輪ゴムで止められた大きな平べったい紙の包みを開くと、ワンウェイの容器に詰められた弁当が出てきた。
「あ。
お弁当、あるよ」
これ見よがしの弁当は、いかにも母親の想いらしく、露骨で胸糞悪い。
「いらない」
「いたんじゃうよ。お茶っ葉も入ってる。
狭山のいいヤツだよ、これ」
桜樹は首を振った。
「じゃ、僕がもらう。
お茶淹れよ」
海が急須、急須と、広げられた荷物や台所を探すが、急須はなかった。
「ないよ、ないんだよ。
ほら、やっぱり、あいつら、なにも用意してくれてないんだ。なんだよ、お茶っぱ入れて急須がないなんて。どうしろって言うんだ。
結局、オレのことなんて、どうでもいいんだ。
オレなんかいなくなればいいと思ってんだ。
当面四年間、家に帰っちゃいけないって、オレに死ねって言ってんだよっ」
ぱあん、と小気味の良い音がした。
藤木海は両手を叩いて桜樹のしゃべりをやめさせると、
「なにぐたぐた言ってんのサ。急須なんて百円ショップでいくらでもあるじゃない。いいよ、もってくる」
と早口でまくしたてた。
去られると思うと、急激にさみしさが襲った。
このままひとりきりになるかもしれない。
怖い。
怖い怖い怖い。
桜樹は慌てて、海の足にすがりついた。
「オ、オレもついてっていい、お、お、お弁当あげるから」
海は硬直し。
心底呆れたように桜樹を見下ろした。
「いいけど、ね。
君の兄さん、いつもどうしているのか、ホント見てみたいよ」
とため息をついて、言った。
おなじ二階の、東の端にある藤木海の部屋はみたところ間取りはいっしょだった。
六畳一間の和室。小さな台所がつき、手洗いと風呂は別。
部屋のいたるところに本が積み上げられている。難しそうな専門書だ。部屋の片隅にたたまれた布団とちゃぶ台があるだけの、桜樹の部屋よりもさらに何もない部屋だった。
「藤木くんのとこも文化的なものないんだね」
ゲームさせてもらえるか、せめてもテレビが見れると思っていたのに。
「あるよ、携帯。ほら、こんなに薄くて、テレビ電話ができるんだ」
海は嬉しそうに薄型の携帯をみせびらかすと、やかんを火にかけた。
ちゃぶ台をひろげ、お弁当の包みをほどく。中は、おにぎりが十個。鶏のから揚げと、卵焼きがぎっしりと詰められていた。冷凍ミカンもついている。
一人分にしては量が多い。吉鷹と一緒に食べることを考えていたのかもしれない。
あの男が桜樹と一緒に食事するわけはないのに。
「おいしそう」
海は指をぺろりとなめて、小さな口をあんぐりと広げて、おにぎりにかぶりつく。
心底おいしそうに食べているのを見ていると、食欲が出てきた。
ぐーっとおなかが鳴る。
「食べなよ」
と海が弁当箱を押し出したので、桜樹は素直におにぎりをほおばった。
懐かしい味がした。
懐かしくて、遠い味だった。
涙が零れた。
「人が……人が死んでたんだ」
「うん?」
「こ、こわ……。
怖くて」
「うん」
桜樹は声を上げてわんわん泣いた。
泣きながら。
なんで、みんな怖くないんだ、
死んじゃうんだ、
いつかは死んじゃうのに、なんで真面目に生きたりするんだ、
とぐしゃぐしゃになりながら、訴えた。
藤木海は眼鏡の奥の漆黒の瞳で、じっと話を聞いていたが、
「お茶淹れるね」
抹茶の薫り高いお茶を、前に置いてくれた。
鼻腔の奥に、抹茶の安らかな香りが広がる。
すこし。
気持ちが落ちついて。
恥ずかしくなった。
藤木海は片膝を立てて、片手で抱いた。
黒い衣服から出た皮膚は、白くきめ細やか。
大ぶりの、やぼったい黒縁メガネをかけているが、よくよく見ると、漆黒の吸い込まれそうな瞳と、小さなかわいらしい口元の、相当な美形だ。
体つきも、華奢ではないが無駄な肉がなく、しなやかでバランスも整っている。
海は、からかうように唇に微笑を浮かべた。
「さっきさ、キミのイトコ、ワンコールで出てたよね」
「ちがうよぉ。居留守電だよ。
ぜんぜん出やしない」
「一回目の。
ワンコールだったでしょ、待ってたんじゃない?」
「待ってた?」
「警察から身元照会があったんじゃないの。
で、連絡を待ってたんでしょ。
心配してんじゃない。
もう一度、ちゃんとかけなよ」
そんな筈、あの吉鷹に限ってあるわけない。
くどくどと吉鷹の酷さを海に訴えたが、海は電話をかけろと譲らない。
「じゃあ、一度だけ」
根負けして電話をすると、やはり留守番電話に接続される。
生徒が殺されていたこと、でも、いちおう教授から合格をもらったこと、変な刑事がいたことなどを留守電に入れると、いきなり吉鷹が出た。
「大丈夫なのか」
「分かんない」
「じゃ、大丈夫なんだな」
一方的に電話は切れた。
やっぱり。
桜樹のことなんか、ぜんぜん、心配してないじゃぁないか。
藤木海に文句を言う。
「そんなもんでしょ」
あっさり言って。
ず。
ずずずーっ、と、旨そうにお茶をすすった。