5.
教室がしんと静かになった。
(洩らした……?)
(だって大学生で?)
(まさかねえ)
ひそひそとざわめきが起きる。
守屋は桜樹に背を向けて立っていたが、ありありとこちらを気にしている気配がする。
藤木海も桜樹を見ないように見ないようにして、露骨に気にしているのが視界の端に見える。
「おい、いるんだろ。
小便漏らして長谷部時宗にパンツ借りたヤツってのが」
さらに大きい声で、ドラ声の刑事は言う。
人権侵害もいいところだ。
プライバシーという概念はないのだろうか。
こらえきれなくなったようにちらちらと、海が桜樹を横目で見た。
観念して、こそっと手を上げると、
「ちょっと来てくれ」
とドラ声で言われ、教室中の視線が桜樹の全身に突き刺さった。
柊まどかやショートカットの可愛いコも、目を見開いて桜樹を見ている。
酷い。
死にたいというか。
この場から消えたいというか。
いっそ、地球が爆発してほしい。
ぜったいにこの刑事、あとで訴えてやる。
「僕も一緒にいたけど」
海がのんびりした声で言った。
「じゃ、君も……ああ、あんたも昨日、長谷部時宗と一緒にいたんだろ。
ちょっと来てくれ」
ドラ声の刑事は守屋を指差すと、急き立てて階上へあがらせた。
「……兄弟は全部で六人……そのうち二人が……職業は会社員と弁護士と芸者で、いえ、だから」
古びた校舎の二階の廊下。
午後の穏やかな日差しにふさわしく、長谷部教授はのんびりと聴取に応じていた。
だが、反比例して、ぎょろ眼の初老の刑事が真っ赤に怒り、語気が荒くなっていた。
他にもう一人、いかにもキャリア組と言った背広を着た若い刑事もいるが、無言で話を聞いているだけのようだった。
「じゃあ、弟が三人、昨夜は一緒にいたんだな」
「ですから二人ですって。ひとりが会社員で、もうひとりが弁護士と芸者をして」
「あんた、警察をおちょくってんのかっ。そんなふざけた奴いるわけねえだろっ」
「そりゃあ、わたしもそう思います。優秀というか、器量良しとほめてやるべきか。
でも、現実に弟がそれで。それが兄弟げんかの原因なんですが仲裁を頼まれても、難しいところなんですよね」
「もういいっ、嘘だったらすぐにわかるからな。弁護士会に問い合わせるっ、名前は」
「長谷部結香と李香。所属はたしか大阪弁護士協会だったかと」
刑事がなんだ、という顔をした。
「なんだ、女でふたりなんだな」
「いや、弟でひとりですよ」
うわああああ、と、刑事が頭をかきむしった。
「教授、なに遊んでいるんです」
呆れたように守屋が言った。
ああ、と長谷部教授は白い歯を見せ、
「我が家のありのままを話してみたのだが、どうやら世間一般には理解されにくい、ということが判明した」
「そんな実験、今しなくても」
守屋は両手を腰に当てて嘆息した。
まったく、その通りだ。
自分の生徒が殺されたというのに、ずいぶんと落ち着いている。
「しかし、どうやら私が容疑者のようだ。
たまたま昨夜はいなかったとはいえ、この奥はわたしの住居だし、いちど部屋にも入ったし」
「ああ、警部、その件で小便漏らしたガキ連れてきたっスけど」
声の大きな刑事が言うと、教授を詰問していた刑事が顔を上げ、桜樹と海をじろりとみた。
「ちがうちがう、僕じゃない。こっち」
と海はひっしに手を振り、桜樹をしっかと指差した。
教授はうなずくと、
「そうだね、藤木くんは守屋とぶつかって、本を散らかしてそこで拾っていて、で、志摩津くんはここでバケツにうずくまってもどしていて……あ、バケツは?」
はいはーい、と海がいきおいよく手を挙げ、
「洗ってトイレに干してきた」
「証拠物件を」
ぎょろ目を動かし威嚇するように脅しつけると、
「だって、ゲロだよ」
しれっと海が言う。
「そうしたら、志摩津くんが失禁していたんだ。教育者として生徒をそのままにしておけないだろう。
で、部屋に入ってジーンズと下着を持ってきた」
「志摩津……?」
今まで黙っていたキャリアの刑事が口をはさんだ。
細い糸のような、見えているんだかどうかわからない眼を桜樹に向ける。
「志摩津って、あの志摩津家の」
「志摩津本家の三男の桜樹くんだ。
本日よりわたしのゼミに参加してもらう予定だった。
お兄さんが水戸地検にいるはずだが」
「志摩津松芳検事ならよく存じ上げています。
確認させていただいても?」
「だめっ、絶対だめっ」
「是非、そうしてくれ」
桜樹と長谷部教授が同時に言った。
「だめだめだめ、絶対だめだって」
桜樹はじたばたと足をふみならした。
刑事たちや守屋、海の不思議そうな視線が桜樹につきささる。
長谷部教授は上半身をかがめて、桜樹に視線をあわせた。
桜樹だって身長180センチはあるのに、日本人離れした長身だった。
「志摩津くん、警察の捜査に協力するのは国民の義務だよ」
桜樹はぶんぶんと首を振る。
教授は松芳の陰湿さを知らないから、そんな非人道的なことを平気で言えるんだ。
「亡くなったのはゼミの生徒で、警察がきちんと捜査を行えるように情報を提示して協力するべき……ええと、そう、お巡りさんたちに、ここにいる人たちをいい人か悪い人か、調べてもらわなきゃいけなくてね。桜樹くんのお家の人にも聞けなきゃ、お巡りさんが大変だろう?
分かるかな?」
ぷっ、と藤木海が噴き出した。
守屋も口を押さえ、肩を痙攣させて笑いをこらえているし、刑事たちも生まじめな顔を装いながらも、薄皮一枚下で爆笑しているようだった。
「ンなの分かってる! でも、怖いんだっって」
長谷部時宗は目の細い刑事に向きなおり、
「志摩津検事に身元確認をお願いします。
志摩津くんとは今日初めて会ったばかりなので、わたし自身、身元の保証には自信がありません」
ときっぱり言った。
藤木海は体をくの字に曲げてひーひー笑いだし、「もうダメ」「息が苦しい」といいながら笑い続けている。
「お前、失礼だろっ」
むっとして、桜樹が蹴っ飛ばすと、
「ゴメンゴメン、あまりに可笑しくて」
と眼鏡をずらして、笑い涙をぬぐいながら謝った。
教室の中ではまだ鑑識作業が続いている。
「しばらく部屋は使えそうにないな」
長谷部教授がひとり言のように言うと、
「そうしていただければ助かります」
細い目の刑事が礼儀正しく言った。
どことはなしに、吉鷹と似た、そつのない匂いがする。
イヤな感じだ。
「それなら、しばらくは守屋のところで居候するが、喪服とスーツは取らせてもらいたいが構わないか。
ご家族にも会わなくてはいけないし」
教授は息を吐き、
「親御さんの気持ちを思うと、辛い」
と厳しい顔で呟いた。
「ねえ、教授」
藤木海がようよう笑うのをやめて、息を整えながら言った。
「教授、それで桜樹の面談の件だけれど、やっぱり不合格?
なんだよね?」
桜樹はびっくんと飛び上がった。
そうだ。
肝心な件を忘れていた。
不合格になったら、桜樹には行く場所がない。
けど……。
けどぅ……。
どんどん、恥をさらしている気がする。
桜樹が悪いわけではないのに。
長谷部時宗は不思議そうな顔をした。
「ちょっと待ってくれ、不合格だなんて誰が言ったんだ」
桜樹と海、守屋が教授を見ると、
「……いや、わたしはゼミが再開したらきなさい、と言うつもりだったのだが。それで藤木くんはさえぎったのか」
海はこっくりうなずいた。
「だって、教授、桜樹のことおちこぼれとかいうし。服は返さなくていいって」
「そりゃあ、そうだろう。返してもらっても、君なら着るかい。
漏らした後に履かれたパンツとジーンズ」
その場にいた皆が、刑事を含めていっせいに首を振った。
「これじゃあ、あの堅苦しい志摩津家では、辛いだろうと言ったつもりだったんだ。
守屋だってそうだったんだし」
守屋はびくりと肩を怒らせて、
「わたしは人前で失禁したことはありません、一緒にしないでください」
ぴしゃりと言って
「でも、まあ、良かった、ですかね」
と、ふうっと息を吐いた。