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桜散る  作者: 夏野梨生
6/30

5.

 教室がしんと静かになった。


(洩らした……?)

(だって大学生で?)

(まさかねえ)


 ひそひそとざわめきが起きる。


 守屋は桜樹に背を向けて立っていたが、ありありとこちらを気にしている気配がする。

 藤木海も桜樹を見ないように見ないようにして、露骨に気にしているのが視界の端に見える。


「おい、いるんだろ。

 小便漏らして長谷部時宗にパンツ借りたヤツってのが」


 さらに大きい声で、ドラ声の刑事は言う。


 人権侵害もいいところだ。

 プライバシーという概念はないのだろうか。


 こらえきれなくなったようにちらちらと、海が桜樹を横目で見た。


 観念して、こそっと手を上げると、


「ちょっと来てくれ」


 とドラ声で言われ、教室中の視線が桜樹の全身に突き刺さった。

 柊まどかやショートカットの可愛いコも、目を見開いて桜樹を見ている。


 酷い。


 死にたいというか。

 この場から消えたいというか。

 いっそ、地球が爆発してほしい。


 ぜったいにこの刑事、あとで訴えてやる。


「僕も一緒にいたけど」


 海がのんびりした声で言った。


「じゃ、君も……ああ、あんたも昨日、長谷部時宗と一緒にいたんだろ。

 ちょっと来てくれ」


 ドラ声の刑事は守屋を指差すと、急き立てて階上へあがらせた。


「……兄弟は全部で六人……そのうち二人が……職業は会社員と弁護士と芸者で、いえ、だから」


 古びた校舎の二階の廊下。

 午後の穏やかな日差しにふさわしく、長谷部教授はのんびりと聴取に応じていた。

 だが、反比例して、ぎょろ眼の初老の刑事が真っ赤に怒り、語気が荒くなっていた。

 他にもう一人、いかにもキャリア組と言った背広を着た若い刑事もいるが、無言で話を聞いているだけのようだった。


「じゃあ、弟が三人、昨夜は一緒にいたんだな」

「ですから二人ですって。ひとりが会社員で、もうひとりが弁護士と芸者をして」

「あんた、警察をおちょくってんのかっ。そんなふざけた奴いるわけねえだろっ」

「そりゃあ、わたしもそう思います。優秀というか、器量良しとほめてやるべきか。

 でも、現実に弟がそれで。それが兄弟げんかの原因なんですが仲裁を頼まれても、難しいところなんですよね」

「もういいっ、嘘だったらすぐにわかるからな。弁護士会に問い合わせるっ、名前は」

「長谷部結香と李香。所属はたしか大阪弁護士協会だったかと」


 刑事がなんだ、という顔をした。


「なんだ、女でふたりなんだな」

「いや、弟でひとりですよ」


 うわああああ、と、刑事が頭をかきむしった。


「教授、なに遊んでいるんです」


 呆れたように守屋が言った。

 ああ、と長谷部教授は白い歯を見せ、


「我が家のありのままを話してみたのだが、どうやら世間一般には理解されにくい、ということが判明した」

「そんな実験、今しなくても」


 守屋は両手を腰に当てて嘆息した。

 まったく、その通りだ。

 自分の生徒が殺されたというのに、ずいぶんと落ち着いている。


「しかし、どうやら私が容疑者のようだ。

 たまたま昨夜はいなかったとはいえ、この奥はわたしの住居だし、いちど部屋にも入ったし」

「ああ、警部、その件で小便漏らしたガキ連れてきたっスけど」


 声の大きな刑事が言うと、教授を詰問していた刑事が顔を上げ、桜樹と海をじろりとみた。


「ちがうちがう、僕じゃない。こっち」


 と海はひっしに手を振り、桜樹をしっかと指差した。

 教授はうなずくと、


「そうだね、藤木くんは守屋とぶつかって、本を散らかしてそこで拾っていて、で、志摩津くんはここでバケツにうずくまってもどしていて……あ、バケツは?」


 はいはーい、と海がいきおいよく手を挙げ、


「洗ってトイレに干してきた」

「証拠物件を」


 ぎょろ目を動かし威嚇するように脅しつけると、


「だって、ゲロだよ」


 しれっと海が言う。


「そうしたら、志摩津くんが失禁していたんだ。教育者として生徒をそのままにしておけないだろう。

 で、部屋に入ってジーンズと下着を持ってきた」

「志摩津……?」


 今まで黙っていたキャリアの刑事が口をはさんだ。

 細い糸のような、見えているんだかどうかわからない眼を桜樹に向ける。


「志摩津って、あの志摩津家の」

「志摩津本家の三男の桜樹くんだ。

 本日よりわたしのゼミに参加してもらう予定だった。

 お兄さんが水戸地検にいるはずだが」

「志摩津松芳検事ならよく存じ上げています。

 確認させていただいても?」


「だめっ、絶対だめっ」

「是非、そうしてくれ」


 桜樹と長谷部教授が同時に言った。


「だめだめだめ、絶対だめだって」


 桜樹はじたばたと足をふみならした。


 刑事たちや守屋、海の不思議そうな視線が桜樹につきささる。


 長谷部教授は上半身をかがめて、桜樹に視線をあわせた。 

 桜樹だって身長180センチはあるのに、日本人離れした長身だった。


「志摩津くん、警察の捜査に協力するのは国民の義務だよ」


 桜樹はぶんぶんと首を振る。

 教授は松芳の陰湿さを知らないから、そんな非人道的なことを平気で言えるんだ。


「亡くなったのはゼミの生徒で、警察がきちんと捜査を行えるように情報を提示して協力するべき……ええと、そう、お巡りさんたちに、ここにいる人たちをいい人か悪い人か、調べてもらわなきゃいけなくてね。桜樹くんのお家の人にも聞けなきゃ、お巡りさんが大変だろう?

 分かるかな?」


 ぷっ、と藤木海が噴き出した。

 守屋も口を押さえ、肩を痙攣させて笑いをこらえているし、刑事たちも生まじめな顔を装いながらも、薄皮一枚下で爆笑しているようだった。


「ンなの分かってる! でも、怖いんだっって」


 長谷部時宗は目の細い刑事に向きなおり、


「志摩津検事に身元確認をお願いします。

 志摩津くんとは今日初めて会ったばかりなので、わたし自身、身元の保証には自信がありません」


 ときっぱり言った。


 藤木海は体をくの字に曲げてひーひー笑いだし、「もうダメ」「息が苦しい」といいながら笑い続けている。


「お前、失礼だろっ」


 むっとして、桜樹が蹴っ飛ばすと、


「ゴメンゴメン、あまりに可笑しくて」


 と眼鏡をずらして、笑い涙をぬぐいながら謝った。


 教室の中ではまだ鑑識作業が続いている。


「しばらく部屋は使えそうにないな」


 長谷部教授がひとり言のように言うと、


「そうしていただければ助かります」


 細い目の刑事が礼儀正しく言った。

 どことはなしに、吉鷹と似た、そつのない匂いがする。

 イヤな感じだ。


「それなら、しばらくは守屋のところで居候するが、喪服とスーツは取らせてもらいたいが構わないか。

 ご家族にも会わなくてはいけないし」


 教授は息を吐き、


「親御さんの気持ちを思うと、辛い」


 と厳しい顔で呟いた。


「ねえ、教授」


 藤木海がようよう笑うのをやめて、息を整えながら言った。


「教授、それで桜樹の面談の件だけれど、やっぱり不合格?

 なんだよね?」


 桜樹はびっくんと飛び上がった。

 そうだ。

 肝心な件を忘れていた。

 不合格になったら、桜樹には行く場所がない。


 けど……。

 けどぅ……。

 どんどん、恥をさらしている気がする。

 桜樹が悪いわけではないのに。


 長谷部時宗は不思議そうな顔をした。


「ちょっと待ってくれ、不合格だなんて誰が言ったんだ」


 桜樹と海、守屋が教授を見ると、


「……いや、わたしはゼミが再開したらきなさい、と言うつもりだったのだが。それで藤木くんはさえぎったのか」


 海はこっくりうなずいた。


「だって、教授、桜樹のことおちこぼれとかいうし。服は返さなくていいって」

「そりゃあ、そうだろう。返してもらっても、君なら着るかい。

 漏らした後に履かれたパンツとジーンズ」


 その場にいた皆が、刑事を含めていっせいに首を振った。

 

「これじゃあ、あの堅苦しい志摩津家では、辛いだろうと言ったつもりだったんだ。

 守屋だってそうだったんだし」


 守屋はびくりと肩を怒らせて、


「わたしは人前で失禁したことはありません、一緒にしないでください」


 ぴしゃりと言って


「でも、まあ、良かった、ですかね」


 と、ふうっと息を吐いた。

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