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桜散る  作者: 夏野梨生
3/30

2.

「死んでる?」


 少年が聞きかえしたときには、青年はどたどたと階段を駆け降りていった。


「え、ちょっと、守屋さーん」

「今、守衛を呼びに行った。警察にも連絡したところだ」


 背後からの声に、桜樹と少年は振り返った。


「あ、教授、どうしたの」


 教授と呼ばれた初老の男性は、苦い顔で教室の前に立っていた。

 ということは、この男が叔父貴の言っていた長谷部時宗か。


 こいつがすべての元凶かとむかむかしながら睨みつけた。


 白髪の交じった髪だが、背は高く、肩幅もがっしりしていて、全身から力がみなぎっている。

 ジーンズにチェックのコットンシャツのカジュアルな服装だ。彫りの深い顔立ちで、教授というより西部劇の俳優のような外見だった。


「死んでるって?」


 黒髪の少年はひょいと、教授のわきをすり抜けて、室内に入った。


 中は学校の教室半分の広さだ。目の前には十人ほどが座れる机があり、両サイドに何列もの本棚がぎっしりとならんでいる。

 奥の大きく開いた窓からは初夏の景色が広がり、カーテンが風に揺れていた。

 窓の横には教授のものらしい大きなデスクと椅子があり、その横で女は手足をぐにゃりとまげて横たわっていた。

 マスカラをたっぷり塗った目を見開いて、グロスでてかったくちびるをぽっかりとひらいている。

 黒ずんだ木の床にひろがったどす黒い血のうえに、濃い黒髪が、どっしりとうねり、ひろがっていた。


「あ、ホントウだ」


 少年はひょいひょいと室内に入ると、女の上にかがみこんだ。鼻先をつきだし、女の首筋に顔を近づける。


(なんで……)

(なんで、こいつ、平気なんだろう)


 たとえようもない違和感が体の奥底からこみあげてくる。


 なまぬるい、ねっとりとした血の味が、鼻腔から桜樹の体内に侵入する。


 ちがう。


 距離があるから、血のにおいなど、するはずがない。


 だが。


 どくん。


 心臓がつよく収縮した。


 どくんどくんどくん。


 心音が、脳内でがんがんと響きだし、目の前がくらくらとまわりだし、よろめき、かべにもたれ、それでも体を支え切れずにずるずるとすべって、床に尻をつく。


 股間が生温かく濡れた。


 だれかが桜樹の肩に手をおいて、なにかを言っている。

 その声は、遠くに近くに響き、反響して、音が聞き取れない。


 ちがう。

 そうじゃない。

 死体が怖いんじゃない。

 この匂い。

 この味。

 オレは知っている。

 それはもっと。

 ずっと。


 オレは……。

 そう、オレは。


「うわああああああああ」


 桜樹は教授を突き飛ばし、消火用の赤いバケツにかがみこむと、胃の中のものを吐き出した。


 二度、三度、と胃液を吐き出して、ぜえぜえと肩で呼吸をしていると、長谷部教授がやけに冷めた目で自分を見下ろしていることに気がついた。


「どうしたの」


 黒髪の少年がもどってくる。


「志摩津のおちこぼれというのは本当らしい」


 教授はひとり言のように言うと、現場保存は鉄則だが、と呟きながら、教室の中に入って行った。

 奥の扉をあけ中に入ると、すぐにジーンズと、封のあけていないトランクスを持ってくる。


「向こうに洗面所がある。人が来る前に着替えなさい」


 桜樹が這いつくばったまま、だらだらと汚物で口を汚していると、


「こっち」


 散らかった本をひとまとめにして廊下に積み上げた少年が立ちあがった。桜樹が吐瀉したバケツを持ち上げる。


「藤木くんがしなくても」


 長谷部教授は不快そうに言ったが、


「非常事態でしょ」


 しれっと言って、藤木と呼ばれた少年は廊下の奥へ歩き出した。


 桜樹もあわてて後を追った。

 奥には、昔ながらの寒々しい洗面所があった。

 藤木少年は奥の、清掃用具入れを開き、シンクに吐瀉物を流して、バケツをすすいでいる。


「はやく着替えなよ」


 せかされて、桜樹は個室に入った。

 濡れた下着を脱ぎ、バッグの中からハンカチをとりだして体をぬぐい、着替えた。

 裾がやけに余る。

 なんであんな中年――いや、初老の男が桜樹より足が長いのかと、むかっとして個室を出、口をなんどもなんどもすすいでいると、


「裾、まくらない」


 藤木少年が見かねたようにしゃがみこんで、ジーンズの裾をまくりあげた。


「いいよっ、もうっ」


 足でふり払って、腹立たしげに洗面所から出た。

 長谷部教授は廊下で窓ガラスを背に腕組みをし、すらりと引き締まった足を伸ばして、考え込んでいた。

 桜樹たちが出てくると、


「ああ」


 と腕をほどき、


「守屋が下でほかの生徒たちといる。そちらに行っててくれ。間もなく警察も来るはずだ。ご家族にも連絡した。

 それと、志摩津桜樹くん」


 といちど言葉を区切ると、日に焼けた彫の深い顔を桜樹に向け、


「きみの受け入れについて、今日面談して決めるとのことだったけど、結論を今言った方がいいか」


 桜樹の頭が真っ白になった。


「面談……? 受け入れって?」

「正直なところ私は生徒を増やす気はないし、きみの今までの経歴からしても民俗学に興味があるとは思えない。

 ただ、志摩津家のご当主様の頼みをむげにもできないから、今日の面談で返事をすると志摩津のご当主様に言ったはずだが」


 桜樹は口をパクパクさせたが、声がでなかった。

 いま、結論を出されて、合格なわけがない。

 もちろん、ここに通いたいわけではない。

 だが、不合格になったからと、家に帰らさせてくれるはずがない。

 そうしたら、行く場所がなくなるだけ。


 今度こそ、本当の本気で、父や兄から殺されるかもしれない。


「で、でも、オレ」

「服は返さなくても」


 と教授が言いかけたとき、


「ストーーーップ」


 と、藤木少年が人差し指を教授に突き立てて、言葉を遮った。

 ぶあつい黒メガネの下で、漆黒の瞳をきらりと光らせる。


「なにもこんな時に決めなくてもいいでしょ。

 それより、教授、昨夜はここに宿泊?」

「いや、東京の本宅で」

「証明する人は?」

「家人とか……守屋も一緒だったし。まあ、電車の車掌とか、近所の人も会話したかな。

 アリバイ?」


 生徒にしてはずけずけとしたぶしつけな言い方だったのに、教授はまなじりにしわをつくって、笑みをみせた。

 藤木少年もにやりと笑う。


「そ、アリバイ。あって良かったね」

「どうだか。

 いい年した弟たちの兄弟げんかの仲裁で呼び出されたんだ。あまり人に言えたもんじゃない」

「へえええ」


 藤木少年は面白そうに言うと、


「行こ」


 と桜樹の手をひいた。


「きみ、探偵?」


 ときしむ階段を降りながら、桜樹は言った。


「は?」


 藤木少年はきょとんとする。


「なんかしゃべり方とか、……平気だし」


 血とか、死体、との単語を口に出せずにもごもご言うと、


「いろいろやっかいごとに巻き込まれる家系だからかなあ。慣れちゃったのかなあ」


 藤木少年は天井をあおいで、ため息をついた。

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