28.
秋彦が桜樹について出て行くと、広大な津久見邸はしんと静まり返った。
まるで巨大な棺桶。
津久見夏惟は純白のひんやりとしたシーツにくるまり、目をつむる。
昔の華やいだ光景が、断片的に浮かんでは消える。
戻りたい。
戻れない。
微かに空気が揺れた。
風だ。
彼はいつも風をまとっている。
しばらくその場でためらっていたが、志摩津吉鷹は音もたてずに歩み寄り、ベッドに腰をおろした。
秋彦が来たよ、といった。
「大きくなったな、びっくりした」
夏惟はシーツにくるまったまま、芋虫のようにもぞもぞと体を動かした。
吉鷹のジーンズにあごをのせ、次に耳をのせ、しっくりこないので、ごろりと転がり、あおむけになった。
大人になった志摩津吉鷹が夏惟を見下ろしている。
変わらない視線。
いつも夏惟を見守っていた。
戻りたい。
戻れない。
あの頃。
夏惟はシーツを口元まで引きあげた。
「秋のヤツ、ぶりっこしてたろ」
「そうなのか、オレは漏らししたり、涎垂らしてた記憶しかないからな。ああ、あと、あの騒ぎのときと。
とりあえず、人間並みになっているのでおどろいた」
くふっと、夏惟は笑った。
「秋、見え見えだから。桜樹の気をひきたくてか弱いふりして。
吹き出しそうになっちゃった」
吉鷹の長い、骨ばったゆびが夏惟のほおをたどった。
シーツをはがしながら首すじをなぞり、胸をおり、またゆっくりとなであげる。
夏惟はくびをねじり、吉鷹のおやゆびを咥えた。
舌で味わい、歯を立ててがじがじとかじる。
「また大学に戻るのか?」
「うーん……、溝近さんしだい。アイツにばれちゃったからなあ、つきまとわれるとうざい」
「ホント、惚れられてるな」
吉鷹は感心しているように、言う。
「シツコイよねえ。言ってよ、しつこい男は嫌われるってサ」
「なあ、お前が桃城大に行ったのって、碓氷……」
夏惟は漆黒の瞳を瞬くと、がじっと吉鷹の指を噛んだ。
吉鷹は微笑し、しばらく夏惟に指をかじらせていたが、
「今度こそ本気で津久見の当主の座、降りるんだな」
夏惟は志摩津吉鷹を見上げた。
「志摩津はどう思う?」
「ま、別にいいんじゃない。
お子ちゃまコンビでレベルは一緒だし、気があっているようだし。
周囲は後始末がそうとう大変になりそうだけど」
「志摩津も、次期当主の座を降りる、の?
いいの、桜樹に渡しちゃって?」
吉鷹はびっくりしたように、夏惟の顔をのぞき込んだ。
「当たり前だろ。
オレ、別に次期当主になりたかったわけじゃないし、夏惟のそばに居たかっただけだから。
夏惟が津久見の当主から降りるなら、別に興味ない。
て、ずっとそばに居て、そんなことも分からなかったのかよ」
「分からないよ、分かるわけないっ」
夏惟は吉鷹の手をはねのけて、がばっと起き上がった。
「志摩津だって僕のこと全然分かってないじゃない。
前だって僕が当主の座を降りたいっていうのに、絶対認めなくて」
「そりゃあ、やっぱり夏惟には夏惟にふさわしい地位に居てもらいたい。
それは、正直、今でもそう思っている」
夏惟は両手をシーツにくるんだまま、むーっと吉鷹を睨みつけた。
「自分が志摩津の当主になりたいから?」
吉鷹はカチンとして、真顔で夏惟を睨み返した。
「怒るぞ」
「僕だって怒っている。
志摩津はいつだって僕の話、聞いてない」
「オレがいつ」
「いつも、いつだって。
ほら、車のことだって、ぜんぜん分かってなかったじゃない」
あれは……。
吉鷹は澄んだ切れ長の瞳をまたたくと、
「ゴメンナサイ」
ぺこりと頭を下げた。
うむ、と夏惟は重々しくうなずく。
すぐに吉鷹は顔を上げ、
「で、でも、あのボロは勘弁してくれ。もすこし、小ぎれいなので……。ジャガーとかどう?
アウディもいいじゃない。
ほんとはフェラーリ・カリフォルニアがいいんだけど。
そっちの方が絶対に夏惟に似合うって。そうだ、色なんだけど、やっぱ白よりも」
すぐにでも車のパンフレットを取り寄せてきそうな勢いである。
夏惟はとっとっとと重心を横に傾けて、ごろんとベッドに転がった。
「ダメだ、こりゃ」
残り1話となりました。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
次作「ナルシスふたり(http://novel18.syosetu.com/n2607n/)」は8月31日21時から、約1ヶ月間掲載予定です。
かなり際どい話ですので、18禁指定BL、ムーンライトノベルズ掲載です。
苦手な方は次々作「10月の少年(http://ncode.syosetu.com/n3810n/)」を10月1日21時より掲載いたしますので、しばらくお待ちいただけるようお願い申しあげます。