26.
いつも外見第一。
身だしなみ最優先の吉鷹にしては珍しく道着がはだけ、全身から汗が滴っている。
(てことは)
よほど荒れ狂っていたのだ。
吉鷹の背後に累々と横たわった道場生たちは被害者なのだろう。
ふだん無感情無表情な吉鷹だが、それだけにキれた時は手のつけようがない。
やけにステーキハウスに長っ尻していたけど、もしかしたら蓉一たちは避難していたのかもしれない。
原因は容易に想像がつく。
背筋がぞーっと冷えた。
「ごめーん、お邪魔しました。
続けて続けて」
桜樹はかるーく言って秋彦の手を引いて逃げ出そうとしたが。
『志摩津だ、志摩津』
秋彦は嬉しそうに吉鷹に抱きついた。
吉鷹は御簾をまくり上げたままの姿勢で、硬直していた。
「……あ、きひこ?」
秋彦はこくんとうなずいた。
吉鷹はばさりと御簾を落とし、中へはいってきた。秋彦の真正面に立つ。
拳をあごにあて、まじまじと秋彦をみている。
「……大きくなったなあ」
ひとりごとのようにつぶやくと、手を目線のたかさで動かし、秋彦の身長をはかっている。
そういや秋彦のおむつを替えたとか何とか、言ってたっけ。いまですらこんなに可愛いのだから、ちっちゃい頃の秋彦は滅茶苦茶可愛いかっただろう。
ずっと小さいころから吉鷹が秋彦を見てきたのかと思うと、なんだかやけにムカムカしてきた。
「いま、いくつ」
秋彦が胸元でゆびをうごかした。
「あ。十五歳だって」
桜樹が通訳をした。吉鷹が不思議そうに桜樹を見る。
「なんで分かるんだ」
「手話。ほら、おれ、福祉部にいたから、中学の時。じゃんけんで負けて」
笑われると思ったが、吉鷹は、
「へぇ、人間、とりえがあるもんだな」
とあごに手をあて、感心したようになんどもうなずいている。
吉鷹が桜樹をほめる(?)のはこれがはじめて。
ひどく気色悪い。
吉鷹は瞳を左右に動かし、秋彦を見て、桜樹を見、また秋彦を見て、桜樹をみる。
「あァ、なる……そういうことか。
……それは、アリ、だろーな。ったく、言えよ」
とぶつぶつと言いながら、頭をかいている。
「え?」
「かっこ悪ぃ」
吉鷹はぼやくと、
「ま、頑張れよ」
と桜樹の髪をぐしゃぐしゃにかきまぜた。
「な、なんだよ、いきなり」
吉鷹は白い歯を見せると、ぱあんと拳を叩いた。
「よし。いっちょ、しごいてやる。
お前ら、道着に着替えてこいよ」
「えー、いいよ。
急に言われたって用意してないし」
もう長いこと道場に顔を出してない桜樹は、自分の道着や武具などとっくにどこかへ失くしてしまった。
「お前はオレのを使え。洗って返せよ。
秋彦のはあるだろう」
吉鷹は先ほどの隠し部屋へ入った。
棚にはきちんとたたまれた道着が重ねられて置いてある。
「津久見の嫡子の分はずっと置いてあるんだから」
吉鷹は空気にとけそうな声で言うと、一着の道着に触れた。
柔らかな、優しい眼の色をする。
きゅっと口元に笑みを浮かべると、手を滑らせて横の棚から道着一式を取り出した。
桜樹の手にしっかりと持たせる。
「着せてやれよ、ばあやさん」
どうしよう、と聞く前に、秋彦はするりと服を脱いでいた。
記憶をたどりながら道着を秋彦に着せて、自分も着替えると、おそるおそる道場に入った。
しんと静まり返った夜の道場。
吉鷹だけが背筋をのばし、坐していた。
静謐な空気が、凛と張りつめている。
ボロ雑巾のように転がされていた道場生たちは、解放してもらえたらしい。
秋彦は透明な瞳でぐるりと周囲を見渡すと、すたすたと御簾の前でぺたりと座りこんだ。
吉鷹が微笑を浮かべる。
そこが、秋彦の座るべき場所。
志摩津の道場での上座。
幼いころの桜樹は「御簾の奥には神様がいらっしゃる」と教わった。
志摩津の力と技は津久見のご当主を護す為のもの。善悪の判断も、是非の判断も、津久見ご当主の意志に基づく。
だからこそ、志摩津の当主は津久見の当主と様々な意味で共に居られることが、いちばんの条件。
能力や技術は次の条件で、志摩津当家においては血筋などにはなんの意味もなかった。
「どれからいく?」
吉鷹が言った。
志摩津式古武術十術。
柔術、剣術、空手術、十手術、捕手術、舞術、野術、兵法術、心理術、薬術
すべてを身につけているのは叔父貴や吉鷹、あとは各地の道場主のうちの幾名か。
ふたつ、みっつで範士を取れれば上出来な部類である。
いちおう桜樹も全てをやらされ、全てを忘れてしまった。
頭を使うものや武具を使うものは完全に、抜け落ちていて無理だ。
とすると、まだ体で覚えている、柔術か空手術だけど。
「いくか」
見透かしたように吉鷹が言って、立ち上がり柔術の構えをとった。
一点の隙も無駄もない構え。
ピンと張りつめた気迫。
一昔前の叔父貴のよう。
組み合うまでもなく、勝てるわけがない。
できれば、秋彦の前ではみっともないところを見せたくないのだけれど。
吉鷹も察して桜樹に花を持たせてくれないだろうか。
願望むなしく。
あっさりと投げ技を食らった。
倒れ込む間もなく引き起こされ、なんども道場の床にたたきつけられる。
手加減など、全くしていない。
意識が途切れると、水をかけられ、覚めさせられる。
吉鷹の、冴えた刃のような眼だけが、脳裏に喰いこんでくる。
(コイツ……本気だ)
今まで、散々、叔父貴や兄たちにしごかれていて、卒倒したのも一度や二度じゃないが、本気でかかってこられたことはない。
また意識を失い、冷水を浴びせかけられた。
すでに道場の床も水浸しである。
動きたくても、力がない。
もう指一本動かせやしない。
こんなんじゃダメだ。
オレ、もっと強くなりたい。
強くならなきゃ。
なんで今までだらけていたんだろう。
こんなんじゃ。
オレ、秋彦のそばに居られなくなっちゃうじゃないか。
ぼやける視界のなかで、白い影が動いた。
秋彦だ。
秋彦が桜樹を背に、庇うように立った。