24.
夏惟が一歩前へ出た。
くちびるの両端をつりあげ、微笑する。
漆黒の瞳が闇の色で煌めく。
紺野溝近に負けず劣らず、すさまじい気だった。
「溝近さんこそ、ホント、どこにでも出没するねぇ、ごきぶりみたい」
「言っておくが、こちらの計画が先だったンだぜ」
「でも、桃城大が長谷部教授のゆかりの地だとは知ってたんでしょ」
紺野溝近は酷薄そうなくちびるに微笑を浮かべ、髪をかきあげた。
「そりゃァな。
だが、誰が現役真っ盛りに第一線の現場を退いて、こんなド田舎の大学にやってくると思うか」
夏惟は甲高い声で笑った。
「で、目ざわりになったから、嫌がらせしたンだ。溝近さんらしいね」
男はにっこりとし、夏惟に歩み寄った。
ほおに触れ、耳もとから首筋までを愛おしげに撫でる。
見ているだけで総毛だつほど、淫らな指さきだった。
「世の中から引きこもって、廃人同様とも聞いていたが、ずいぶんと元気そうじゃないか」
紺野溝近の手のひらの中で、津久見夏惟は艶めかしい視線を流した。
「残念? それとも嬉しいのかしら」
「さてね」
溝近の指先が、夏惟ののどをたどり、顔を仰向かせる。
夏惟が力を抜いて身を任せているのを愛おしげに眺め、なでまわし、くちびるを重ねる。
溝近がくちびるを離すと唾液がつながり、また、ぬめった舌を夏惟のくちびるに突き刺す。
見ている方が達しそうな、口づけだ。
「溝近さん」
吉鷹がヒステリックな声をあげ、桜樹の首筋をつかむと強く押し出した。
桜樹はバランスを崩して、よろめき、鉄筋に手をつく。
ぜんぜん。
迫力が違う。
場に呑まれて、声も出ない。
「その辺で勘弁してもらえませんか、コイツ、好きにしていいですから」
「志摩津のガキか」
紺野溝近は桜樹に視線もくれずに言った。
「ずいぶんと、自分のご主人さまを安売りするようになったじゃないか」
ぐっ、と吉鷹が声につまった。
吉鷹が殺気をはなつのを、夏惟はしなやかに腕をのばして遮った。
「溝近さん、前から言っている。志摩津はぼくの友だちだよ」
くくく、と溝近は喉の奥で笑った。
「津久見の若さまの従者想いは相変わらずか」
「ずっと変わらない、みんな僕の友だちだ」
溝近のくちびるに勝ち誇った微笑が浮かんだ。
「みんな?」
「そ」
「碓氷透も安威美有夷も?」
吉鷹の顔がかっと朱にそまったが、夏惟は表情をかえなかった。
だが、答えはしなかった。
紺野溝近はひびく声で笑った。
「今日は気分がいい。
こんな愉快な気分は久しぶりだ」
津久見夏惟は腕を組んで、真正面から紺野溝近を見すえた。
「じゃ、気分が良くなってもらったところで、本題。
要求は」
紺野溝近はにやりと性質の悪い笑みをみせた。
「こっちの計画、進めさせてもらう。
妨害から手を引かせろ」
「しょうがないね」
「それとウチの大学にも、長谷部時宗殿に講義を持っていただく。
かわりにウチの学長をそちらにも派遣しよう。
共存共栄でいこうじゃないか」
夏惟は否定も肯定もしない。
視線を伏せ、冷たい風に黒髪を嬲らせている。
紺野溝近はまた響く声で笑った。
溝近が身をひるがえすと、どこからともなく、黒服の恰幅のよい男たちが十名ほどあらわれ、溝近につき従う。
ぎょっとしたのは桜樹だけで、夏惟も吉鷹も分かっていたかのように、無反応だった。
男たちとともに紺野溝近が去ると、
「げー、うげーっ、気色悪っ」
津久見夏惟は体をまるめ、げーげー、うなりながらぺっぺと唾を吐き散らかした。
「だから止めてやったろ」
吉鷹は苦り切った顔でいう。
夏惟はごしごしと口を拭い、げーげー、騒ぎながら、
「いっつも思うんだけど。ぼくって愛されているのかしら、憎まれているのかしら。ワケ分かんないよねえ、あの人」
「そ、う、思、う、なら、頼むからっ、お願いするからっ、紺良になんて関わらないでくれよっ」
吉鷹がわなわなと体を震わせながら言った。
「だから、向こうが絡んでくるんだって。
知っているでしょ」
「倍返しとか、もういい加減やめろ。
三倍返しとか、十倍返しとか数増やすのも禁止!」
「はいはーい」
吉鷹はまったく信用していない、冷めきった視線を流し、
「この建物ぶちこわしてやろっかな」
つま先で鉄板を蹴った。
カン、とよい音が響く。
「志摩津」
呆れたように、夏惟がたしなめた。
「聞いているんだろ。初代学長。アイツ、よりにもよって紺野溝近と組むなんて……それで、それで、こんなにバカにされて」
ぎりりと吉鷹が歯ぎしりをする。
夏惟は漆黒の瞳を細めた。
荒い風に黒髪が流れ続けている。
「逆だ。
ぼくが先にみんなを裏切った。知っているはずだ」
夏惟はにっこりとすると、へたりこんでいた桜樹に手を差し伸べた。
「気にしなくていいよ、溝近さん、人を見る目はないから」
情けない。
自分が情けなかった。
椎の仇を取ってやるまでとはいかなくても、なにかできると思っていた。
気に呑まれ、嫌みを言うことすら、できなかった。
涙がぼろぼろと零れる。
「あー、怖かったよね。
だから言ったでしょ、ヤな奴だって」
夏惟によしよしと涙を拭われ、桜樹が立ち上がるのを吉鷹はじっとみていたが、
「夏惟、はずしてくれないか」
とさみしげな顔でいった。
「嫌」
津久見夏惟はきっぱりといった。
目を細め、からかうように吉鷹を見て、
「ダメだよ」
という。
「これは志摩津の問題だ」
吉鷹の手にはいつの間にか小刀が握られていた。
視線はまっすぐに桜樹に向けられている。
「オレは孤児だ。
だが、ずっと志摩津の家でご当主さまにも、家長さまにも、良くしていただいた。こんな決断をさせるわけにはいかない。
手を下すのはオレでいい」
「だから、溝近さんにあげようとした? そうすれば命だけは助かる理由ができるって」
吉鷹は無言で桜樹をみつめていた。
憎しみや怒りがあるならいい。
憐れみだった。
桜樹を憐れんで、哀しんでいる。
もう怒鳴りもしなければ、怒りもしない。
桜樹の全身から力が抜けた。
たぶん。
本当に、もうダメなんだ。
すっと、昔の記憶がよみがえってくる。
叔父の道場で、ふたりの兄たちと訓練をうけていたころ。
いつの間にか、吉鷹が志摩津家に養子として、現れていた。
桜樹の身代わりとして。
はじめはおない年生まれた桜樹が、津久見夏惟の執人になるはずだった。だが、三人兄弟の甘ったれの末っ子で、すぐに桜樹には性格的にも能力的にも無理があると判明した。
そこで孤児で才能のある吉鷹に白羽の矢を立て、志摩津の名を与える代わりに、一生津久見の若様に仕える役目を与えた。
吉鷹の人生にははなから自由はなかった。
行動も将来もすべてが決められていた。
だから吉鷹が怖かった。
無表情の下に、桜樹への怒りや恨みつらみがあるのではないか。
けれど。
コイツ、若さまのことが好きなんだ。
若さまも、イイやつだった。
ほっとした。
心底、ほっとした。
だから。
もういいよ。
オレ、みんなの迷惑になるばかりで、なんの役にも立たないし。
夏惟が桜樹を背に、吉鷹の前に立ちふさがった。
「セコイ真似してくれたじゃン。
そんなの紺野溝近に通用するわけないじゃない」
吉鷹がぎくりとし、うろたえた。
ぱくぱくとくちびるを動かすが、声はない。
「おかげで、この僕もバカにされたよ」
吉鷹はいまや蒼白だった。
「桜樹はぼくがもらう。それと今、志摩津家に帰れないんだって? それ、取り消してね。
御当主さまへ伝言よろしく」
「夏惟、なにをいっている」
吉鷹は悲鳴のように叫んだ。
「オレのどこが桜樹に劣るってんだ、オレはずっと努力してきた。絶対に執人の地位は渡したくなかった。
夏惟、お前のそばに居るために」
「そーゆーとこ」
んべ、と夏惟は舌を出した。
いきなり桜樹の手首を握って駆け出す。
下まで一気に降りると真っ赤な丸っこいコンパクトカーが止まっていた。
コルトリミテッド レッドメタリック
運転席には、少年の姿に戻った東祁鶯円が座っている。
「松芳さまから車が届きましたので、守屋さまの命でお届けに参りました」
「ちょうど良かったぁ」
夏惟は桜樹のからだを押し込むようにして、一緒に後部座席に乗り込んだ。
「帰ろ。
お家に、帰るんだ」
透けるような笑顔で夏惟は言った。