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桜散る  作者: 夏野梨生
25/30

24.

 夏惟が一歩前へ出た。

 くちびるの両端をつりあげ、微笑する。

 漆黒の瞳が闇の色で煌めく。

 紺野溝近に負けず劣らず、すさまじい気だった。


「溝近さんこそ、ホント、どこにでも出没するねぇ、ごきぶりみたい」

「言っておくが、こちらの計画が先だったンだぜ」

「でも、桃城大が長谷部教授のゆかりの地だとは知ってたんでしょ」


 紺野溝近は酷薄そうなくちびるに微笑を浮かべ、髪をかきあげた。


「そりゃァな。

 だが、誰が現役真っ盛りに第一線の現場を退いて、こんなド田舎の大学にやってくると思うか」


 夏惟は甲高い声で笑った。


「で、目ざわりになったから、嫌がらせしたンだ。溝近さんらしいね」


 男はにっこりとし、夏惟に歩み寄った。

 ほおに触れ、耳もとから首筋までを愛おしげに撫でる。

 見ているだけで総毛だつほど、淫らな指さきだった。


「世の中から引きこもって、廃人同様とも聞いていたが、ずいぶんと元気そうじゃないか」


 紺野溝近の手のひらの中で、津久見夏惟は艶めかしい視線を流した。


「残念? それとも嬉しいのかしら」

「さてね」


 溝近の指先が、夏惟ののどをたどり、顔を仰向かせる。

 夏惟が力を抜いて身を任せているのを愛おしげに眺め、なでまわし、くちびるを重ねる。

 溝近がくちびるを離すと唾液がつながり、また、ぬめった舌を夏惟のくちびるに突き刺す。

 見ている方が達しそうな、口づけだ。


「溝近さん」


 吉鷹がヒステリックな声をあげ、桜樹の首筋をつかむと強く押し出した。

 桜樹はバランスを崩して、よろめき、鉄筋に手をつく。


 ぜんぜん。

 迫力が違う。

 場に呑まれて、声も出ない。


「その辺で勘弁してもらえませんか、コイツ、好きにしていいですから」

「志摩津のガキか」


 紺野溝近は桜樹に視線もくれずに言った。


「ずいぶんと、自分のご主人さまを安売りするようになったじゃないか」


 ぐっ、と吉鷹が声につまった。

 吉鷹が殺気をはなつのを、夏惟はしなやかに腕をのばして遮った。


「溝近さん、前から言っている。志摩津はぼくの友だちだよ」


 くくく、と溝近は喉の奥で笑った。


「津久見の若さまの従者想いは相変わらずか」

「ずっと変わらない、みんな僕の友だちだ」


 溝近のくちびるに勝ち誇った微笑が浮かんだ。


「みんな?」

「そ」

「碓氷透も安威(あい)美有夷(みゅうい)も?」


 吉鷹の顔がかっと朱にそまったが、夏惟は表情をかえなかった。

 だが、答えはしなかった。

 紺野溝近はひびく声で笑った。


「今日は気分がいい。

 こんな愉快な気分は久しぶりだ」


 津久見夏惟は腕を組んで、真正面から紺野溝近を見すえた。


「じゃ、気分が良くなってもらったところで、本題。

 要求は」


 紺野溝近はにやりと性質の悪い笑みをみせた。


「こっちの計画、進めさせてもらう。

 妨害から手を引かせろ」

「しょうがないね」

「それとウチの大学にも、長谷部時宗殿に講義を持っていただく。

 かわりにウチの学長をそちらにも派遣しよう。

 共存共栄でいこうじゃないか」


 夏惟は否定も肯定もしない。

 視線を伏せ、冷たい風に黒髪を嬲らせている。


 紺野溝近はまた響く声で笑った。


 溝近が身をひるがえすと、どこからともなく、黒服の恰幅のよい男たちが十名ほどあらわれ、溝近につき従う。

 ぎょっとしたのは桜樹だけで、夏惟も吉鷹も分かっていたかのように、無反応だった。


 男たちとともに紺野溝近が去ると、


「げー、うげーっ、気色悪っ」


 津久見夏惟は体をまるめ、げーげー、うなりながらぺっぺと唾を吐き散らかした。


「だから止めてやったろ」


 吉鷹は苦り切った顔でいう。

 夏惟はごしごしと口を拭い、げーげー、騒ぎながら、


「いっつも思うんだけど。ぼくって愛されているのかしら、憎まれているのかしら。ワケ分かんないよねえ、あの人」

「そ、う、思、う、なら、頼むからっ、お願いするからっ、紺良になんて関わらないでくれよっ」


 吉鷹がわなわなと体を震わせながら言った。


「だから、向こうが絡んでくるんだって。

 知っているでしょ」

「倍返しとか、もういい加減やめろ。

 三倍返しとか、十倍返しとか数増やすのも禁止!」

「はいはーい」


 吉鷹はまったく信用していない、冷めきった視線を流し、


「この建物ぶちこわしてやろっかな」


 つま先で鉄板を蹴った。

 カン、とよい音が響く。


「志摩津」


 呆れたように、夏惟がたしなめた。


「聞いているんだろ。初代学長。アイツ、よりにもよって紺野溝近と組むなんて……それで、それで、こんなにバカにされて」


 ぎりりと吉鷹が歯ぎしりをする。

 夏惟は漆黒の瞳を細めた。

 荒い風に黒髪が流れ続けている。


「逆だ。

 ぼくが先にみんなを裏切った。知っているはずだ」


 夏惟はにっこりとすると、へたりこんでいた桜樹に手を差し伸べた。


「気にしなくていいよ、溝近さん、人を見る目はないから」


 情けない。

 自分が情けなかった。


 椎の仇を取ってやるまでとはいかなくても、なにかできると思っていた。


 気に呑まれ、嫌みを言うことすら、できなかった。


 涙がぼろぼろと零れる。


「あー、怖かったよね。

 だから言ったでしょ、ヤな奴だって」


 夏惟によしよしと涙を拭われ、桜樹が立ち上がるのを吉鷹はじっとみていたが、


「夏惟、はずしてくれないか」


 とさみしげな顔でいった。


「嫌」


 津久見夏惟はきっぱりといった。

 目を細め、からかうように吉鷹を見て、


「ダメだよ」


 という。


「これは志摩津の問題だ」


 吉鷹の手にはいつの間にか小刀が握られていた。

 視線はまっすぐに桜樹に向けられている。


「オレは孤児だ。

 だが、ずっと志摩津の家でご当主さまにも、家長さまにも、良くしていただいた。こんな決断をさせるわけにはいかない。

 手を下すのはオレでいい」

「だから、溝近さんにあげようとした? そうすれば命だけは助かる理由ができるって」


 吉鷹は無言で桜樹をみつめていた。

 憎しみや怒りがあるならいい。

 憐れみだった。

 桜樹を憐れんで、哀しんでいる。

 もう怒鳴りもしなければ、怒りもしない。


 桜樹の全身から力が抜けた。

 たぶん。

 本当に、もうダメなんだ。

 すっと、昔の記憶がよみがえってくる。

 叔父の道場で、ふたりの兄たちと訓練をうけていたころ。

 いつの間にか、吉鷹が志摩津家に養子として、現れていた。


 桜樹の身代わりとして。


 はじめはおない年生まれた桜樹が、津久見夏惟の執人になるはずだった。だが、三人兄弟の甘ったれの末っ子で、すぐに桜樹には性格的にも能力的にも無理があると判明した。

 そこで孤児で才能のある吉鷹に白羽の矢を立て、志摩津の名を与える代わりに、一生津久見の若様に仕える役目を与えた。


 吉鷹の人生にははなから自由はなかった。

 行動も将来もすべてが決められていた。

 だから吉鷹が怖かった。

 無表情の下に、桜樹への怒りや恨みつらみがあるのではないか。

 けれど。

 コイツ、若さまのことが好きなんだ。

 若さまも、イイやつだった。

 ほっとした。

 心底、ほっとした。


 だから。

 もういいよ。

 オレ、みんなの迷惑になるばかりで、なんの役にも立たないし。


 夏惟が桜樹を背に、吉鷹の前に立ちふさがった。


「セコイ真似してくれたじゃン。

 そんなの紺野溝近に通用するわけないじゃない」


 吉鷹がぎくりとし、うろたえた。

 ぱくぱくとくちびるを動かすが、声はない。


「おかげで、この僕もバカにされたよ」


 吉鷹はいまや蒼白だった。


「桜樹はぼくがもらう。それと今、志摩津家に帰れないんだって? それ、取り消してね。

 御当主さまへ伝言よろしく」

「夏惟、なにをいっている」


 吉鷹は悲鳴のように叫んだ。


「オレのどこが桜樹に劣るってんだ、オレはずっと努力してきた。絶対に執人の地位は渡したくなかった。

 夏惟、お前のそばに居るために」

「そーゆーとこ」


 んべ、と夏惟は舌を出した。

 いきなり桜樹の手首を握って駆け出す。


 下まで一気に降りると真っ赤な丸っこいコンパクトカーが止まっていた。


 コルトリミテッド レッドメタリック


 運転席には、少年の姿に戻った東祁鶯円が座っている。


「松芳さまから車が届きましたので、守屋さまの命でお届けに参りました」

「ちょうど良かったぁ」


 夏惟は桜樹のからだを押し込むようにして、一緒に後部座席に乗り込んだ。


「帰ろ。

 お家に、帰るんだ」


 透けるような笑顔で夏惟は言った。

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