23.
「ちょいと待ったァ」
守屋に襟首を捕まえられた。
離れた場所にいたはずなのに。素早い。
「も少し、空気読めない?」
呆れかえったようにため息をつく。
長谷部時宗教授がかがんで、桜樹に視線を合わせた。
にっこりと笑みを浮かべる。
「足手まとい、って言葉があるんだけど、知っているかな?」
もはや小学生扱いである。
むくれて教授を睨みあげる。じたばたともがいても、守屋の手は外れない。
靴音を立てて、志摩津吉鷹は振りかえった。
じっと桜樹の奥底まで抉るように見る。
「来い」
刃のような声だ。
「構わないな?」
「任せる」
夏惟が短く応じた。
桜樹は守屋の手を振りほどき、二人を追った。
妖怪校舎の前には、吉鷹の純白のBMWが止まっていた。さほどぬかるんではいないとはいえ、跳ねあげた泥が純白の車体にいくつもついている。
だが、まったく吉鷹は気にしてないようだ。
いそいそとBMW M3クーペの助手席のドアをあけている。分かっちゃいるが、桜樹の時と露骨に差がある。
だが。
「これ?」
と夏惟は顔をゆがめて車の横に立ちすくんだ。
「先月買ったばかりなんだ。エンジンが」
吉鷹は自慢げにしゃべるが、
「ちょっと……」
と夏惟は言いよどみ所在なげに、デイパックの肩ひもをいじった。
「え」
「目立ちすぎやしない、かなあ、なんて」
桜樹は心の中でガッツポーズをとった。
そうだ。
その通りだ。
目立ちすぎ。
はっきりいって、悪趣味である。
若さま、よく言ってくれた、としみじみと夏惟を見直した。
だが。
「えええええっ」
吉鷹は予想してなかったのだろう。
「だって、お前、白い車に乗りたいって言ってたじゃんっ」
声を張り上げていった。
夏惟は首をぽてっと傾げた。漆黒の眼をぱちぱち瞬いている。
「ほら、いつも。学校に行くのが黒塗りのリムジンだったから。白い車に乗りたいって、言ってて。
だからオレ、白にして」
ああ、と夏惟はぽんと手をたたくと、
「ああゆうの」
と、傍ら止まっていた守屋の、古い、汚れた白のファミリーセダンを指した。
吉鷹は口をあんぐりひらき、硬直した。
アイデンティティを消失したようだ。
「あ、いや、志摩津は車でいけばいい。ぼくたちバスで行こう。じゃ、現地集合で」
夏惟はにっこりとして、桜樹の手を握り、ひいた。
「え、でも、まってよ」
桜樹はあわてて時刻表をひらいた。
やはり予想通り。バスはいったばかりで、あと小一時間は来ない。
「ありゃ」
夏惟は困った顔をした。
「うっそお、間に合うと思ったのに」
聞えよがしにいうが、吉鷹は車のわきに立ったままだ。
どおしよう、困ったなあ、と、通る声で、夏惟は言い続けるが、吉鷹は意固地に聞こえぬふりを続ける。
そういう状況じゃないはずだ。
守屋や教授を呼んで見せたい。
オレよりこっちの方がはるかにガキっぽいじゃないか。
「じゃあ、よっしぃの車で行かない」
たまりかねて、桜樹が言った。
ううん、でもぉ、とぐずる夏惟の手をとって、吉鷹のところへひっぱった。
「よっしい、バス行っちゃったんだ。乗せてよ」
ボンネットに肘をつき、むくれていた吉鷹はじろりとみると、
「乗りたくないンだろ」
とつっけんどに言う。
「ウン」
素直に若様が返事をするのをあわててさえぎり、
「あのう、でも、急いでいるんだよね」
と夏惟をなだめた。
「そりゃあ」
「だ、だからね、今日のところは、よっしいの車で行こ」
「そお? じゃ、そうしよっか」
桜樹が夏惟を説得したのに、吉鷹は感謝するどころかあからさまに不機嫌になった。
桜樹の頭をつかみ、モノを投げるように、後部座席に押し込む。
ヤツ当たりだ。
そもそも吉鷹のセンスに問題がある。
誰だって、男同士でこんな派手な車に乗りたくない。
桜樹がいなかったらこいつらどうするつもりだったのか。
そんな桜樹の気も知らずに、助手席でシートベルトをつけた夏惟は、狭いねえ、あまり座り心地良くないねえ、とのどかに感想を言う。
その感想自体はまったくもってその通りだが、運転手は吉鷹である。桜樹がはらはらしていると、吉鷹は鬱憤をはらすように、強くアクセルを踏み込んだ。
がくんと車体が揺れる。後部座席の桜樹はたまったものではない。
「でさ、なんで桜樹を連れていくの」
と夏惟は言った。
「手土産」
不機嫌な吉鷹はぶっきらぼうに回答する。
「え?」
「紺野溝近に」
吉鷹の言葉に、なにがツボにはまったか、夏惟はけたけたと腹を抱えて笑うと、
「いいのォ?」
後部座席をふりかえって桜樹をみた。漆黒の瞳がきらめく。
くちびるに指をあてると、うふ、と肩をすくめた。
「溝近さん、ド変態だよ。
まァ、死んで帰れればラッキー、みたいナ」
「じ、冗談、だよね」
「さあ」
と前に座ったふたりは同時にいった。
「て、その人、どういう人なの?」
「臭い」
夏惟が即答した。
「ぜったい、アイツ、腋臭だよな。ナ、ナ、ナ」
「知るか」
吉鷹の返事はそっけない。
「でもって、アホ、バカ、カバ。
そうだカバ面、カバそっくり。いい年して若づくりだし」
「あのう、そういうことじゃなくて」
おずおずと桜樹が言うと、バックミラー越しにちらりと吉鷹が桜樹を見た。
「紺良会長の孫息子。
男系の血族を重んじる紺良一族の中では、サラブレッド中のサラブレッド。
品行に問題がありすぎて、父親からは勘当寸前だが、会長の嫡孫のなかではいちばん力があるとも言われている。
要は『取扱厳重注意』ということだ」
あ、いーね、その言い方気に入った。
ついでにそのまま南極に発送しちゃえ、と夏惟が助手席ではしゃいだ。
吉鷹が止めたのは紺良宇宙科学技術大学建設予定地。
途中まで着工して、計画が中断しているらしい。
高く組まれた、鉄筋の枠だけが寒々しくそびえたっている。
工事現場のエレベーターに乗り、上に上がる。
鉄筋で組まれた骨組の中央に、男はスプリングコートの裾を風になびかせ、夕陽を背にひとりで立っていた。
心臓がどきりと鳴く。
肩幅ががっしりとした見惚れるほど長身の、若い男だ。
艶やかな髪がほおの長さで切りそろえられており、男の動きにあわせてゆれる。
紺野溝近は眼を細めて、笑顔を見せた。
笑っているのに、全身から殺気がはなたれている。
距離があっても嗅ぎとれる、男くさいコロンの香りにくらくら目眩がする。
吉鷹ですら、この男に見比べると、華奢なお子さまにしか見えない。
「よぉ、ちび。大きくなったな」
甘い官能的な声が言った。