21.
「ええ、ええええっ。
つ、つくみのわかさま……」
ざあああああっと血の気が引く。
妙なざわざわ感と懐かしさがあるし、マメに世話してくれるから、てっきり志摩津の血族かなにかと思っていた。
志摩津家の主君筋。
千年以上にわたって仕えてきた主。
なにより。
よっしいの大切なご主人様だ。
(ど、どうしよ……)
(オレ、リンチにあう、いや、殺されるかも)
顔色どころか、顔ごと失いかけくらくらしていると、教授が苦笑しながらいった。
「正直なところ、志摩津家がなにかを嗅ぎつけてきみをよこしたんだと思っていたんだ。なんやかんや理由をつけてね」
桜樹はぶんぶんぶんと首を振った。
「そ、そ、そんな……そんな器用なこと、オレにできるわけない……」
うんうんうん、と、皆がそろってうなずいた時。
バン、と音をたててドアが開いた。
立っていたのは、志摩津吉鷹だった。
片手を引き戸口にあてて、ぜーぜー息を切らしている。
ダークグレーのスーツに、ネクタイをきっちりと締めているが、髪は乱れ、汗だくだ。
らしくない。
本当に吉鷹? と桜樹が目をこすると、
「かあああああいいいいいい」
吉鷹が絶叫した。
うげ、と夏惟が身をすくめ桜樹の陰に隠れようとしたが。
吉鷹が、がっちりと夏惟の両腕をつかんでいた。
「お前、こンなところで何やってんだよっ」
つばをちらして吉鷹が叫んだ。モデル張りの二枚目が台無しだ。
らしくない。
あまりに、吉鷹らしくない。
「社会勉強?」
夏惟はくちびるに指をあてると、うふ、とかわいらしげ肩をすくめた。
「どの口がそんなこと言うンだ。だいたい、紺良なんかに関わってんじゃねェっ」
吉鷹はぎっ、と夏惟の両ほおを思いっきり握った。
「ひょひょれは、ひょくじゃなく……」
夏惟がばたばたともがいた。
「ひょ、ひょんなことより、ひょんかいのこと」
「ああ、話はつけてきた。そのくらい片付けずに夏惟の前に顔を出せるかっての」
吉鷹は歯を見せて笑うと、夏惟の頬から手をはなした。
目の錯覚じゃない。
ほおを上気させ、ふん、と鼻をこすり、子供のような顔で笑っている。
(こいつ、笑えるんだ)
はじめてみる吉鷹の、人間らしい表情だった。
まなじりにしわを作って笑った視線が。
夏惟に触れる指先が。
志摩津吉鷹にとって、どれだけ大事な存在なのか、苦しくなるほどに伝わってくる。
夏惟は赤く染まったほおを両手でくるみ、ひどい、玉のお肌に、とぶーぶー文句を言った。
「にしても、早かったねえ」
「松ちゃんから村上の件、一報受けてすぐ、こっちに来てたんだよ」
吉鷹はキュッとネクタイを締め直し、髪を整えると、長谷部時宗の前に立ち、さっと頭を下げた。
ピシッと直角に体が曲がる。
逆光のシルエットが、細身の長身をさらに強調して、絵のようだった。
「時宗さま、はじめまして。
志摩津吉鷹と申します。
このたびは当家のことで諸々ご迷惑をおかけし申し訳ありません」
長谷部時宗はぽかんと口をあけていた。
「時宗さま?」
と守谷が教授のまえで手をひらひらさせる。
長谷部時宗は、
「いい男だなァ」
とつぶやいた。
「は?」
吉鷹が聞き直した。
「いや、仁資たちから話は聞いていんだが……、あまりに違うんでびっくりした。婿に来てもらえないかな」
「違う?」
「そりゃあ」
守谷がくくくと笑って、桜樹と吉鷹を指す。
吉鷹の外向けの笑顔が凍りついた。にっこりとひきつった笑みを浮かべ、
「話は伺っています。
桜樹がいろいろとご迷惑をおかけした、のですね?」
と語尾をあげてたずねた。
いやいやいや、と教授が両手を振った。
「すごく楽だった。楽すぎてかなり不安だったというか、余計に勘ぐってしまったのだが。
まさか、志摩津本家の直系が、津久見の当主と一緒にいて気付かないなんて想像外だった。いくら演技といっても、吐瀉物の始末を津久見の当主にとっさにさせられないだろう」
吉鷹の肩がぴくっと震えた。
「そーそー。ジーンズの裾まくってあげようとしたら、蹴りいれられるし。
引越しの手伝いはさせられるし、お茶はいれさせられるし、あとは夜一人じゃ寝れないとか。とにかく手間がかかってかかって。
甘やかしすぎなんじゃない」
夏惟が恩着せがましく言って、手を広げてひとつひとつ数えていく。
「へええええ?」
吉鷹が絶対零度の視線で、振り向きざまに手を伸ばした。桜樹は身をすくめたが、吉鷹の手は素通りして、夏惟の襟首を締めあげた。
「なーにを自慢げに言ってんだ。
オレが何度、秋彦のゲロやお漏らしの始末したと思ってんだ」
「えと、三回くらい?」
うふ。
と夏惟はかわいらしく小首をかしげて、にっこりという。
「数百回はしてるだろっ」
ぎりぎりぎりと、吉鷹が夏惟の襟首を締めあげている。
「いーじゃん、秋は可愛いんだから」
「オ、ウ、ジュ、だって可愛いだろっ」
「あー可愛い、可愛い、けど大人じゃん」
ばたばたと夏惟はもがいて、吉鷹の手から逃げ出した。
吉鷹はぴたりと動きを止めると、握ったこぶしを顎にあて、じっと夏惟をみた。ちらりと、桜樹に視線を走らせる
「『フジキ』?」
「さっきまで、藤木海だった」
桜樹が言ったとたん。
「ちゃんとフルネームを言えっ」
ぼかりとすごい勢いで桜樹の頭を殴った。
目の前を星がちかちかしている。
「え、ええ~っ。
だって、そんなの知らないもんっ」
うふうふふ、と夏惟は両手で口元をおさえると、漆黒の瞳でにこにこ笑っている。
「いやあ、志摩津が家の前にきた時はびくびくしちゃったァ。
いちばんビビったのは、松芳サンがクラスに入ってきた時だけど」
「アレには私も吃驚した。
とっさに松芳君を遠ざけようと、きつく当ってしまった。
申し訳なかったと伝えてほしい」
苦笑いしながら時宗教授が言う。
「あー、松ちゃんは別にいいと思うけど」
と言いながら、吉鷹は柊まどかに体を向けると、スカートを思いっきりめくり上げた。
白い下着と細い足がむき出しになる。
吉鷹はぺたりと下腹部に触れた。
「わっ」
柊が声を上げて、あわてて両手で口をおさえた。
(声、出るんだ)
(てか、この声……)
ぐらぐらと眼の前が回り、力が抜けていく。
吉鷹は片手を腰にあて、胡散臭そうに柊を見ている。
「おまえ、東祁鶯円だな」
「ご無沙汰しております」
柊まどかこと東祁鶯円は、少年の声で、優雅に一礼をした。
「こっちが長谷部の密偵か」
「さすがに津久見の若さまがいるのに、徒手空拳というわけにもいかないからな。
ただし、夏惟さまが目立つのを嫌がられたので、志摩津にもいた守屋ならいざというとき腕も立つし、東祁鶯が唖の少女のふりをしていると誰も警戒しないし、この二人だけ配置した。
東祁鶯には夏惟さまの指示で水戸部にはりついていてもらってたんだが」
「えーっ、じゃあ、藤木くん、じゃなくて夏惟さま、ずっと水戸部って分かったの。
どうして」
桜樹がいうと。
「そりゃあ顔でしょ」
「顔だな」
夏惟と吉鷹がどうじに言い、互いに顔を見合わせてぱちんと手のひらを合わせている。
志摩津家の次期当主として吉鷹が津久見の若さまの近習となり、その生涯をかけて忠誠を誓っているのは知ってはいたが、主従関係というより、単に仲の良い友人のようにみえる。
吉鷹はすっと立ち位置を変えた。
夏惟から離れ、背を本棚に、戸口と窓と、夏惟を見渡せる場所に立つ。
(あァ、そうか……)
守屋と東祁鶯の身元を確かめたからだ。
この空間の一部を、ふたりに預け、もっとも効率のよいフォーメーションをとる。
それまではじゃれていふざけているようでいて、夏惟に手の届かない場所まで離れなかった。
それがもう身についている。
ずっと、そうやって大事なご主人様を護ってきたのだ。
「それで」
と吉鷹は夏惟に向かって顎をしゃくった。
行動は殊勝だが、態度はでかい。
「なんで、お前がここにいるんだ」