14.
「よっしぃ、なんだよ。この音楽」
『どこにいるんだ。スーツ持って来たのに』
「スーツ? なんで」
『友だちが亡くなったと聞いた。葬儀に行くんじゃないのか。
家の玄関にかけて置いておく。それと』
「あ、ちょっと待って、すぐ行く」
桜樹は藤木海に従兄が来たからと断って、廊下に出た。
さすがの吉鷹も、吃驚した顔をした。
仕事帰りか。
すらりとした九頭身の長身に、光沢のある、グレーのソフトスーツを着ている。
いつもながら癪に障る、端正な顔立ち。
どうやったって、警察官僚には見えない。
知らない人は、芸能人かモデルと思うだろう。
認めたくはないけれど、桜樹が知る限り、吉鷹よりいい男は存在しない。
椎に、見せてやりたかったと思う。
「なんでそんなところにいるんだ」
ちらりと視線を走らせ、「藤木」という表札を確認している。
「同じゼミのコのウチ」
「挨拶しておく」
吉鷹が藤木海の部屋に行こうとするので、
「やめてよ、恥ずかしい」
あわてて吉鷹を遮って、桜樹の部屋に押し込んだ。
「同じゼミに『フジキ』なんていたか?」
「生徒じゃなく、図書館のアルバイト。
教授や守屋さんとすごく仲が良くて、ゼミにも参加しているんだ」
フン、と吉鷹は鼻を鳴らした。
桜樹の言葉など、この男はほとんど信用していない。
玄関に立ったまま、靴を脱がずに、スーツバッグを桜樹に突き出した。
「急だからオレが前に着ていたヤツだけど、ないよりマシだろう。
不祝儀袋はそのまま出せばいいようになっている。
数珠も一応入れてある。ウチじゃ本来使わないが、世間に合わせるために使いたきゃ使え。
それと」
吉鷹は手にしていた紙袋を、桜樹の頭の上でひっくり返した。
白いブリーフが何十枚も桜樹に降りそそぎ、床に散らばった。
頭に乗ったブリーフを、桜樹は慌てて払いのけた。
「なんだよ、これっ」
「パンツがないって聞いたから」
「い、いや。パンツは足りてる」
「洩らしたから足りなくなったんじゃないかって、松ちゃんがすごく心配してたんだが」
「それはオレじゃなくて、オレがパンツを売ってくれって言われたんだよ」
志摩津吉鷹はありありと嫌な顔をして、桜樹を見下ろした。
「お前、パンツを売ってんのか。
お前のパンツなんかよく買うヤツがいるな。いくらで売れたんだ」
「だからオレのパンツじゃねーって。教授のパンツを売ってくれって言われたんだよ。
つかパンツパンツなんども言わせんなよ、恥ずいだろっ」
吉鷹は面倒くさそうな顔をし、
「用件はそれだけだ」
背を向け、出て行こうとした。
桜樹は思わず、吉鷹の腕をつかんだ。
不機嫌そうな顔で振り返る。
「キスして」
「はあ?」
仏頂面が、益々仏頂面になった。
「キスしてよ」
桜樹が強く言うと、断るのも面倒になったか、吉鷹は桜樹の腰を荒く抱き寄せた。
背骨が、体内できしむ。
熱い舌を奥までねじ込まれ、息が止まる。
(熱い……)
(熱くて、意識が遠くなる……)
たぶん、椎行凪が求めていたのはこの感触。
大人の男に成りたくて、憧れて。
あんなに真っ直ぐに、自分に正直に生きていた。
生きていれば、すごい勢いで成長していっただろう。
それこそ、吉鷹なんかより、ずっとまともでいい男になったかもしれない。
オレがもっとちゃんとしていれば。
オレが立派だったら。
オレにキスしてと言ったかもしれない。
オレだったら、意地悪せずにキスぐらい、してやったのに。
でも、椎の目には桜樹は大人の男と映っていなかった。
それが。
口惜しい。
吉鷹が腕の力を弛めた。
支えを失った桜樹は、ブリーフの散らかった床にずるりとへたりこんだ。
吉鷹は醒めた眼で、無様な姿を見下ろしている。
この男はいつか、桜樹を殺す。
憎悪や嫌悪といった個人的感情とは、まったく違う次元の理由で。
ただ。
まだ、その時期が来てないだけだ。
「長谷部教授って、イギリスにいたの?」
「知らなかったのか?
オックスフォード大学でずっと東洋の歴史と文化について、講義をされていた」
「エライ人なんだ」
「肩書きで言うなら、ノーベル文学賞も受賞しているし、帰国後は教育や芸術関連の政府仕事や各省庁の外郭団体の役員を歴任されている。知らない日本人の方が、オレには信じられない。
人物そのものについては噂は聞くが、オレ自身は面識がないから何も言えない。
お前の方が、よく知っているはずだ」
桜樹は顔をあげて、吉鷹を見上げた。
「オレ、教授の授業、一回も受けていない。
受けてみたい」
吉鷹は心の奥底まで抉るように、桜樹を見据えた。
「薬一式、睡眠薬もあったはずだ。
自己管理をきちんとしておけ」
いつものごとく。
吉鷹は挨拶も言わず出ていった。