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桜散る  作者: 夏野梨生
14/30

13.

 長谷部結香は鏡にむかうと、円形の容器を取り出し小指にクリームをつけて、くちびるに塗った。

 美しい切れ長の瞳は、鏡の中の自分を見ているようにも、そのもっと先を見ているようにも、見える。


「結香さん、どういう意味ですか。

 何か知ってるんですか」


 鏡越しに、松芳が結香を睨みつけた。

 松芳の冷たい視線を気にした風もなく、結香はんーとくちびるを突き出し、リップクリームをこすり合わせている。


(この人、強い……)


 全身の力を抜いているように見えて、隙がない。

 たぶん、松芳よりもずっと、強い。

 

 鏡越しに桜樹と視線が合うと、結香は目を細めてにっこりとした。

 くるりと振り返る。


「ボク、公判があってこっちに来たんだけど。

 松っくん、評判だね。

 女性有罪率100%だって?」

「知りませんよ、そんな統計」


 うふふ、と笑って結香は白い手で松芳のほおをするりと撫でた。


「一度、法廷でお手合わせしよっか。

 志摩津松芳検事に壊滅的な黒星つけてあげる。生きるの楽になるよ?」


 松芳は無言で結香を睨み下ろしていた。

 くっと、くちびるの端をひいて結香が笑う。


「チビ牛若クンはなんて言ってるの」

「吉鷹?

 あいつは叔父貴の言葉に従うだけだ、って」

「じゃ、そうしなよ。

 正直、ボクも兄さんが何考えているか分からない。

 でも、志摩津、長谷部の両当主が桜樹くんにここに残れと言っているなら、そうするべきなんだ。

 たとえ、弟が死んでもね」

「そんな……!

 ひとごとだと思って」


 ひとごと?


 結香は切れ長の瞳を細め、薄く笑った。


「そう、そうかもね。

 ボクは弟を二人も失った。

 松っくんも同じ思いをすればいいんだ、なーんて思っているかも」


 手洗いの床にへたり込んでいる桜樹に、結香は手をさし伸べた。


「ウチにくる?

 もっと器用に護ってあげれるよ」


 桜樹は結香をじっとみつめた。

 この人は優しいし、綺麗だ。

 それに、松芳よりも強い。


 でも。

 なにか、違う。


 桜樹が黙りこくっていると。


「フられちゃった」


 結香はちろりと舌を出すと、ポンと松芳の肩を叩いた。


「もっと、ちゃんと可愛がらないと。過保護と可愛がるのは違うんだよ。

 失ってから後悔したって、遅いんだから。

 まったく、心配だから家に閉じ込めておくなんて、いつの時代の発想?」

「技を繋ぐのは志摩津当家、志摩津本家の役割は血を繋ぐこと。

 生きていればいいというのが、本家の役割」

「ふっるーいなぁ。もぉ」


 結香はつま先立ちになって、松芳のほおにくちびるを寄せた。

 キスをしているようにも、なにかを囁いているようにも見える。


 松芳がピクリと眉根を寄せた。

 結香は松芳に身体をぴたりとつけ、美しい切れ長の瞳で、可笑しそうに松芳の横顔を見つめている。


「……しか考えられないでしょう。

 あの二人、単純だから。

 だから、流れに身を任せるしかないんだよ」

「でも」

「こんど、祇園にも遊びにおいで。

 松っくんも息抜きしないと」

「勘弁してください。

 公務員の薄給でいけるわけないっしょ」

「チビ牛若クン、けっこう来ているよ。

 月に二、三度。

 京都府警に居た時は週三回」

「アイツは……いろいろ、サイドビジネスをやってるし。学生時代に荒稼ぎしてたし」

「奢ってもらいなよ」


 結香はくすくすと鈴振るように笑い、ふたりにキスを投げた。

 じゃあね、とゆうゆうと去っていく。


 松芳は眼鏡をはずして、目を揉んだ。

 疲れきっているようだ。

 そういや、休暇も、ほとんど潰れちゃったんだっけ、と思い出した。


「兄さん」

「ああ、家まで送っていく。

 先に駐車場で待ってろ。警察の連中に挨拶してくる」


 松芳から鍵を受け取って、校舎前に停車している松芳の車の助手席に座った。

 兄たちは、吉鷹も、早くに免許を取っていた。

 なのに桜樹が免許を取ろうとすると、危ないと却下されたのだ。


 夕暮れの中を松芳が、歩いてくる。

 ぴんと張り詰めた背筋に、先ほどの疲れは見せていない。


 松芳が車を発進させる手順を、桜樹はじっと観察した。

 慎重な性格だけあって、松芳の運転がいちばん安定していた。


「どうした」

「オレも車を運転したい」

「必要ない……いや、どうしてだ?」

「ゼミのコが、女のコを乗っけてくるんだ」


 松芳は奇妙な顔をしたが、すぐには何も言わなかった。


 しばらく車を走らせてから、ちかごろの女はタチが悪い、先日の公判の女性は、昨今の女性犯罪は、お前は世間知らずだから、とくどくどと説教が続く。

 柊はそんなコじゃない、などと言おうものなら、どこの誰だ、家柄は、家族構成は、志摩津家の家風にあうのか、などと続くはず。

 じっと耐えて説教を聞いていると、アパートの前に停車してから、


「守屋に車を送っておく。

 大学構内で守屋に習え」

「え、いや、ふつーに教習所でいいんだけど」

「そんな危ないところに行く必要はない」


 きっぱりと言って、走り去った。


(危ないって? ふつうの人は通っているじゃないか)


 でも。

 少しは、弟離れしたのかもしれない。


 アパートの階段を上って行くと、藤井海の部屋のドアが開いた。

 印象の強い黒縁めがね。チノパンに白いTシャツの、ラフな姿で海が出てくる。

 わずか一日ぶりだと言うのに、もう、長いこと、会ってなかったように感じる。

 なんだか、すごく懐かしい感じがした。


 眼鏡の奥で、漆黒の瞳が桜樹を見つめる。


「桜樹、大変だったね。

 大丈夫?」

「椎くんが……」

「知ってる。守屋さんからメールもきたし、テレビでも今、やってる」

「テレビ?」


 海は携帯のテレビ画面を見せた。

 小さな画面に、地元の県会議員の息子が殺害されたとのニュースがながれている。

 映し出されている写真は、短い黒髪で、くったくのない笑顔のあどけない少年だった。


「教授が警察に連れてかれちゃって」

「えええっ、教授が。

 なんで?」


 そこまでは守屋から聞いてなかったらしい。

 海は布団をひきっぱなしの六畳一間の部屋に桜樹を招き入れ、どうして教授が、と話を促した。


「よく分かんないんだ。兄さんも必要ないって反対したし。

 でも、教授がその方が早く済むって、自分で警察行くって言いだして。

 なんか話したくないとかって言ってた」

「話したくない?」


 海は腕組みをすると、うむむむと考え込んでしまった。


「とりあえず、教授には出てきてもらわなきゃ」

「そんなの、どうやって。

 結香さんなんか、有罪で実刑にしてみせる、って言ってたよ。

 すっごい綺麗な人。でも、兄さんが怯えてた。知ってる?」


 あー、まあ、と海はポリポリと頭をかき、


「まあ、それはそれで置いておいて。 

 桜樹が『教授のゼミを受けたい』といえば、出てくるんじゃないかな」

「えー、オレ、受けたくない。ずっとなくたって困らない。

 興味ないもん」

「嘘も方便、って言うじゃない」

「嘘ついたら怒られるから、イヤ」

「キミねえ……」


 藤木海はちゃぶ台にひたいをつけて、突っ伏した。

 

 すりガラスの向こうは暗くなっていた。

 すでに日が落ちたらしい。


 桜樹は海の黒髪を引っ張った。


「あのさ、椎くん……、藤木くんのこと、昔はイイやつと思ってたって」

「んー、教授が着任する前ね。

 見た目は昔からああだったけど、意外と真面目で。

 よく図書館に来てたから、いろいろ相談にのってたんだ」

「相談て、キスとかパンツとか?」


 海はびっくりと起き上がって、まじまじと桜樹を見つめた。


「アリスの初版の原書を読みたいとか、ブラウニングの詩集を読みたいとか。

 キスとかパンツ、ってなに?

 そういうイギリスの本、あった?」

「えー、あー、そう、そうそう、そういや、藤木くん、今朝いなかったね。

 オレ、ここまで来たのに」


 と桜樹は話を逸らせた。


「あ、家に帰っていたから」

「家?」

「うん、東京で弟がひとり暮らししてるから、時々様子を見に」


 海は肩をすくめると、いきなり爆笑をした。

 おなかを抱えて笑っているが、いつもながら、何に対して笑っているのか、よく分からない。

 とにかく笑い上戸のようだ。


「いつか、桜樹にも紹介する。

 すごく可愛いんだ」

「でも、いくら可愛くたって、弟でしょ。

 妹がいい。妹はいないの?」

「妹もいるけど。

 ちっちゃいからダメ。紹介しない」


 つん、と澄まして海が言った。


 小さいと言っても、海の妹なら中学生くらいだろうか。

 そんなに大事にしているなら、よほど可愛いんじゃないかと勘ぐっていると、桜樹の携帯がけたたましく鳴りだした。


 忍者ハットリくんを、大音量で着メロ設定してある。


 吉鷹からだった。

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