13.
長谷部結香は鏡にむかうと、円形の容器を取り出し小指にクリームをつけて、くちびるに塗った。
美しい切れ長の瞳は、鏡の中の自分を見ているようにも、そのもっと先を見ているようにも、見える。
「結香さん、どういう意味ですか。
何か知ってるんですか」
鏡越しに、松芳が結香を睨みつけた。
松芳の冷たい視線を気にした風もなく、結香はんーとくちびるを突き出し、リップクリームをこすり合わせている。
(この人、強い……)
全身の力を抜いているように見えて、隙がない。
たぶん、松芳よりもずっと、強い。
鏡越しに桜樹と視線が合うと、結香は目を細めてにっこりとした。
くるりと振り返る。
「ボク、公判があってこっちに来たんだけど。
松っくん、評判だね。
女性有罪率100%だって?」
「知りませんよ、そんな統計」
うふふ、と笑って結香は白い手で松芳のほおをするりと撫でた。
「一度、法廷でお手合わせしよっか。
志摩津松芳検事に壊滅的な黒星つけてあげる。生きるの楽になるよ?」
松芳は無言で結香を睨み下ろしていた。
くっと、くちびるの端をひいて結香が笑う。
「チビ牛若クンはなんて言ってるの」
「吉鷹?
あいつは叔父貴の言葉に従うだけだ、って」
「じゃ、そうしなよ。
正直、ボクも兄さんが何考えているか分からない。
でも、志摩津、長谷部の両当主が桜樹くんにここに残れと言っているなら、そうするべきなんだ。
たとえ、弟が死んでもね」
「そんな……!
ひとごとだと思って」
ひとごと?
結香は切れ長の瞳を細め、薄く笑った。
「そう、そうかもね。
ボクは弟を二人も失った。
松っくんも同じ思いをすればいいんだ、なーんて思っているかも」
手洗いの床にへたり込んでいる桜樹に、結香は手をさし伸べた。
「ウチにくる?
もっと器用に護ってあげれるよ」
桜樹は結香をじっとみつめた。
この人は優しいし、綺麗だ。
それに、松芳よりも強い。
でも。
なにか、違う。
桜樹が黙りこくっていると。
「フられちゃった」
結香はちろりと舌を出すと、ポンと松芳の肩を叩いた。
「もっと、ちゃんと可愛がらないと。過保護と可愛がるのは違うんだよ。
失ってから後悔したって、遅いんだから。
まったく、心配だから家に閉じ込めておくなんて、いつの時代の発想?」
「技を繋ぐのは志摩津当家、志摩津本家の役割は血を繋ぐこと。
生きていればいいというのが、本家の役割」
「ふっるーいなぁ。もぉ」
結香はつま先立ちになって、松芳のほおにくちびるを寄せた。
キスをしているようにも、なにかを囁いているようにも見える。
松芳がピクリと眉根を寄せた。
結香は松芳に身体をぴたりとつけ、美しい切れ長の瞳で、可笑しそうに松芳の横顔を見つめている。
「……しか考えられないでしょう。
あの二人、単純だから。
だから、流れに身を任せるしかないんだよ」
「でも」
「こんど、祇園にも遊びにおいで。
松っくんも息抜きしないと」
「勘弁してください。
公務員の薄給でいけるわけないっしょ」
「チビ牛若クン、けっこう来ているよ。
月に二、三度。
京都府警に居た時は週三回」
「アイツは……いろいろ、サイドビジネスをやってるし。学生時代に荒稼ぎしてたし」
「奢ってもらいなよ」
結香はくすくすと鈴振るように笑い、ふたりにキスを投げた。
じゃあね、とゆうゆうと去っていく。
松芳は眼鏡をはずして、目を揉んだ。
疲れきっているようだ。
そういや、休暇も、ほとんど潰れちゃったんだっけ、と思い出した。
「兄さん」
「ああ、家まで送っていく。
先に駐車場で待ってろ。警察の連中に挨拶してくる」
松芳から鍵を受け取って、校舎前に停車している松芳の車の助手席に座った。
兄たちは、吉鷹も、早くに免許を取っていた。
なのに桜樹が免許を取ろうとすると、危ないと却下されたのだ。
夕暮れの中を松芳が、歩いてくる。
ぴんと張り詰めた背筋に、先ほどの疲れは見せていない。
松芳が車を発進させる手順を、桜樹はじっと観察した。
慎重な性格だけあって、松芳の運転がいちばん安定していた。
「どうした」
「オレも車を運転したい」
「必要ない……いや、どうしてだ?」
「ゼミのコが、女のコを乗っけてくるんだ」
松芳は奇妙な顔をしたが、すぐには何も言わなかった。
しばらく車を走らせてから、ちかごろの女はタチが悪い、先日の公判の女性は、昨今の女性犯罪は、お前は世間知らずだから、とくどくどと説教が続く。
柊はそんなコじゃない、などと言おうものなら、どこの誰だ、家柄は、家族構成は、志摩津家の家風にあうのか、などと続くはず。
じっと耐えて説教を聞いていると、アパートの前に停車してから、
「守屋に車を送っておく。
大学構内で守屋に習え」
「え、いや、ふつーに教習所でいいんだけど」
「そんな危ないところに行く必要はない」
きっぱりと言って、走り去った。
(危ないって? ふつうの人は通っているじゃないか)
でも。
少しは、弟離れしたのかもしれない。
アパートの階段を上って行くと、藤井海の部屋のドアが開いた。
印象の強い黒縁めがね。チノパンに白いTシャツの、ラフな姿で海が出てくる。
わずか一日ぶりだと言うのに、もう、長いこと、会ってなかったように感じる。
なんだか、すごく懐かしい感じがした。
眼鏡の奥で、漆黒の瞳が桜樹を見つめる。
「桜樹、大変だったね。
大丈夫?」
「椎くんが……」
「知ってる。守屋さんからメールもきたし、テレビでも今、やってる」
「テレビ?」
海は携帯のテレビ画面を見せた。
小さな画面に、地元の県会議員の息子が殺害されたとのニュースがながれている。
映し出されている写真は、短い黒髪で、くったくのない笑顔のあどけない少年だった。
「教授が警察に連れてかれちゃって」
「えええっ、教授が。
なんで?」
そこまでは守屋から聞いてなかったらしい。
海は布団をひきっぱなしの六畳一間の部屋に桜樹を招き入れ、どうして教授が、と話を促した。
「よく分かんないんだ。兄さんも必要ないって反対したし。
でも、教授がその方が早く済むって、自分で警察行くって言いだして。
なんか話したくないとかって言ってた」
「話したくない?」
海は腕組みをすると、うむむむと考え込んでしまった。
「とりあえず、教授には出てきてもらわなきゃ」
「そんなの、どうやって。
結香さんなんか、有罪で実刑にしてみせる、って言ってたよ。
すっごい綺麗な人。でも、兄さんが怯えてた。知ってる?」
あー、まあ、と海はポリポリと頭をかき、
「まあ、それはそれで置いておいて。
桜樹が『教授のゼミを受けたい』といえば、出てくるんじゃないかな」
「えー、オレ、受けたくない。ずっとなくたって困らない。
興味ないもん」
「嘘も方便、って言うじゃない」
「嘘ついたら怒られるから、イヤ」
「キミねえ……」
藤木海はちゃぶ台にひたいをつけて、突っ伏した。
すりガラスの向こうは暗くなっていた。
すでに日が落ちたらしい。
桜樹は海の黒髪を引っ張った。
「あのさ、椎くん……、藤木くんのこと、昔はイイやつと思ってたって」
「んー、教授が着任する前ね。
見た目は昔からああだったけど、意外と真面目で。
よく図書館に来てたから、いろいろ相談にのってたんだ」
「相談て、キスとかパンツとか?」
海はびっくりと起き上がって、まじまじと桜樹を見つめた。
「アリスの初版の原書を読みたいとか、ブラウニングの詩集を読みたいとか。
キスとかパンツ、ってなに?
そういうイギリスの本、あった?」
「えー、あー、そう、そうそう、そういや、藤木くん、今朝いなかったね。
オレ、ここまで来たのに」
と桜樹は話を逸らせた。
「あ、家に帰っていたから」
「家?」
「うん、東京で弟がひとり暮らししてるから、時々様子を見に」
海は肩をすくめると、いきなり爆笑をした。
おなかを抱えて笑っているが、いつもながら、何に対して笑っているのか、よく分からない。
とにかく笑い上戸のようだ。
「いつか、桜樹にも紹介する。
すごく可愛いんだ」
「でも、いくら可愛くたって、弟でしょ。
妹がいい。妹はいないの?」
「妹もいるけど。
ちっちゃいからダメ。紹介しない」
つん、と澄まして海が言った。
小さいと言っても、海の妹なら中学生くらいだろうか。
そんなに大事にしているなら、よほど可愛いんじゃないかと勘ぐっていると、桜樹の携帯がけたたましく鳴りだした。
忍者ハットリくんを、大音量で着メロ設定してある。
吉鷹からだった。