12.
「桜樹っ」
ヒステリックな声と同時に、松芳が飛び込んできた。警察より早い到着だ。
車をすっ飛ばしてきたようである。
「お前、なんで、また……、え、結香さん?
なんでここに」
松芳は長谷部結香をみると、硬直し、珍しいことにありありと動揺していた。
目の錯覚でなければ、怯えているようにもみえる。
「兄サンが八重山上布くれるっていうから貰いに来た」
「ええええっ、それ、昨日、私が叔父貴のことづけで、長谷部の当主さまにとどけた?
なんで結香さんなんかに」
「そりゃあ、ボクがかわいいからでしょ。
志摩津のご当主さまにヨロシク言っておいて」
「そんなことより、松芳サン、冷静に聞いてくださいね」
守屋がこそこそと桜樹のしでかしたことを言った。
松芳はまず真っ青になり、次いで真っ赤になった。頬がぴくぴくと痙攣している。
「桜樹っっっっ」
落ちてきた雷に両手で頭をかばって身体をすくめると、結香がぽんぽんと桜樹の頭をやわらかくたたいた。
「かわいいよね、くれない?」
松芳は心底嫌そうに顔をゆがめ、
「勘弁してください、結香さん。そんなんでも本家筋ですから」
結香はかわいらしく唇をとがらせた。
「志摩津らしい言い方。
かわいい弟だから嫌、って松っくんが言わないともらっちゃうよ」
松芳は全身をこわばらせて、助けをもとめるように、視線を左右にはしらせている。
結香が天使の笑みを浮かべる。
松芳が諦めた顔で、くちびるをひらいたとき。
どやどやと警官が到着した。
見覚えのある刑事たちばかりだが、嫌みな、キャリアの目の細い刑事ははいっていなかった。
松芳は露骨にほっとしたように、息を吐いた。
ぎょろ目の刑事――警察手帳には半田警部と記載されていた、に守屋が経緯を説明し、長谷部結香を教授の弟で弁護士、と紹介した。
「あのぅ、たしか、芸者をやっている……とか」
半田刑事の嫌そうな問いに。
結香はにっこりと笑った。
「ああ、李香のことですね。ボクの双子の弟です」
「え、……でも、お兄さんはたしかに」
「一卵性双生児なので、兄はボクたちをいつも二人でひとりと、半人前扱いするんです」
結香が言うと、なるほど、そうならそう言ってくれれば、と半田警部は納得したようだったが、うしろでは松芳がげんなりした視線を守屋と交わした。
鑑識も到着する。
ひじょうに言いにくそうにしながら、守屋は桜樹の行動を説明した。
「はあああ?
いまどき、小学生だって、そんなことしないってのに……。まったく、どういう育ち」
慌てて半田警部は口を閉じたが、松芳にはしっかりと聞こえていたらしい。
あごを突き出し、冷ややかな目で睨みつけながら、
「家のしつけがなってなくて申し訳ない。
茨城県警には手間をかけるが、ご配慮願う」
高飛車に言い切った。
「あー、いや今時珍しい純粋な方のようで……そのう、本当に志摩津検事の弟さんで?」
「そうだ。それがなにか」
氷点下の視線に、あー、左様で、とかいいながら、半田刑事は後ずさった。
松芳から遠ざかり、鑑識チームにぼそぼそと指示を出している。
桜樹は松芳にもたれかかった。
「兄さん、椎って兄さん紹介してって言ってたんだ」
「ん? 検事になりたかったのか」
「パンツ、欲しいって」
松芳は眉根をひそめた。
「お前、まさか」
「あ、兄サン」
結香が華やいだ声で、腕をあげた。
長谷部時宗が一段抜かしで階段を駆け上がってくる。
「すまない。タクシーがなかなかつかまらなかった」
長谷部教授はちらりと周囲を一瞥し、教室の前に立った。
椎が見えたのだろう。痛ましそうな顔をする。
「長谷部教授、念のためお聞きしますが、本日未明から今まで、どこでなにをしていらっしゃいました?」
半田警部が尋ねた。
「答えるつもりはない」
長谷部教授はきっぱりと言った。
松芳と守屋が唖然とし、結香は美しい瞳をぱちくりとしている。
「ええと、それはそのう、政府のお仕事とか機密事項で」
「いや、まったくのプライベートだ」
「しかし、そうしますと……」
半田警部はいかにもやりにくそうに、松芳と結香をちらちらと見ながら、
「そのう、署に来ていただくようなことになってしまいますが」
と言った瞬間、
「必要ない、県警の本部長にも連絡してある」
松芳がきっぱりと言った。
「いや、同行しよう。その方がお互い早く済むだろう。
守屋、すまないが後を頼む」
えええっ、と、一番困った声を上げたのは半田警部だった。
「兄サン、ボクが弁護しよっか? ぜったいに実刑にしてみせるよ」
結香が両手をにぎりしめ、かわいらしい口調で言った。
「なんで実刑?」
教授が不思議そうに問う。
「冤罪で実刑なんて、いいネタになるじゃない。
最近、兄サンの連載小説ちっとも面白くないんだもの、新聞解約しちゃったよ。
マスコミだって飛びつくから宣伝もばっちり」
教授はでれっとまなじりをさげると、弟の頭をなでまわし、
「そうか、心配しててくれたのか」
「ウン」
と結香が目をほそめて、にっこりとした。
「分かった、考えておく」
教授の返事に、松芳が「いったい、何考えてんだ」と血の気の引いた顔でよろめいた。
長谷部教授は若い刑事につき添われて警察署に行き、教室では鑑識作業が続いている。
椎を四方八方から撮影し、枠取りをしている。
見ていられず、顔をそむけて、松芳の肩にひたいをあてた。
「オイ、大丈夫か」
首を振る。
涙と胃液が同時にこみあげてくる。
「ち、ちょっと、こらえろ。
守屋、冷たい飲み物。スポーツドリンク系、すぐに買ってこいっ」
松芳は桜樹を手洗いに引きずっていき、便器の前でしゃがませた。
指を桜樹の喉につっこみ、無理やり吐かせる。
背をさすられながら、二度、三度、と吐き戻し、吐くものがなくなると、ようやく身体が落ちついた。
「オレ、もう嫌。
家に帰りたい」
「ああ。お前には無理だ。
叔父貴に言う」
「ダメだよ」
振り返ると、ペットボトルを持った長谷部結香が立っていた。
「自販機、遠いって言うから兄さんの部屋から取らせてもらった。
はい、どうぞ」