序章
春、麗ら。
水戸地方検察庁の検事、志摩津松芳は、東京の中心にある志摩津邸にひさかたぶりに里帰りをし、門の前で足をとめた。
齢二十四年、幹もおとなの一抱えほどに成長した染井吉野が、青空の下、風に花弁をまき散らしていた。
その桜吹雪のなか、志摩津吉鷹が空をみあげていた。
茶色の髪の襟足を長めにのばし、細い引き締まった身体に、ダークグレーのソフトジャケットをすらりと着ている姿は、警察官僚というよりモデルのようである。
端麗な貌でまっすぐに天を仰ぐ姿は桜吹雪に霞み、桜の精霊のごとく。
だが、この男は情緒や感傷というものはほど遠いはずだ。
「どうした」
松芳が声をかけると、吉鷹は無表情のまま傍らの車にあごをしゃくった。
BMW M3クーペ アルピン・ホワイト
ピカピカに磨きあげられた純白の車体に、とめどなく桜の花片が降り注ぎ、はりついていた。
「鬱陶しい」
忌々しげに、吉鷹が舌打ちをする。
やはり。
散りゆく桜吹雪に、感傷に浸っていたわけではなく。
車に貼りついた花片に、立腹していただけのようだ。
松芳は口笛を吹いた。
「また買ったのか」
「ご当主様に買っていただいた」
この血のつながらない従弟は幼い時に志摩津家の養子となったが、未だに養父のことを「ご当主様」と呼び、父と読んだことはなかった。
吉鷹は端麗な貌を松芳に向けた。
一緒に育った身であっても、どきりとする。
澄んだ切れ長の瞳であった。
「松ちゃんは桜樹の見送り? いや、迎え?」
「ハ?」
なんだそれ、と、聞き返そうとした時。
すさまじい音がして、志摩津家の玄関から桜樹の体が吹っ飛んできた。
「やだやだやだやだ。行かない、オレ、そんなとこ絶対に行かない」
桜樹は両手をばたつかせ、玄関の引き戸にしがみついている。
子どもではない。
松芳の四歳違いの、実の弟。
帰省そうそう、縁起の悪いものを見てしまった。ずきずきとしてくるこめかみに松芳は指をあてた。
「アイツ、ひきこもりなおったの」
「いや。
それでご当主様が新しい大学を手配したんだ」
松芳は眉をひそめた。
「無駄じゃないのか。
三回目の大学でも駄目だったんだろう。一生、座敷牢にでも閉じ込めておけばいいんだ。
どうせひきこもっているんだ。大した違いはない」
志摩津家は志摩津式古武術の宗家である。いま、松芳たちが立っている場所は家人たちのごく普通の家屋だが、奥には広大な道場があり、寝泊まりしている内弟子だけでも百名弱いた。
警察や自衛隊にも武術指南を行う、武術の名門家。
松芳は検事で、吉鷹は警察官僚。
松芳の父や兄は防衛省官僚。
叔父は志摩津家当主。
その中で、末っ子の桜樹だけは甘やかされ放題に育ち、三度目の大学にも通うことができず、もう長いこと家でひきこもっていた。
家名汚しもいいところである。
着流しに隻眼、見た目も中身も、時代劇の剣豪のままの叔父の飛翔が出てきた。
桜樹の首筋をつかんで容赦なくひっぱる。桜樹がこらえきれずに手をはなすと、そのまま桜樹の体を、飛翔は庭石に叩きつけた。
長身だが童顔の桜樹は、顔をぐしゃぐしゃにゆがめ、泣いたまま、口の端から血を流しうずくまってしまった。
志摩津の直系のくせして。
受け身すら取れないのか。
松芳はすべて見なかったこと、聞かなかったことにしようと決め、玄関に背を向けて吉鷹に向き直った。
吉鷹は無表情のまま角ばった手で、やや長めの前髪をかき上げた。
「家長様も蓉一サンもおなじこと言ったんだが、ご当主様が今度こそ大丈夫だって、譲らないんだ。
オレはご当主様に従うだけだからな」
「叔父貴が」
なぜ大丈夫というのだろう。大学をいくら変えたって、あの生まれつき甘ったれた、我儘放題の根性が治るとは思えない。
いっそ死んでくれとすら、父は言った。
「松芳、桜樹の迎えに来てくれたのか」
飛翔に呼びかけられ、松芳はびくっと身をすくめた。
「いえ。単なる帰省です」
きっぱりと関わるまいと言外に示すと、松ちゃん、と吉鷹が松芳の肩に指をかけ、顔を寄せた。
「桜樹の行く大学、茨城だから。水戸地検からそんな離れてない。
長谷部のご当主様がこの春から教鞭をとられているらしいんだ。時間があったら、松ちゃんからも挨拶頼む」
「おい、なんだよ、ソレ。
聞いてないぞ」
「今言った」
すうっと冷たい汗が松芳の背を流れる。
吉鷹の端麗な顔を睨みつけるが、すました顔で視線をそらす。
確信犯だ。
どうみても確信犯である。
事後に告げてきたのは、事前に知らされていれば松芳が徹頭徹尾反対すると、見越してのことだ。
吉鷹はBMWの運転席に乗り込みながら、
「どうせ戻るなら一緒に乗って行かないか?
送っていく」
「おい、見ろよ。
私はいま帰って来たばかりだぞ。
3か月ぶり、ようやく公判が終わってひとくぎりついて、洗濯物もこんなにあって、家の敷居もまたがずになんで戻らなきゃいけない」
「あ、そ。
桜樹と車内に二人きりだと鬱陶しそうだからさ」
「私だってご免だ」
飛翔に無理やり引っ張り立たされた桜樹は、じとっと恨みがましく松芳を上目づかいに見た。
本来、兄だったら弟を助けてくれて当然と、桜樹は思っている。
血のつながらない吉鷹より、直系の自分がなんの努力をしなくても、ちやほやされて当然と、思っている。
そして思い通りにならないと、癇癪を起し、ふてくされ自分の世界の中に閉じこもり、よりいっそう家族たちへの恨みつらみを一方的に増殖させた。
見ているだけで、苛々する。
存在だけで、腹立たしい。
なのによりによって、水戸地検の近くに来るって?
いったい、自分が何をしたというのだ。
「吉鷹にこれ以上、迷惑をかけるんじゃないぞ」
飛翔は桜樹をBMWに押し込むと、
「松芳も乗って行くのか」
「いえ。帰ってきたばかりですから」
この父子は血がつながっていないのに、不思議と行動と発想がよく似ていた。
次の叔父貴の発言も予想つく。
桜樹が乗ると同時に、エンジン音が響いた。
あっという間に車は見えなくなった。
「ああ、松芳、桜樹の行く大学は」
「わたしは長谷部家の現当主さまには、ご面識がありません」
先回りして、松芳はきっぱりと言った。
「時宗さまは非常に素晴らしい方だ。教育関連の仕事をいくつも歴任されている。
ただ……」
隻眼の飛翔は口ごもって、視線を落とした。
どんな剛の者をまえにしても漂々としている叔父には珍しく、肩を丸めてしょんぼりとしている。
この叔父は外見に反して、とても優しく、繊細だ。
実の父兄がとうに見切りをつけている桜樹に、いまだ心を砕くのは飛翔だけ。
「ただ、なんです?」
「断られているんだ」
「ハ?」
「受け入れたくないと。
桜樹の経歴をみて、やる気がなさそうだとおっしゃられて」
「じゃ、ダメじゃん」
思わず少年時代の感覚で言ってしまった。
飛翔は松芳にというより、自らに言い聞かすようにつぶやいた。
「でも、時宗さまは信頼できる方だ。とりあえず背水の陣で追い出したら、どうにかなるんじゃないかと思って」
「背水の陣て……桜樹溺死すると思いますけど」
松芳は染井吉野を見上げた。
もう。
この桜も今年が見納めかもしれない。
桜はまだとめどなく、花片を散らしている。