第9話 嵐の前の、温かい手
朝。シロに薬草乳を飲ませながら、私はずっと考えていた。
庇護申請。
昨夜、フランの声ではっきり聞こえた。ナシェルさんが竜王家に、この牧場の正式な庇護を申請した。
シロの背中を撫でる。温かくて柔らかい白い毛並み。翼の芽が日に日にしっかりしてきて、時々ぱたぱたと動かす。
「ぴ?」
「……なんでもない。おいしい?」
「ぴぃ」
皿に顔を突っ込んで、尻尾がぶんぶん揺れる。かわいい。でも今はそれどころじゃない。
外に出ると、ナシェルさんは牧場の柵の前にいた。雲羊の体温を一頭ずつ確かめている。毎朝の日課だ。長い指が羊毛の奥に沈んで、目を閉じて魔力を通す。丁寧で、静かな所作。
「ナシェルさん」
「おはようございます、メルル様。雲羊の体調は全頭良好です。三番の子が少し──」
「竜王家に、庇護申請を出してくださったんですか」
遮ってしまった。少し乱暴だったかもしれない。
ナシェルさんの手が止まった。
数秒の沈黙。雲羊がめぇと鳴いた。
「……はい」
「どうして私に言わなかったんですか」
「手続きが受理されるか不確定な段階でお伝えしても、不要な期待を持たせるだけです」
学者の口調だ。論文の注釈みたいに正確で、感情が見えない。
「シロの素性を考慮すれば、竜王家の庇護下に置くことは合理的な判断です。辺境の自治権と合わせて、外部からの不当な介入を法的に遮断できます」
理路整然としている。一分の隙もない。
でも。
「シロのため、ですか」
「はい」
「それだけですか」
聞いてしまった。
ナシェルさんの耳の後ろの鱗が、朝日の中でかすかに動いた。触れるような仕草。感情を抑えるときの癖だと、最近気づいた。
「……シロの安全が最優先です」
答えになっていない、と思った。思ったけれど、それ以上は聞けなかった。
午後、村の集会所に呼ばれた。
行商の荷下ろしで揉め事があったとフランが言っていたが、集会所の前に停まっていた馬車を見て足が止まった。
獅子が天秤を掲げる紋章。
ゲルツでも、代理人のクレスでもなかった。
集会所の扉を開けると、長机の向こうに一人の男が座っていた。
金の髪を後ろに撫でつけ、仕立てのいい深緑の外套を着た、二十代半ばの青年。
レクト・バルドウィン。
元婚約者が、辺境にいた。
「久しぶりだね、メルル」
笑っている。あの夜と同じ、余裕のある笑み。でも目の下に薄い隈があることに、私は気づいた。
「レクト様。遠路お疲れさまです」
声は平らに出た。膝は、震えていない。
「単刀直入に言おう。月光糸の製造販売権を、バルドウィン商会に譲ってほしい。対価は応相談だ」
「先日の代理人の方にはお断りしましたが」
「だから僕が直接来た」
レクトは長机に肘をついた。
「メルル。君のお父上の再婚のこと、王都では色々と噂になっている。伯爵家の内情を詳しく知っているのは僕だけだ。君が素直に応じてくれれば、余計な醜聞を広めるつもりはない」
脅迫だった。
柔らかい口調で包んでいるけれど、中身は脅迫以外の何でもない。
集会所の隅に、村の住民が数人いた。ルーナおばあちゃんもいる。全員が息を止めてこちらを見ている。
シャンデリアの下で「退屈な女」と言い放った男が、今度は薄暗い集会所で脅している。
あの夜は、何も言い返せなかった。
今は違う。
「醜聞ですか」
私は一歩前に出た。
「どうぞご自由に。父の再婚は公知の事実ですし、私が辺境に来た経緯も隠していません」
レクトの笑みがわずかに固まった。
「ただ、一つお伝えしておきます。辺境の産物は辺境自治条例の管轄下にあり、外部の商会が権利を主張する法的根拠はありません。それは先日、代理人の方が持ち出した旧条令が失効していることで証明済みです」
「あれは代理人の判断ミスだ。僕が直接──」
「加えて、この牧場は竜王家の庇護申請が進行中です」
レクトの目が、一瞬だけ見開かれた。
「竜王家の庇護下にある施設に対して商業的圧力をかけることが、バルドウィン商会の信用にどう影響するか。レクト様ならご理解いただけると思います」
集会所が静まり返った。
レクトの頬が引きつった。余裕のある笑みが剥がれていく。
「──君は、いつからそんな口を利くようになった」
声が荒い。あの夜の余裕は、もうどこにもなかった。
退屈な女。
あの言葉が一瞬だけ胸をよぎって、そして通り過ぎた。
「辺境に来てからです」
それだけ答えた。
レクトは椅子を蹴るように立ち上がり、何か言いかけて、やめた。住民たちの視線が突き刺さっていることに、ようやく気づいたのだろう。
外套の裾を払い、集会所を出ていく背中は、来た時より小さく見えた。
夏の嵐は前触れなく来た。
翌日の昼過ぎから空が暗くなり、夕方には横殴りの雨が牧場を叩いた。
「柵が! 東側の柵がぐらついてます!」
フランの叫び声を風が千切る。
雲羊たちが怯えて固まっている。ぴくんは私のフードの中で全身を震わせている。角だけがぴょこんと飛び出して、それが別の状況なら笑えたのに。
「メルル様、こちらを!」
ナシェルさんが杭を打ち直している。雨に濡れた白いシャツが肌に張りついて、腕の鱗が水滴を弾いている。
私も杭を支える。手がかじかんで、木の表面が滑る。
「ぴぃっ!」
シロが牧場の真ん中で鳴いた。
くしゃみの炎ではなかった。
白銀の光が、シロの小さな体から広がった。翼の芽をいっぱいに開いて、口から放たれた聖炎が弧を描き、風をやわらかく逸らす壁になった。
「……シロ」
炎は熱くない。風除けの膜のように牧場を包み、雲羊たちが少しずつ落ち着いていく。
シロの青い目が、雨の中で静かに光っていた。
あの、くしゃみで カーテンを焦がしていた子が。
嵐は明け方に去った。
暖炉の前に毛布を敷いて、全員がへたり込んでいた。フランは雲羊用の干し草の上で寝落ちしている。シロは私の膝で丸くなり、ぴくんはシロのお腹に頭を押しつけて眠っている。もふもふの塊。
外では、嵐を乗り越えた雲羊たちがシロの周りに自然と集まっていた。窓から見える白い塊は、大きな雲が地上に降りてきたみたいだった。
「メルル様」
ナシェルさんが隣に座った。暖炉の火がぱちぱちと鳴る。
「……お疲れさまでした」
「ナシェルさんこそ。杭、全部打ち直してくれたんですよね」
「必要な作業でしたから」
いつもの平坦な声。でも少し、かすれている。
大きな手が伸びてきた。
私の手を取った。
泥と雨で荒れた指先を包むように、長い指がそっと触れる。
「怪我は、ありませんか」
声が震えていた。
学術用語も、論文の注釈みたいな口調も、今はどこにもない。ただ低くて、不器用で、心配している声。
暖炉の灯りがナシェルさんの顔を照らしている。
耳の後ろの鱗が見えた。
銀色ではなかった。
はっきりと、淡い桃色に染まっている。
暖炉の火は橙色だ。夕日でもない。桃色に見える理由が、どこにもない。
「……大丈夫です」
声が少し、上ずった。
手の温もりが、指先からじんわりと広がっていく。
どのくらいそうしていたのか。
ナシェルさんが静かに手を離した。
「少し休んでください」と言い残して、外の被害確認に向かう背中を見送る。
膝の上でシロが「ぴ」と小さく鳴いた。
手のひらを見た。
指の間に、何かが挟まっていた。
小さな、薄い、銀色の──鱗。
ナシェルさんの鱗が、一枚だけ落ちていた。
翌朝、干し草の山から起き上がったフランが、私の手の中のそれを見て目を丸くした。
「それ……鱗ですか?」
「うん。昨夜、ナシェルさんが手を握ったとき──」
フランの目がさらに大きくなった。
「竜族が鱗を落とすのは、よほどのことがあった時だけだって」
言いかけて、フランは口をつぐんだ。
聞いたことがある、と言おうとしたのだろう。でもその先は、飲み込んだ。
私は小さな鱗を、そっと握った。
朝日が窓から差し込んで、銀色の欠片がかすかに──ほんのかすかに、桃色に光った気がした。




