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婚約破棄されたので辺境でのんびり魔法牧場はじめます!  作者: 九葉(くずは)


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第8話 牧場祭と、嘘つきの帳簿

朝靄がまだ残る広場に、色とりどりの天幕が花のように開いていく。


 辺境の夏の収穫前祭。年に一度、近隣の村や行商人が集まる小さな市場だと、ルーナおばあちゃんが教えてくれた。


「メルルさん、こっちの柱、もうちょっと右!」


「了解!」


 フランと二人で天幕の骨組みを立てる。汗が額を伝うけれど、初夏の風が心地よい。


 出品するのは三つ。雲羊の毛で編んだ手袋と靴下、薬草入りの虫除け香袋、そして──月光糸の試作品。


 満月の夜に刈り取った雲羊の毛を紡いだ、あの金色の糸。小さな糸巻きに巻いただけの簡素な姿だけれど、朝の光を受けてきらりと輝く。


「ぴぃ」


 シロが天幕の看板台にちょこんと座った。翼の芽がずいぶんしっかりしてきて、小型犬ほどの体がちょうど台にぴったり収まる。


「……あんた、自分が看板だってわかってるでしょ」


「ぴ」


 澄まし顔で尻尾を巻く。青い目が来場者の方を向いて、ゆっくりまばたきした。


 これは確信犯だ。


 隣ではぴくんが毛糸玉の上で丸くなり、角だけが飛び出している。どっちも営業力が高すぎる。


「いらっしゃいませー! 虹野牧場の月光糸、さわってみてくださーい!」


 フランの声が広場に響く。虹野牧場。いつの間にかフランがつけた名前が、すっかり定着していた。


 最初に足を止めたのは、隣村から来たらしい中年の女性だった。


「あら、この糸……」


 月光糸を手に取り、指で撫でる。光沢が指の動きに合わせて流れる。


「なんて滑らか。これ、雲羊の毛なの?」


「はい。満月の夜に刈ったものを紡ぎました。普通の毛より繊維が細くて、光を含みやすいみたいで」


「まあ……こんなの見たことないわ」


 その声を聞きつけて、二人、三人と人が集まってくる。


「ぴぃ」


 シロが絶妙なタイミングで鳴いた。子供たちが「わぁ」と歓声を上げて、テントの前に小さな列ができる。


「さわっていい?」


「いいよ、優しくね」


 小さな手がシロの背中を撫でると、シロは目を細めてごろごろと喉を鳴らした。その振動が温かくて、子供たちの顔がほころぶ。


 午前中だけで手袋と靴下は半分以上売れた。月光糸の糸巻きも三つ捌けて、想像以上の手応えだった。


 前世で──いや、昔よく遊んだ農場の遊びでは、こういう直売イベントが一番楽しかった。お客さんの顔が見えるのがいい。


「メルル様」


 ナシェルが天幕の脇に立っていた。長身の竜族青年は祭の雑踏の中でもよく目立つ。今日は白い麻のシャツの袖をまくっていて、いつもの外套姿とは少し違う。


「シロの体調は良好ですね。体温も安定している」


「おかげさまで。ナシェルさんも何か買っていきます?」


「……虫除け香袋を一つ」


「まさかの実用品」


 銅貨を几帳面に数えて渡してくる姿に、少し笑ってしまった。


 午後になり、日差しが強くなった頃だった。


 広場の東側から、見覚えのある馬車が入ってきた。荷台の側面に描かれた紋章──獅子が天秤を掲げる意匠。


 先日、独占契約を持ちかけてきたゲルツの馬車と同じ紋章だ。


 馬車から降りてきたのは、ゲルツではなかった。もっと身なりのいい、痩せた中年の男。灰色の外套に銀のブローチ。商会の上役、という雰囲気が滲んでいる。


「辺境の皆様方、失礼いたします」


 男は広場の中央で足を止め、懐から羊皮紙を取り出した。


「バルドウィン商会法務部、代理人のクレスと申します。こちらの条令をご確認いただきたい」


 羊皮紙には古い書体で「辺境産物優先買付権に関する勅令」と書かれていた。


「本条令に基づき、辺境で産出された希少素材の販売には、当商会の承認が必要となります。月光糸と称する未認可素材の無許可販売は、条令違反にあたります」


 広場が静まった。


 祭の空気が一瞬で張り詰める。


「……販売差し止め、ということですか」


 私の声は、自分でも驚くほど平らだった。


「ご理解いただければ幸いです」


 クレスは慇懃に微笑んだ。その笑みの裏に、あの夜シャンデリアの下で言い放たれた「退屈な女」と同じ種類の侮りが透けて見えた気がした。


 でも。


「その条令、拝見してもよろしいですか」


「どうぞ」


 受け取った羊皮紙を読む。古い言い回しだけれど、内容は理解できる。日付は──五十二年前。


 胸の中で、小さな歯車がかちりと噛み合った。


「クレス様。一つ確認させてください」


「何でしょう」


「この条令の施行年は、現辺境自治条例の制定より二十三年前です」


 ルーナおばあちゃんが「念のため目を通しておきなさい」と貸してくれた、辺境自治条例の写し。あの夜、眠い目をこすりながら読み込んだ内容が、今ここで生きる。


「辺境自治条例第十四条には、こうあります。『本条例の施行をもって、辺境産物に関する旧来の勅令・慣習法はすべて効力を失う』」


 広場がざわめいた。


「つまり、その優先買付権は、二十九年前に失効しています」


 クレスの表情が固まった。


「そ、それは解釈の問題であって──」


「解釈ではありません」


 低く落ち着いた声が、私の横から響いた。


 ナシェルだった。いつの間にか私のそばに立っている。背筋を伸ばした長身が、午後の日差しを背負っている。


「竜王家分家筋、ナシェル・ドラクリアです。辺境自治条例は竜王家と王家の共同認可を経て施行されたものであり、その上位規定として旧勅令の失効条項が明記されています。法的に争う余地はありません」


 静かで、揺るぎのない声だった。


 学術論文を読み上げるような口調なのに、一言一言が石を積むように重い。


 クレスの顔から血の気が引いた。


「……そのような、証言が……」


「必要であれば竜王家の公印つき書面を取り寄せますが」


 ナシェルは淡々と言った。脅すでもなく、怒るでもなく、ただ事実を述べている。それが一番、反論の余地を奪っていた。


 広場の住民たちが顔を見合わせ、そしてぽつぽつと声が上がった。


「五十年も前の条令を持ち出すなんて……」


「虹野牧場の月光糸、うちの村でも評判なのに」


「バルドウィン商会って、王都のあの? 辺境に何の用だい」


 クレスは唇を引き結び、羊皮紙をひったくるように回収すると、一言も発さずに馬車に戻った。車輪が砂利を蹴る音が、妙に大きく聞こえた。


 しばらくの沈黙のあと、誰かが手を叩いた。


 ぱち、ぱち、と拍手が広がる。


「やるじゃないか、お嬢ちゃん」


「月光糸、あたしにも一つ頂戴な!」


 フランが「メルルさんかっこよかった!」と飛びついてきて、シロが「ぴぃぃ!」と便乗するように鳴いた。


 息を吐く。手が少し震えていた。


 でも、泣かなかった。あの夜も泣かなかったし、今日も泣かない。


 夕暮れ。


 祭の片付けを終えて、天幕の骨組みを畳んでいると、ナシェルが黙って反対側の柱を支えてくれた。


「……ありがとうございました。助かりました」


「事実を述べただけです」


 相変わらずの平坦な声。でも、袖をまくった腕の鱗が、夕日を受けて淡い色に染まっている。


 銀、ではない。もう少し温かい色。


 夕焼けのせいだ、と思った。きっとそうだ。


「メルル様」


「はい」


「あなたの牧場は」


 ナシェルは広場の向こうに広がる草原を見ていた。橙色の光の中で、雲羊たちが白い塊になって草を食んでいる。シロが一匹の背中に乗って、風に目を細めている。


「退屈とは、対極にある」


 心臓が、一拍だけ止まった。


 退屈。


 あの言葉だ。シャンデリアの光の下で、大勢の前で、笑いながら投げつけられた言葉。胸の奥にずっと刺さっていた棘。


 それを、この人は知らないはずだ。あの夜の話をしたとき、「退屈な女」という具体的な言い回しまでは伝えていない。


 ──偶然だ。


 偶然、同じ言葉を選んだだけ。


 なのに。


 棘が、ほんの少しだけ、溶けた気がした。


「……ありがとうございます」


 声が震えなかったのは、我ながら上出来だったと思う。


 夜、小屋の寝台でシロを抱きながら天井を見つめた。


 ぴくんが足元で丸くなり、窓の外では虫の声が穏やかに響いている。


 今日は、長い一日だった。


「ぴ」


 シロが寝返りを打って、私の顎の下にもぐりこんだ。温かい。


 目を閉じかけたとき、階下からフランの声が聞こえた。朝の支度にはまだ早い。何か、ナシェルと話しているようだ。


 聞くつもりはなかった。でも、フランの声はいつだって通りがいい。


「──庇護申請って、もう出したんですか?」


 庇護、申請。


 竜王家への、正式な庇護申請。


 目が覚めた。


 シロの寝息だけが、暗い部屋に小さく響いている。

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