第7話 元婚約者の影
行商人に月光糸を見せてから、二週間が経った。
あの行商人は糸を手に取った瞬間、目の色が変わった。「こんな素材は見たことがない」と興奮した声で言い、サンプルを一巻き分けてほしいと頼んできた。王都の魔導具工房に見せたいのだという。
悪い話ではなかった。サンプルは無料で渡し、代わりに「どこの工房がいくらで買いたいか、情報を返してください」とだけ伝えた。
まさか、その情報がこんな形で戻ってくるとは思わなかったけれど。
「初めまして。バルドウィン商会の代理を務めております、ゲルツと申します」
牧場の前に、身なりのいい中年の男が立っていた。仕立てのいいスーツに磨かれた革靴。辺境の草原にはあまりに不釣り合いな出で立ち。馬車は村の入口に停めてあるらしい。
バルドウィン商会。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かがきゅっと締まった。
「──こちらの牧場で生産されている特殊素材について、ぜひお取引のご相談をと思いまして」
ゲルツは愛想のいい笑顔を貼り付けたまま、革の鞄から書類の束を取り出した。
小屋のテーブルに案内する。フランが不審そうな顔で茶を淹れてくれた。
「弊社では、貴女の素材──月光糸、とお呼びでしたか──の独占販売契約を提案いたします。条件はこちらに」
書類を広げる。数字がびっしり並んでいる。
買取価格。年間最低数量。独占期間は五年。違約金の項目。
一見すると、好条件だった。
買取価格は、行商人が言っていた王都の相場よりやや高い。年間最低数量の保証もある。安定した収入が見込める──ように見える。
でも。
前世の脳が、ちかちかと警告を鳴らしている。
独占契約。五年。最低数量の保証はあるが、最大数量の上限がない。つまり、商会側はいくらでも追加注文できる。そして買取価格の改定条項が──小さな文字で但し書きがある。「市場価格の変動に応じて、双方の合意のもと改定可能」。
双方の合意。
聞こえはいい。でも独占契約を結んだ後、他に売り先がない状態で「値下げに合意してくれ」と言われたら、実質的に拒否できない。
──これ、前世のゲームで何度も見たパターンだ。独占契約を結ばせて、相手の選択肢を潰してから、条件を引き下げていく。古典的な買い叩き戦術。
「ゲルツさん」
私はできるだけ穏やかな声で言った。
「こちらの買取価格は、現在の王都相場の約一・二倍ですね。魅力的に見えます。ですが──」
書類の一項目を指差す。
「独占期間が五年、かつ買取数量に上限がない。これは実質的に、私が御社以外に一切売れないことを意味します。そして価格改定条項に"双方の合意"とありますが、独占契約下では私に交渉力がありません。一年目は好条件でも、二年目以降に段階的な値下げを要求される構造になっています」
ゲルツの愛想笑いが、ほんの一瞬だけ固まった。
「さらに、違約金の設定が片務的です。私が契約を破れば売上の三倍を支払いますが、御社が数量保証を満たさなかった場合のペナルティが記載されていません」
テーブルの下で、シロがもそもそと動いた。ぴぃ、と小さく鳴いて、テーブルの下からゲルツの足元に顔を出す。そのまま、ゲルツの靴紐をぱくっと甘噛みした。
「──何だ、この獣は」
ゲルツが足を引こうとした。眉を顰めて、邪険に払いのけようとする手が伸びる。
「シロちゃんに触らないでください」
フランだった。茶を淹れていたはずの彼女が、いつの間にかテーブルの横に立っている。声は低く、目がまっすぐゲルツを見ていた。いつもの元気な声ではない。
同時に、角兎のぴくんがテーブルの下からシロの前に回り込んで、銀の角をゲルツの方に向けた。小さな体を精一杯膨らませて、くぅ、と威嚇するように鳴く。
ゲルツの手が止まった。
「……失礼」
私はシロを抱き上げてテーブルの下から救出し、膝に乗せた。ぴくんもそっと足元に呼び寄せる。フランに目で「ありがとう」と伝えた。
「ゲルツさん。ご提案はありがたいのですが、今回はお断りさせていただきます」
はっきりと言った。
「販路については、複数の取引先と公正な条件で取引することを考えています。独占契約は、現時点では必要ありません」
ゲルツは書類をゆっくり鞄に戻した。愛想笑いは消えている。
「……そうですか。残念です。もし気が変わられましたら、いつでもご連絡ください」
立ち上がり際、ゲルツが書類の角を揃えた。その手元に、一瞬だけ見えた。
契約書の右下隅に押された印章。獅子と天秤の紋──バルドウィン商会の正式な社章。
レクトの家の、紋章。
知っている。三年間、何度も見た印章。婚約時代に交わした書簡にも、贈り物の包装にも、いつもこの紋章が押されていた。
ゲルツが帰った後、膝のシロをぎゅっと抱きしめた。靴紐の味がまだ口に残っているのか、シロがぺろぺろと唇を舐めている。
レクト。
あなたが、わざわざ代理人を送ってきたの。
「退屈な女」の月光糸が、そんなに気になった?
◇
午後、柵際で座り込んでいた。
空は曇り始めていて、さっきまで明るかった草原がくすんだ緑に沈んでいる。風が少し冷たい。
「メルルさん」
ナシェルの声。いつもの穏やかな低音。
「先ほどの商人と話している時──あなたの目が、曇っていました」
隣に腰を下ろしたナシェルは、まっすぐ前を向いたまま言った。草原の向こうを見ている。
相手の目を見て問い詰めるのではなく、隣に並んで同じ方向を見てくれる。この人はいつもそうだ。
「……見てたんですか」
「獣医は、対象の些細な変化を見逃さないよう訓練されています」
対象。
私は対象なんだ、と少しだけ可笑しくなった。
でも、不思議と話したくなった。
この人になら、言えるかもしれない。
「あの商会の名前──バルドウィン商会は、元婚約者の家なんです」
ナシェルの手が、膝の上で止まった。
「一ヶ月半くらい前に、社交パーティーで婚約破棄されました。"退屈な女"だって。社交の場で華やかに振る舞えない、話題に乏しい、魔力も平凡。要するに、一緒にいてつまらない女だと」
声は震えなかった。もう何度も自分に言い聞かせた言葉だから。でも、口に出すと、胸の奥の棘がまだちくりと刺す。
「──それで、辺境に来ました。行く場所が他になかったので」
シロが膝から顔を上げて、私の手にぷにっと頬をすり寄せた。温かい。
ナシェルは、しばらく黙っていた。
草原の風が、二人の間を吹き抜ける。曇り空の下で、銀色の鱗がいつもより静かに光っている。
「退屈」
ナシェルが、低い声で繰り返した。感情の読めない、平坦な声──いや、違う。平坦に聞こえるけれど、言葉の端にかすかな硬さがある。雲羊の毛刈りに失敗した時とも、獣医の話をした時とも違う。
「あなたが、退屈」
もう一度。
「この牧場を見れば、誰もそんなことは言えないはずです。竜族の知恵を知り、満月の毛刈りを実践し、月光糸を生み出し、魔獣たちに慕われている。──それのどこが退屈だというのですか」
声が、少しだけ強くなった。ナシェルにしては珍しい。
「それに──」
言いかけて、口を閉じた。
視線が私の目から下がって、手元に落ちる。軟膏を塗った、私の手。
「……いえ。何でもありません」
何でもなくない。
今、絶対に何か言いかけた。「それに」の先に、何かがあった。
でも、聞けなかった。ナシェルの横顔が、いつもより硬くて、触れたら壊れそうに見えたから。
「──ありがとうございます。ナシェルさん」
それだけ言うのが精一杯だった。
ナシェルは小さく頷いて、シロの頭をそっと撫でた。シロがぴぃと鳴いて、二人の手の間で丸くなった。
◇
夜。
暖炉の前で日記を開く。今日あったことを書き連ねる。バルドウィン商会の代理人。独占契約。断ったこと。レクトの紋章。
そして。
『ナシェルさんは何を言いかけたんだろう。「それに──」の先。気になる。気にしちゃいけない。だって私は、もう誰かに期待するのが怖い』
ペンを置いて、窓の外を見た。
ナシェルの空き家に、今夜も灯りがついている。橙色の魔導ランプの光。いつものように遅くまで記録を書いているのだろうか。
でも今夜は、その灯りの中に動く影が見えた。ナシェルが机に向かっている。手元にあるのは、いつもの手帳ではなく、もっと大きな紙。──手紙?
目を凝らす。距離があるからはっきりとは見えないけれど、紙を封筒に入れ、何かを押しつけているのが見えた。封蝋だ。赤い蝋を溶かして、印章を押す。
印章の形は──遠くて判別できない。でも、翼を広げた何かのシルエットに見えた。竜、だろうか。
シロがぴぃと鳴いて、私の手に頬をすり寄せた。薬草の軟膏の甘い香りが、まだほんのり残っている。
「……ありがとう、シロ」
あの人は、何を書いているんだろう。
誰に、送るんだろう。
聞けない。聞いていいのかもわからない。
灯りがゆらゆらと揺れて、やがて消えた。ナシェルが眠りについたのだろう。
私も日記を閉じて、毛布に潜り込んだ。シロが腕の中に丸くなる。温かい体温が、少しだけ心を凪がせてくれる。
明日は、村の女性たちに月光糸の紡ぎ方を教える日だ。独占契約には頼らない。自分たちの手で、販路を作る。
退屈な女は、もう誰かの許可を待たない。




