第6話 雲羊の毛は金の糸
満月の夜がきた。
辺境に来てからちょうど一ヶ月。あの社交パーティーの夜が、もう遠い昔のことのように思える。
日が沈み、月が昇り始めた。
丸い。欠けるところがない、完璧な円。銀色の光が草原を覆い、牧場の柵が影の縞模様を地面に描く。空気が澄んでいて、草の甘い匂いと、どこか冷たい夜露の気配が混じっている。
「準備はよろしいですか」
ナシェルが魔導鋏を手に、柵の中に立っていた。この六日間、雲羊との距離を縮める特訓をした成果か、今日はロングコートではなく袖をまくった麻のシャツ姿だ。草まみれになってもいいように、と本人は真面目な顔で言っていた。
雲羊が、月明かりの中でじっとしている。
普段はのんびり歩き回っているこの子が、満月の夜だけは違う。もこもこの毛が月光を吸い込むように淡く光り、体全体がぼんやりと発光している。目を閉じて、まるで月の光を全身で浴びているみたいだ。
「綺麗……」
思わず呟いた。ナシェルも同じことを感じたのか、水晶板を取り出して毛の魔力量を測定し、小さく息を呑んだ。
「通常時の四倍近い。予想を上回っています」
私がそっと手を伸ばすと、雲羊は目を閉じたまま、めぇ、と穏やかに鳴いた。信頼の声。いいよ、と言ってくれている気がした。
鋏を入れる。
ふわり。
月光を帯びた毛が、音もなく落ちた。触れた指先がじんわり温かい。
ナシェルが反対側から丁寧に刈っていく。六日間の特訓の成果で、今日は雲羊も逃げない。二人で黙々と手を動かす。月明かりと、鋏の微かな音と、雲羊の穏やかな呼吸だけが夜を満たしていた。
静かで、綺麗な時間だった。
刈り終えた毛を籠に集める。月光の下では白く見えたそれが、朝日が地平線から顔を出した瞬間──色が変わった。
金色。
毛の一本一本が、朝日を受けて金色に輝いている。籠の中が、液体の金を注いだみたいにきらきらと光っていた。
「これは……」
ナシェルが水晶板をかざす。光の線がびっしりと浮かび上がり、複雑な紋様を描く。
「魔力伝導率が、私の知る限り最高等級です。王都の魔導具工房が、喉から手が出るほど欲しがる代物でしょう」
最高等級。
頭の中で、前世のゲーム知識がカチリとはまる。──素材は加工してから出荷する。生のまま売るのは利益の半分を捨てるのと同じ。
「このまま売るのはもったいない」
「というと?」
「糸に紡ぎます」
◇
ルーナおばあちゃんに紡ぎ車を借りた。年季の入った木製で、車輪の軸が少しきしむけれど、まだ十分使える。
「あたしも若い頃はよく紡いだもんさ。やり方は体が覚えてるよ」
ルーナおばあちゃんに基本を教わりながら、金色の毛を糸に紡ぎ始めた。紡ぎ車のペダルを踏むと、車輪がゆっくり回る。指先で毛束を撚り合わせ、細い糸にしていく。
最初は太さがばらばらで、何度もやり直した。でも前世でシミュレーションゲームの加工画面を何千回と見てきた手が、不思議と感覚を掴んでいく。指先に集中する。毛の繊維の流れを感じて、力加減を微調整する。
一時間ほどかけて、最初の一巻きが出来上がった。
紡がれた糸を光にかざす。
金色の糸が、きらきらと輝いていた。細いのにしなやかで、引っ張っても切れない。指に巻きつけると、ほんのり温かい。魔力が糸の中に封じ込められているのがわかる。
「月光糸」
口から自然に出た名前。月の光で育ち、金色に輝く糸。
「月光糸。──いい名前ですね」
ナシェルが糸を手に取り、水晶板で鑑定した。
「糸にしても魔力伝導率が落ちていない。むしろ、紡ぐ過程で繊維が整列したことで効率が上がっている。これは……驚異的です」
フランが横からのぞき込んで、目をきらきらさせた。
「きれい! これ、お金になりますか!?」
「なると思う。いくらになるかは、まだわからないけど」
でも、確信はあった。前世の経営ゲーム的に言えば、最高品質の加工品は必ず市場を動かす。
◇
午後、ナシェルとシロの定期診察の後で、柵の中を二人で歩いた。
シロは小型犬ほどの大きさになっている。一ヶ月前は手のひらに乗っていたのに。翼の芽もだいぶ伸びて、小さな翼の形がはっきりしてきた。走ると翼をばたばた動かすけれど、まだ飛べない。本人は飛びたいらしく、丘の上から何度も助走をつけてジャンプしているが、結果は毎回ぽてんと着地だ。
「ナシェルさん。この子たちが穏やかなのって──やっぱりシロのおかげなんですか」
ナシェルが頷いた。
「"招竜の波動"。竜王の血筋が持つ先天的な力です。周囲の魔獣の精神を安定させ、引き寄せる。アルビオン殿下の成長に伴い、範囲も強度も拡大しています。この牧場の魔獣たちの魔力が安定しているのは、シロの波動のおかげでしょう」
やっぱり。あの仮説は正しかった。
嬉しいような、不安なような。
「──ということは、シロが成長すればするほど、もっと多くの魔獣が集まるんですね」
「ええ。そして──」
ナシェルが言葉を切った。私の顔を見ている。
「竜王陛下が、シロを迎えに来る日も近いってことですか」
言いたくなかった言葉が、口から滑り出た。
風が吹いた。草原の草がさわさわと揺れる。シロが私の足元にぴとりとくっついて、見上げてきた。青い瞳。この子が私の元からいなくなる日が来るかもしれない。
ナシェルは少しの間、黙っていた。
それから、穏やかな声で言った。
「その時はその時です。今は──この子の幸せを最優先に考えましょう」
シロがぴぃと鳴いて、私の膝に頭をこすりつけた。温かい。この温もりが消える日のことは、まだ考えたくない。
「……そうですね。今は、今のことを」
シロを抱き上げる。もう両手いっぱいの重さ。でも、まだ抱ける。
◇
その夜、月光糸のサンプルをもう一巻き紡ぎ終えた頃には、すっかり遅い時間になっていた。
暖炉の火がぱちぱち鳴る中、指先を見ると、紡ぎ車と毛の摩擦で皮膚が赤くなっている。爪の間にも毛の繊維が入り込んで、洗ってもなかなか取れない。手全体が、少しひりひりする。
「メルルさん」
振り向くと、ナシェルが小屋の入口に立っていた。帰ったと思っていたのに。手に小さな瓶を持っている。
「記録を書いていたのですが、そういえば、と思いまして。──手を見せていただけますか」
「え? あ、大丈夫ですよ。ちょっと荒れてるだけで」
「見せてください」
穏やかだけど、有無を言わさない声。獣医が患者に向ける声と同じだ。
仕方なく両手を差し出す。ナシェルが私の手を取った。
大きい。
私の手が、すっぽり包まれるくらい大きくて、温かい。竜族の体温は人間よりやや高いと聞いたけれど、こんなにはっきり感じるのは初めてだった。
ナシェルが小瓶の蓋を開け、薬草の軟膏を指先に取った。透明な軟膏で、ほのかに甘い花の香りがする。
その指が、私の手の甲に触れた。
──っ。
心臓が、跳ねた。
どくん、と一回大きく打って、そこから速くなった。耳の奥で自分の鼓動が聞こえる。
ナシェルの指は丁寧だった。荒れた箇所を避けるように、軟膏を薄く伸ばしていく。指の一本一本に沿って、手のひらの窪みに、手首の近くまで。シロの背中を触診する時とは違う──もっとゆっくりで、もっと慎重な手つき。
顔が熱い。
暖炉の火のせいだ。絶対にそう。
「人間の皮膚は、竜族より薄く繊細にできています」
ナシェルが真面目な顔で言った。視線は私の手に落ちている。
「もっと手を大事にしてください。紡ぎ作業の後には必ずこれを塗るように。──余った分は置いていきます」
医者のアドバイスだ。
獣医さんが、人間の手の荒れを心配してくれている。それだけのこと。
でも、指先に残るナシェルの手の温もりが、なかなか消えなかった。
「あ、ありがとう、ございます」
声が裏返った。
ナシェルは小瓶をテーブルに置いて、「では、おやすみなさい」と丁寧に頭を下げて帰っていった。
扉が閉まった後、しばらく自分の手を見つめていた。薬草の甘い香りがほんのり漂っている。
シロが膝に飛び乗ってきて、ぴぃと鳴いた。
「……なんでもない。なんでもないよ」
心臓がまだうるさい。疲れているからだ。一日中、紡ぎ車を回していたから。血の巡りが良くなっているだけ。
そういうことに、しておく。
◇
翌朝。
牧場の柵を開けていたら、フランが走ってきた。
「おはようメルルさん! ──って、顔赤くないですか? 熱?」
「熱じゃない!!」
思いのほか大きな声が出て、自分でびっくりした。角兎のぴくんがびくっと耳を立てた。ごめんぴくん。
「えー、でも赤いですよ?」
「朝日のせい! 朝日が赤いの!」
フランが首を傾げたまま、何か言いかけた。でも視線がふと村の入口の方に向き、大きく目を見開いた。
「あ──メルルさん、行商人の馬車!」
振り向く。村に続く一本道の向こうに、幌を張った馬車がゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えた。辺境に年に数回しか来ないという、行商人。
テーブルの上に、昨夜紡いだ月光糸のサンプルがある。朝日を受けて、金色に輝いている。
胸の奥で、何かが動いた。
不安でも期待でもない、もっと確かな何か。
──この糸を、見てもらおう。
私の牧場の、最初の商品を。




