第5話 竜の獣医さんと牧場の朝
ナシェルが牧場に通い始めて五日目の朝。
もう日課になった光景がある。
朝靄がまだ草原にかかっている時刻に、焦げ茶のロングコートの背中が柵の向こうに見える。革の鞄を肩にかけ、長靴の裾に朝露をつけて、ナシェルはいつも同じ時間にやってくる。
竜族は睡眠が少なくても平気なのか、それとも早起きなだけなのか。聞いてみたいけれど、なんとなく聞きそびれている。
「おはようございます、メルルさん」
「おはようございます。今日も早いですね」
「ええ。朝の方が魔獣たちの魔力が安定しているので、診察に適しているのです」
ナシェルは革鞄から小さな水晶の板を取り出す。獣医魔導の診察道具だそうで、魔獣の体に近づけると内部の魔力の流れが映し出されるらしい。
シロの体に水晶板をかざすと、淡い光の線が浮かび上がる。ナシェルはそれを手帳にスケッチしながら、小さく頷いた。
「魔力循環、良好。体温も正常範囲。翼の芽の発育も順調です。──素晴らしい」
シロはナシェルの手に甘噛みしながら、されるがままになっている。慣れたものだ。五日でこの信頼関係を築けるのは、ナシェルの手つきが本当に穏やかだからだと思う。魔獣に触れる時の指先が、柔らかくて、でも迷いがない。
角兎のぴくんも、風狐の子も、順番に診察を受ける。星蛍は光の明滅パターンで健康状態がわかるらしく、ナシェルは蛍の群れを眺めながらメモを取っていた。
「ナシェルさん、獣医魔導って珍しいお仕事なんですか?」
「ええ。竜族の中では、極めて少数です」
言い淀む気配はなかったけれど、言葉の端にかすかな硬さがあった。それ以上は聞かなかった。
◇
雲羊の診察が終わった後、ナシェルがふと手を止めた。
「メルルさん。この雲羊の毛、最後に刈ったのはいつですか」
「えっと、まだ刈ってないです。来たばかりなので」
「そうですか。時期的にはそろそろ刈り時ですが……何か、飼育について心得がおありですか?」
きた。
前世のゲーム知識が、頭の中でちかちか光る。雲羊の毛は──
「──満月の夜に刈ると、品質が上がる……はず、です」
ナシェルの手が、手帳の上で止まった。
銀色の鱗が陽光を弾いて、きらりと揺れた。
「……なぜ、それを?」
「え?」
「それは竜族に伝わる古い知恵です。人間の文献には、まず載っていないはずですが」
しまった。言いすぎた。
前世のゲームに竜族の古い知恵が入っていたとは。いや、あのゲームの開発者がどこまで調べて作ったか知らないけど──って、そんな分析をしている場合じゃない。
「え、えっと……昔読んだ本に、そう書いてあった気がして。古い本だったので、もしかしたら竜族の文献の翻訳だったのかも……?」
苦しい。明らかに苦しい言い訳だった。
けれどナシェルは、疑うよりも感心した顔をしていた。
「なるほど。希少な文献をお持ちだったのですね。──いえ、理由はともかく、正しい知識です。満月の夜は魔力の潮汐が最も高く、雲羊の毛が魔力を最大限に蓄えます。その状態で刈った毛は、魔力伝導率が通常の三倍以上になります」
三倍。それはすごい。
ゲームでは「品質アップ」としか表示されなかったけど、理屈で説明されると納得感が段違いだ。
「次の満月は六日後ですね。その時に刈りましょう」
「は、はい。──あの、一つ聞いてもいいですか」
「なんでしょう」
「雲羊の毛刈り、やったことありますか?」
ナシェルが一瞬だけ、目を逸らした。
「……理論上は」
理論上。
嫌な予感がする。
◇
嫌な予感は的中した。
満月まで待つとして、まず練習が必要だろうということで、今日は伸びすぎた毛先だけ整えることにした。ルーナおばあちゃんに借りた毛刈り用の魔導鋏──魔力で刃が温まり、毛を痛めずに切れるという優れもの。
ナシェルが鋏を持って雲羊に近づいた。
雲羊が逃げた。
めぇぇ、と情けない声を上げて、柵の中を全力で走り回る。もこもこの体が左右に揺れて、角兎が巻き込まれそうになり、風狐の子どもがきゃふきゃふ騒ぐ。
「待っ──落ち着いて、私は敵ではありません」
ナシェルが鋏を持ったまま追いかける。ロングコートの裾が草に引っかかる。よろける。雲羊が急に方向転換して、ナシェルの足元をすり抜ける。ナシェルが盛大に転んだ。
草まみれだった。
藍色の髪に草の切れ端がついている。ロングコートの背中が緑色に染まっている。銀の鱗にまで小さな葉っぱがくっついていた。
「……すみません。理論と実践は、別物のようです」
笑ってしまった。声を出して。お腹を抱えて。
「ごめ、ごめんなさい……っ、だって、葉っぱ……耳に葉っぱが……!」
ナシェルが自分の耳に手をやり、葉っぱを一枚つまみ上げた。しばらく眺めて、それからほんの少しだけ口角を上げた。照れているのか、諦めたのか。
「お手本を、お願いしてもよろしいですか」
私は雲羊の前にしゃがんだ。
手のひらを見せて、ゆっくり近づく。前世のゲームで覚えた手順。まず信頼。焦らない。相手のペースに合わせる。
雲羊がくんくんと手の匂いを嗅ぐ。もこもこの頭をそっと撫でる。額の下、耳の後ろ。ここが気持ちいいポイント──ゲームでも、ここを撫でると好感度が上がった。
雲羊がめぇ、と穏やかに鳴いて、どすんと座り込んだ。
鋏を入れる。もこもこの毛が、ふわり、と落ちた。
金色がかった白い毛。触ると驚くほど柔らかくて、指の間からこぼれそうになる。
「……見事ですね」
ナシェルが、草まみれのまま感嘆の声を漏らした。
「私には、あの雲羊がなぜあなたの前でだけ座るのか、理論では説明できません」
「信頼の問題じゃないですかね。この子はまだ、ナシェルさんに慣れてないだけですよ。毎日一緒にいれば大丈夫です」
刈り終わった雲羊が、身軽になって柵の中を跳ね回り始めた。もこもこが三割ほど減って、短い毛の下のすべすべした肌が見える。嬉しいのか、めぇめぇ鳴きながらぴょんぴょん跳ねる。風狐の子どもが一緒になって走り回り、シロがぴぃぴぃ声援を送っている。
フランが柵の外から拍手した。
「メルルさん上手! ナシェルさんはもうちょっとがんばろう!」
「……善処します」
ナシェルの声は平坦だったけれど、耳の鱗が──ほんの一瞬だけ、光が揺れたように見えた。日差しのせいだろうか。
◇
夕方、ナシェルがシロの最後の診察をしている間、私は小屋の前の石段に座って見ていた。
ナシェルの手がシロの背中を丁寧に触診する。小さな翼の芽を指先で確かめ、尻尾の付け根の筋肉を軽く揉みほぐす。シロは気持ちよさそうに目を細めている。
「ナシェルさん」
「はい」
「竜族の中で獣医が珍しいって、さっきおっしゃってましたよね。──どうして獣医魔導を選んだんですか?」
ナシェルの手が、ほんの一拍だけ止まった。
すぐにまたシロの背中を撫で始める。
「……竜族の主流は、魔獣を従属させる魔導です。力で支配し、道具として使う。獣医魔導は、魔獣の生命力に寄り添い、癒すもの。主流派からすれば──」
言葉を選んでいる。
「"なぜ下等な獣を診る"と」
淡々とした声だった。怒りも悲しみも滲ませていない。事実を述べているだけ、という口調。でも、淡々としすぎている。何年もかけて、感情を畳んでしまったような声。
「でも私は、命に上等も下等もないと思っています。竜族だろうと、角兎だろうと、星蛍だろうと。命はすべて、等しく尊い」
シロがぴぃ、と小さく鳴いた。ナシェルの指に頬をすり寄せる。
前世の記憶が、不意にちらついた。
過労死する前の自分。会社では「効率の悪い社員」と言われて、でも後輩の相談だけは断れなくて、誰かの役に立てるなら深夜まで残って──結局、使い潰された。
命を軽んじられる痛みを、この人は知っている。言葉は違う。種族も違う。でも、根っこのところで。
「──ナシェルさんは、優しい人ですね」
口にしてから、あ、と思った。唐突すぎなかっただろうか。
ナシェルが顔を上げた。
目が、見開かれていた。
銀色の瞳──竜族の瞳は、人間より少し虹彩が大きい──が、まっすぐ私を見ている。
口を開きかけて、閉じた。
それから、もう一度開いて。
「……そう言われたのは、初めてです」
声が、少しだけ掠れていた。
銀色の鱗に、夕日が当たる。一瞬だけ光が揺れた気がしたのは──きっと、風が吹いたせいだ。
シロがぴぃぴぃと鳴きながら、私とナシェルの間を行ったり来たりしている。忙しい子だ。
◇
夜。
フランが帰り支度をしながら、ルーナおばあちゃんに何か耳打ちしていた。柵の外。声は、風に乗ってほんの切れ端だけ届く。
「──あの二人、いい感じじゃないですか?」
「まだまだ先は長いよ」
ルーナおばあちゃんの声には、笑いが混じっていた。
いい感じって何がだ、と心の中でツッコんだ。ナシェルさんは獣医として来ているだけだし、私は牧場主として協力しているだけ。それ以上でも以下でもない。
そう思いながら、窓辺に肘をついた。
村の外れ、ナシェルが借りている空き家の窓に、まだ灯りがついている。魔導ランプの、淡い橙色の光。きっとまた、遅くまでシロの観察記録を書いているのだろう。
あの細かい手帳に、丁寧な文字で。今日の雲羊の毛刈りのことも書くのかな。草まみれになったことも、正直に記録するのだろうか。
──笑っちゃうな、あの時の顔。
口元がゆるむ。
……なんでこんなに、あの灯りが気になるんだろう。
牧場の仲間だから、かな。大事な協力者だから。それだけ。うん。
膝の上のシロが、ぴぃと小さく鳴いて丸くなった。温かい体温が、太腿に伝わってくる。
明日は、ナシェルさんに雲羊の扱い方をもう少し教えてあげよう。あの不器用さを放っておくわけにはいかない。
窓の向こうの橙色の灯りが、ゆらゆらと揺れていた。
それを見ながら、いつの間にか眠りに落ちた。




