第4話 迷い込む子たち、探しに来る人
角兎を保護してから五日が経つ。
擦り傷はすっかり塞がって、灰色の小さな兎は柵の中を自由に跳ね回るようになった。額の銀色の角が、朝日を受けてきらりと光る。名前はまだ決めていない。呼ぶとぴくんと耳が動くから、とりあえず「ぴくん」と呼んでいる。安直だけど、シロの命名基準に合わせた。
そのぴくんが居着いた翌日から、牧場に異変が起きた。
最初は一匹の風狐だった。
子どもの風狐。大人の掌ほどの体に、大きすぎる耳。尻尾が体の倍くらい長くて、先端がほわほわと風になびいている。薄い金色の毛並み。朝、柵の隙間から顔だけ出して、じっとこちらを窺っていた。
フランが「きゃーっ」と駆け寄ったら逃げたけれど、昼にはまた戻ってきて、今度は柵の中に入り込んでいた。シロの尻尾を後ろからちょいちょいと前足で叩いて遊んでいる。シロは迷惑そうに尻尾を振ったけれど、振った尻尾を風狐が追いかけるものだから、結局二匹でくるくる回ることになった。
「ぴぃ」
「きゃふ」
可愛い。非常に可愛い。仕事の手が止まる。
次に来たのは星蛍だった。
夜、柵の内側に十数匹の淡い光がふわふわ漂っていた。蛍というより、小さな星の欠片みたいだ。黄金色で、近づくと温かい。シロが鼻先で突こうとすると、すいっと避けて、またふわりと寄ってくる。
そして三日前の朝、雲羊が来た。
あの馬車から見た、もこもこの白い魔獣。一頭だけ、群れからはぐれたのか、柵の前でめぇと鳴いていた。
もこもこ度合いが近くで見ると尋常ではない。体の三分の一くらいが毛だ。目がどこにあるのかもわからない。柵を開けてやると、とことこ入ってきて、まっすぐシロのところへ行き、シロの隣にどすんと座った。
今朝、その雲羊が私の足元にもたれかかってきた。
もこもこの毛に脚が埋まる。温かくて、柔らかくて、ほんのり甘い匂いがする。綿菓子に脚を突っ込んだみたいだ。動けない。動きたくない。
「メルルさん、幸せそうな顔してますね」
フランが柵の修理をしながら笑う。
「……だってこのもこもこ、反則でしょ……」
「わかる。あたしも昨日、角兎に膝枕されて三十分動けなかった」
柵の中は、いつの間にか小さな動物園のようになっていた。シロを中心に、角兎、風狐、星蛍、雲羊。種類の違う魔獣たちが、喧嘩もせず穏やかに過ごしている。
フランがほうきの手を止めて、首を傾げた。
「ねえ、メルルさん。前から気になってたんですけど──なんでこんなに魔獣が来るんですか? あたし、ここに十四年住んでるけど、こんなこと初めてですよ」
私も同じことを考えていた。
柵の中央で、シロが日だまりに寝そべっている。風狐がその背中に乗り、角兎が脇腹にくっつき、雲羊が影を作るように覆いかぶさっている。星蛍はシロの頭上をゆっくり周回している。
まるでシロが太陽で、魔獣たちが惑星みたいに。
「……シロが、引き寄せてるのかもしれない」
「引き寄せ?」
「うまく言えないけど。この子たち、みんなシロの近くにいると落ち着くみたいだから。角兎を拾った夜もそうだった。あの子、シロの隣に来た途端に震えが止まったの」
確信はない。ただの仮説。でも、それ以外に説明がつかなかった。
「シロちゃんすごい! もふもふ磁石!」
フランの解釈はだいぶ雑だったけれど、的を射ているかもしれない。
◇
午後になって、来客があった。
もふもふではなく、人間の方の。
柵の外に、一人の青年が立っていた。
背が高い。旅装──焦げ茶のロングコートに革の鞄、埃をかぶった長靴。髪は深い藍色で、肩にかかるくらいの長さ。顔立ちは整っているけれど、それよりも目を引いたのは、耳だった。
耳の先端に、銀色の鱗がある。
日差しを受けて、鉱石みたいに淡く光っている。
人間じゃない、と直感した。
「失礼します。このあたりに、珍しい魔獣がいると伺って──」
声は穏やかだった。低く、落ち着いていて、言葉を選ぶ丁寧さがある。
「あ、はい。珍しい、かは分からないですけど……何匹かいます」
「私はナシェル・ドラクリアと申します。竜王家の分家筋の者で、獣医魔導を専門にしております。実は──竜王陛下の末のお子を探しているのですが」
竜王陛下の、末のお子。
頭の中が一瞬、真っ白になった。
「……末の、お子」
「ええ。数週間前に卵が所在不明になりまして。魔力の痕跡を辿って、この辺境まで来ました」
ナシェルと名乗った青年の視線が、柵の中を通り抜けて、まっすぐシロに向かった。
シロは日だまりで寝そべったまま、片目を開けてこちらを見ている。
ナシェルの表情が変わった。
穏やかだった目が、大きく見開かれる。呼吸が止まったのが、離れた場所からでもわかった。
「──間違いありません」
声が低くなった。敬意のこもった、厳かな声。
「この子は竜王陛下の末子、アルビオン殿下です」
足元が揺らいだ気がした。
シロが。
あの、ぴぃと鳴いて、ミルクをこぼして、くしゃみで火を吐いて、私の肩から滑り落ちるシロが。
竜王の、子ども。
「返して──ほしい、ですか」
声が震えた。覚悟していたはずなのに、いざ口にすると喉が詰まった。
この子は竜王の末子だ。私みたいな、辺境のぼろ小屋に住む元伯爵令嬢が育てていい存在じゃない。当然、連れて帰ると言われる。わかっている。
ナシェルは私を見た。
銀色の鱗が、木漏れ日の中で静かに光っている。
「……いいえ」
予想と違う言葉だった。
「こんなに健やかに育っている幼竜を、私は初めて見ました」
ナシェルは柵の前にしゃがみ、シロの高さに目線を合わせた。学者が貴重な標本を前にした時のような、真剣な目。でも、その奥に温かいものが混じっている。
「竜王家で孵化した幼竜は、環境の変化に敏感で、最初の数週間は衰弱することが多いのです。それがこの子は──毛艶もいい、体重も十分、何より目の色が澄んでいる。育てた方の技量が、並ではない」
育てた方の技量。
……私のこと?
「もう少し、この子の傍で観察させていただけませんか。この飼育環境がアルビオン殿下にどのような影響を与えているのか、記録したいのです。竜王陛下には私から報告いたします」
返してほしい、ではなく。
観察させてほしい。
肩の力が、ふっと抜けた。同時に、目頭が熱くなるのを慌ててこらえた。泣く場面じゃない。
「……はい。もちろん。シロ──アルビオン殿下のために良いことなら」
「シロ、と呼んでいらっしゃるのですか」
「あ……すみません、勝手に名前を」
「いいえ。名前をつけてもらえたのなら、この子は幸せです」
ナシェルが柵の中に手を差し入れた。
シロがのそのそと起き上がり、近づいてきて──ナシェルの指先を、甘噛みした。
ナシェルが目を丸くした。
そして、笑った。小さく、でも確かに。口の端がほんの少しだけ上がって、銀色の鱗がきらりと揺れた。
──あ。
胸の真ん中が、ぽん、と跳ねた。
なんだろう、今の。心臓が一回だけ、大きく打った。
驚いただけだ。竜王の末子だと聞いて動揺していたところに、この人が笑うから、タイミングの問題。それだけ。
◇
結局、ナシェルは村の空き家を借りて滞在することになった。
ルーナおばあちゃんが「空いてる家ならあるよ」とあっさり手配してくれた。元冒険者のおばあちゃんは、ナシェルの耳の鱗を見ても特に驚かなかった。「竜族の方かい。遠いところからご苦労さん」と、まるで隣村から来た親戚みたいな対応だった。
夕方、ナシェルが牧場に戻ってきた時、シロの反応が面白かった。
私の膝で丸くなっていたシロが、ナシェルの足音を聞いた途端にぴぃと鳴いて起き上がり、とてとてとナシェルの方に駆けていった。ナシェルがしゃがむと、その手のひらにちょこんと乗った。
「……シロ、あなた人見知りしないの?」
ぴぃ、とシロはナシェルの手の上でご機嫌に尻尾を振っている。さっきまで私の膝を占領していたくせに。
ナシェルが、手の上のシロをそっと見つめて言った。
「竜族の幼体は、信頼できる者にしか懐きません」
銀色の鱗が、夕日を反射して光った。
「この子があなたに懐いているのは、あなたが信頼に足る方だからです。──そして、あなたに育てられたからこそ、私にも心を開けるのでしょう」
あなたが信頼に足る方だから。
退屈な女、とレクトに言われた夜会の記憶が、不意に重なった。信頼に足る、なんて言われたのは初めてかもしれない。
耳が熱い。夕日のせいだ。夕日が赤いから、耳まで赤く見えるだけ。
「あ、ありがとうございます。シロのことは、引き続きちゃんと育てますので」
「ええ。私も、できる限り協力させてください」
シロがナシェルの手から私の肩に飛び移り、それからまたナシェルの肩に飛び移り、忙しく行き来している。まるで二人を紹介しているみたいだ。
ぴぃ。ぴぃ。
嬉しそうな声。
フランが柵の向こうから、にやにやしながらこちらを見ていた。目が合った途端、大きく親指を立ててきた。
何に対しての親指なのか、考えないことにした。




