第3話 くしゃみは小さな炎
シロが生まれて三日が経った。
あの手のひらサイズの白い子は、今や猫ほどの大きさになっている。
──成長、早すぎない?
朝、目を覚ますとシロは暖炉の前の毛布巣から這い出して、私の枕元でぴぃぴぃ鳴いていた。お腹が空いた、と訴える声。昨日より確実に体が一回り大きい。鱗のような柔らかい産毛は相変わらず真っ白で、背中の翼の芽も少しだけ伸びた。尻尾は自分の体の半分くらいの長さになっていて、先端がくるんと丸まっている。
問題は、ミルクだった。
トカゲ系の魔獣の幼体に、普通の山羊乳をそのまま与えていいのかわからない。昔読んだ本──前世のゲーム知識によれば、幼体には生の魔力ではなく、薬草で希釈した栄養乳が適しているはず。
台所に立ち、ルーナおばあちゃんにもらった薬草の束から、カモミールに似た黄色い花を選んだ。甘い香りのするこれを煎じて山羊乳に混ぜれば、魔力が穏やかになるはず。小鍋でことこと煮て、人肌に冷ます。
スプーンですくってシロの口元に持っていくと、最初はふんふんと匂いを嗅いで、それからぺろりと舐めた。
舐めた。
もう一回。
もう一回。
あっという間にスプーン五杯分を平らげて、ぷはっと満足そうに息を吐いた。口の端に白い雫がついている。
「よかった、飲んでくれた……」
安堵で膝から力が抜ける。この三日間、何を食べさせればいいのか分からなくて、小鍋の前で何度も首を傾げた。初日は水すら飲まなくて焦った。二日目に薬草乳を思いついて、やっと飲んでくれた時の喜びは、今思い出しても胸が熱くなる。
ミルクの後始末をしていると、シロが台所の椅子によじ登り、そこから私の肩に飛び乗ろうとした。
前足が肩に引っかかる。後ろ足がぶらんと宙に浮く。尻尾がぐるぐる回る。
「ちょ、シロ、爪立てないで──」
ずるっ。
滑り落ちた。床にぽてんと着地して、青い目を丸くしている。
「ぴぃ!」
怒ったように一声鳴くと、もう一度椅子によじ登り、もう一度肩に飛び、もう一度滑り落ちた。
「ぴぃぃ!」
三度目。今度は私がしゃがんで肩を差し出してあげた。シロは慎重に前足をかけ、ゆっくり登り、肩の上でぐらぐら揺れながらもどうにか安定した。得意げに「ぴ」と短く鳴く。
「はいはい、偉い偉い──」
次の瞬間、シロがくしゅんとくしゃみをした。
小さな炎が、ぽっと出た。
白銀色の、綺麗な火。
窓際に干していた洗濯物のカーテンの端をかすめ──焦げた。
「──っ、火! 火ぃ!!」
シロを肩から降ろし、慌てて水桶の水をかける。カーテンの端が黒く縮れていた。炎はすぐに消えたけれど、心臓がばくばくしている。
シロは何事もなかったかのように、床で尻尾を追いかけてくるくる回っていた。
「あなたね……火を吐くなんて聞いてない……」
ぴぃ、と無邪気な返事。
◇
シロの存在は、あっという間に村に広まった。
小さな村だから当然といえば当然だ。ルーナおばあちゃんに相談した時点で、翌日には村中が知っていたのだろう。
反応は二つに分かれた。
「魔獣を家の中で飼うなんて危険だ」という慎重な声と、「見てみたい」という好奇心。
最初に牧場に現れたのは、フランという少女だった。
赤い髪をふたつ結びにした、そばかす顔の女の子。歳は十四くらいだろうか。柵もまだない庭先に遠慮なくずかずか入ってきて、開口一番こう言った。
「もふもふがいるって聞いたんですけど!」
「……もふもふ?」
「白くてちっちゃくてふわふわの! ルーナおばあちゃんが言ってた! あたし、もふもふなら何でも好きなんです! 触っていいですか!?」
勢いに圧される。この子、自己紹介より先にもふもふの許可を求めてきた。
シロは庭先の日だまりで丸くなって昼寝をしていた。フランが近づくと、片目を開けて、ふんと鼻を鳴らした。
フランがそっと手を差し出す。
シロは手の匂いをくんくん嗅いで──甘噛みした。小さな歯茎でぷにっと。
「きゃあああっ!」
フランの悲鳴は歓喜のそれだった。目がきらきら光っている。
「かっ、かわいい……! なにこの子、天使? 天使なの? あたし一生ここにいます!」
「落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょこの可愛さ! メルルさん、あたしこの牧場で働きたいです! お給料いりません! もふもふ触らせてくれればそれでいいです!」
想像を超える展開だった。こちらはまだ柵すら建てていないのに、もう従業員希望が来た。
ルーナおばあちゃんが少し遅れてやってきて、フランの後ろから苦笑いを浮かべている。
「この子はフラン。村一番のお転婆さ。悪い子じゃないよ」
「ルーナおばあちゃん! この子見て! かわいいでしょ!」
「ああ、かわいいね。──メルル、手が足りないなら使ってやりな。この子、力だけは一人前だから」
フランが胸を張る。確かに、腕は日に焼けて逞しい。辺境育ちの体力は頼りになりそうだ。
「……じゃあ、お願いしようかな。まず、柵を建てるのを手伝ってくれる?」
「やったぁ!」
こうして、牧場の最初のスタッフが決まった。
◇
午後はフランと二人で、家の周りに柵を建てた。
裏山の倒木を引きずってきて、ルーナおばあちゃんに借りた鉈で杭の形に削る。地面に穴を掘り、杭を打ち込み、横木を渡す。単純だけど重労働。
フランは本当に力持ちで、私が両手で持ち上げる丸太を片手で担いだ。
「メルルさん、ここに牧場を作るんですか?」
「うん。まだ構想段階だけどね」
ノートを開いてフランに見せた。牧場の配置図。家畜小屋の位置。飼料置き場。水場。
前世のゲームでは、序盤はとにかく柵を広く取ることが大事だった。動物が増えてから手狭になると、効率が一気に下がる。
「すごい、ちゃんと計画があるんですね!」
「まだ絵に描いた餅だけどね……」
「餅?」
「あ、えっと、計画だけで中身はまだってこと」
柵の三辺目を打ち込んだ頃、ルーナおばあちゃんが水筒と、昼の残りのパンを持ってきてくれた。硬くなったパンを野菜のスープに浸して食べると、体に沁みるほど美味しかった。
「メルル」
ルーナおばあちゃんが、柵を眺めながら言った。
「この辺りの土地はね、長い間、何にもならないと思われてきた。若い者は出ていくし、残った者も諦め半分だ。でも──」
しわだらけの手で、打ちたての柵の杭をこんと叩いた。
「あんたがここで何かを始めるなら、あたしは応援するよ。あんたならやれそうだ」
不意に、胸の奥がきゅっとなった。
──退屈な女。
レクトの声が、遠い残響みたいに頭の隅をよぎる。でも、今は手のひらに柵の木の感触がある。爪の間に土が詰まっている。隣にフランがいて、ルーナおばあちゃんがいて、シロが日だまりで寝ている。
退屈な女は、今、柵を建てている。
自分の手で。自分の場所を。
まだ何も成し遂げていないけれど、この木の手触りだけで、少しだけ背筋が伸びる気がした。
◇
夜になった。
柵は四辺のうち三辺が完成。明日、残りの一辺を仕上げれば、ひとまず庭が囲える。
縁側──と呼ぶには粗末な、家の前の石段に腰を下ろした。シロを膝に乗せて、空を見上げる。
辺境の夜空は、星が多すぎて怖いくらいだ。天の川が、白い帯になって頭上を横切っている。シロは私の膝の上でへそ天──仰向けに寝転がって、白いお腹を見せている。前足が軽く丸まって、尻尾がぱたぱた揺れる。
「あんたは呑気だねぇ」
お腹を指でそっと撫でる。ぴぃ、と気持ちよさそうに細い声。
風が止んだ。
虫の声だけが、さわさわと夜を埋めている。
──そのとき、柵の前で草がかさりと鳴った。
顔を上げると、柵の向こうに小さな影があった。
兎だ。
いや、普通の兎じゃない。額に短い角が一本、月明かりを受けて銀色に光っている。体は掌に乗るほど小さくて、毛並みは灰色。
だけど、右の後ろ足を引きずっている。怪我をしているのだ。よろよろと柵の前まで来て、そこで膝を折るように座り込んだ。体が震えている。
「──角兎……?」
前世の知識が浮かぶ。角兎。おとなしい草食の魔獣で、角には微弱な治癒魔力がある。珍しくはないけれど、人前には滅多に出てこない。
膝の上のシロが、むくりと起き上がった。
青い瞳が、角兎をじっと見つめる。
「ぴぃ?」
首を傾げるように、小さく鳴いた。
角兎がびくりと体を強張らせた。でも──逃げない。
それどころか、震えが止まった。
さっきまでがたがた揺れていた小さな体が、シロの声を聞いた瞬間から、嘘みたいに静かになっている。
角兎は柵の隙間から顔だけをこちらに突き出して、くんくんと鼻を動かした。まるくて黒い目が、シロを見ている。怯えてはいない。安心している、ように見えた。
「……怪我、してるの?」
そっと立ち上がり、柵の隙間から手を伸ばす。角兎は逃げなかった。指先が灰色の毛に触れる。柔らかくて、少し冷たい。後ろ足に小さな擦り傷。血は止まっているけれど、腫れている。
シロが私の足元にぴとりとくっついて、角兎の方に鼻を伸ばした。角兎がシロの鼻先をくんくん嗅ぐ。二匹の鼻がくっつく。
ぴぃ。きゅ。
小さな声が交わされた。何か話しているみたいに。
偶然だろう。疲れ果てて、たまたまここまで辿り着いただけ。角兎はおとなしい魔獣だから、人の近くでも落ち着けたのかもしれない。
でも、不思議だった。
こんな夜更けに。柵の前に。まっすぐ、ここに来たみたいに。
角兎を抱き上げて、家の中に入る。薬草の軟膏を擦り傷に塗ってやると、角兎はおとなしく目を閉じた。シロが角兎の隣に丸くなり、白い体を寄せる。角兎がシロの体温に身を預けるように、ことんと頭を傾けた。
暖炉の火が、ふたつの小さな影をゆらゆらと壁に映している。
──なんだろう、この子たち。
胸の中で、温かいものと、かすかな不思議が混ざりあう。
シロの近くにいると、この角兎は安心するのだろうか。偶然かもしれない。でも、卵を拾った日の夜に聞こえた森の鳴き声を思い出す。あれも、気のせいだったのだろうか。
考えてもわからない。今わかるのは、怪我をした子がここにいて、私が手当てできるということだけ。
明日は角兎の足を診て、柵の残りを仕上げよう。飼料のことも調べなきゃ。この子が何を食べるか、ルーナおばあちゃんに聞こう。
膝の上のノートに、新しい項目を書き足した。
「住人:シロ(白い子、種族不明)、角兎(怪我あり、名前未定)」
たった二匹。でも、私の牧場の最初の仲間だ。




