第2話 虹色の卵
辺境に着いた翌朝は、鳥の声で目が覚めた。
王都では魔導時計の無機質なチャイムが起床の合図だったから、こんな起こされ方は初めてだ。窓の外が白み始めている。初夏の朝は早い。
毛布から這い出て、まず窓を全部開けた。
草原を渡ってくる風が、ほこりっぽい部屋を一気に洗い流していく。深呼吸すると、肺の底まで緑の匂いが広がった。──うん、王都の空気とは別物。
旅鞄からノートを取り出す。前世の知識を、この世界の言葉に置き換えて書き留めたもの。最初のページに「牧場の始め方──優先順位」。
一、住環境の確保。二、水源と畑。三、家畜小屋の建設。四、飼育する種の選定。
まず、一だ。
ほうきは見当たらなかったので、庭に生えていた硬い草を束ねて即席のほうきを作った。前世のゲームでも、最初の道具は現地調達が基本。天井の蜘蛛の巣を払い、床の砂埃を掃き出し、歪んだ窓枠を石で叩いて直す。暖炉の煤を掻き出していたら、煙突の奥から鳥の巣が落ちてきて小さく悲鳴を上げた。中身は空っぽだったから、よかった。
汗だくになって手を止めた頃、表の方から足音が聞こえた。
「おや、もう起きてたのかい」
声の主は、小柄なおばあちゃんだった。白髪を後ろでひとつに束ね、日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。でも背筋はぴんと伸びていて、目の光が鋭い。
両手に、布で包んだ何かを抱えている。
「村のルーナだよ。昨日の馬車、見えたからね。新しい住人が来たなら挨拶しなきゃと思ってさ」
布を開くと、焼きたてのパンが二つと、小瓶に入った赤い木苺のジャム。
パンの表面がまだほんのり温かくて、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「わ……ありがとうございます。昨夜は干し肉しかなくて」
「辺境は物が少ないからねぇ。でも、食べるものだけはどうにかなるよ。村の畑で採れた麦と、裏山の木苺さ」
ルーナおばあちゃんは遠慮なく家に上がり込み、暖炉の火を見て「ああ、薪の組み方が悪い、こうするんだよ」と手際よく直してくれた。元冒険者だと名乗ったのは、そのすぐ後だった。
「若い頃は王都の近くまで魔獣を狩りに出たもんさ。膝をやって引退したけどね」
パンをちぎってジャムをつける。口に入れた瞬間、甘酸っぱさと麦の素朴な旨味が広がって、思わず目を閉じた。美味しい。こんなに素朴なのに、王都のどんな菓子より美味しい。
ルーナおばあちゃんは、パンを食べる私を眺めながら辺境の事情を教えてくれた。
この辺りの土地は痩せていて、大規模な農業には向かない。若い人は王都や近隣の街に出ていき、残っているのは年寄りと子どもばかり。唯一の収入源は、森で採れる薬草を年に数回来る行商人に売ること。
「村には三十人もいないよ。でも、みんないい人さ。困ったことがあったら遠慮なく言いな」
温かい言葉が、じわりと胸に沁みた。
王都では、誰も私にこんな風に話しかけてくれなかった。
◇
ルーナおばあちゃんが帰った後、夕方の涼しい風に誘われて、裏手の森を散歩することにした。
到着した夜に見た虹色の光が、まだ頭の隅にひっかかっている。疲れ目の錯覚だと思ったけれど、万が一、何か珍しい薬草の発光現象だったら──ルーナおばあちゃんの話を聞いた後では、薬草なら換金できるかもしれないという打算もあった。
森は思ったほど深くなかった。背の高い広葉樹がまばらに生え、木漏れ日が地面に模様を描いている。下草を踏むとふかふかしていて、苔の湿った匂いが涼しい。
鳥の声。虫の羽音。風が葉を揺らす音。
王都にはなかった静けさが、耳に心地よい。
どのくらい歩いただろう。
ひときわ太い古木の根元に、それはあった。
卵だ。
私の両手で抱えるくらいの大きさ──メロンほど。表面は象牙色で、滑らかで、微かに脈打つように虹色の光が明滅している。
触れてみると、温かい。生き物の体温みたいに。
「これ……」
周囲を見回す。親の魔獣がいる気配はない。巣の痕跡も、踏み荒らされた草もない。まるで誰かがそっと置いたみたいに、大樹の根の窪みにぴったり収まっている。
前世のゲーム知識が、頭の隅でちかちか光る。
──発光する卵はレアイベント。拾えるなら拾うべき。
いやいや、これはゲームじゃない。でも。
そっと両手で持ち上げると、卵は嫌がる様子もなく、むしろほんの少し光が強くなった気がした。
迷った末に、ルーナおばあちゃんのところへ走った。
「こんな卵は見たことがないねぇ」
ルーナおばあちゃんは卵を見て一瞬だけ目を大きくした。でもすぐにいつもの穏やかな顔に戻って、「虹色の卵なんて図鑑にも載ってないよ」と首を傾げた。
「ただ、この辺りには昔から言い伝えがあるのさ。森で見つけた命は、見つけた者が面倒をみる。それがこの土地の掟だよ」
「……私が、育てるんですか?」
「嫌かい?」
卵に目を落とす。虹色の光が、手のひらを通して温もりと一緒に伝わってくる。
嫌じゃない。全然。
「やります」
気がつけば、そう答えていた。
◇
暖炉の前に、古い毛布で巣を作った。
前世の知識を頼りに、卵の世話を始める。温度は体温よりやや高めが良いはず。ゲームでは──いや、昔読んだ本によれば、幼体が殻の中にいる間は、周囲の魔力が安定していると育ちやすい。
薬草を煎じた湯気で卵を包むように、暖炉の横に小鍋を置いた。ルーナおばあちゃんにもらった乾燥カモミールに似た薬草を使う。甘い湯気がふわりと立ち上り、部屋中に広がった。
一日目。変化なし。光の明滅が少しだけ速くなった気がする。
二日目。卵が微かに揺れた。中で何かが動いている。
三日目の夜明け前。
まだ暗い部屋で、私は暖炉の前に膝を抱えて座っていた。眠れなかった。胸がざわざわして、目が冴えてしまって。
──パキ。
小さな音がした。
目を凝らすと、卵の表面に一本の亀裂が走っている。虹色の光が、その亀裂から線になって溢れ出した。
パキ、パキ、パキリ。
亀裂が広がる。破片がぽろりとこぼれ落ちる。
その隙間から、白いものが覗いた。
濡れた、小さな頭。
銀に近い白の鱗──いや、うぶ毛に近い柔らかさ。目を閉じたまま、ぷるぷると体を震わせている。殻を押し広げるように、小さな手足がもぞもぞ動いた。背中に、小さな──本当に小さな、翼の芽のようなものが見える。
やがて、殻が完全に割れた。
毛布の上に転がり出たのは、手のひらに乗るほどの、真っ白な生き物。
目が開いた。
透き通るような青。宝石みたいな青い瞳が、まっすぐ私を見上げた。
「ぴぃ」
それが、最初の声だった。
高くて、細くて、ほんの微かに震えている。生まれたばかりの、世界で最初の声。
涙が出た。
なんでかわからない。悲しいわけじゃない。嬉しいのとも違う。ただ、この小さな命がここにいることが、胸を鷲掴みにする。
「──あなた、かわいすぎない?」
声が裏返った。
そっと手を差し出すと、白い子は私の指先にぷにっと鼻を押しつけて、それから、甘噛みした。痛くない。歯が生えていないのか、柔らかい歯茎の感触だけが指に伝わる。
「は、む」
「ひゃっ……くすぐったい……!」
笑ってしまう。泣きながら笑うなんて、人生で初めてだ。
白い子を両手でそっと持ち上げる。ほとんど重さがない。体温だけがやけに高くて、湯たんぽみたいに手のひらが温かくなる。
トカゲの魔獣の一種だろうか。背中の翼の芽が気になるけれど、こんなに小さいうちは判別できない。
名前を考える。
前世で、初めてプレイした牧場ゲーム。最初に飼った動物は白い子羊で、名前は──
「シロ」
安直かもしれない。でも、ぴったりだと思った。
「シロ。私が、あなたを育てるからね」
シロは私の手の中で小さくあくびをして、くるんと丸くなった。尻尾が指に巻きつく。信頼しきった寝顔。
この子を守ろう、と思った。
退屈な女でも、この子の親にはなれるかもしれない。
いや──なる。ちゃんと育てる。
決意した瞬間、シロの体がほんのり光った。
孵化の時の虹色ではなく、淡い乳白色の、柔らかな輝き。数秒で消えたけれど、見間違いじゃない。
同時に──窓の外から、微かな声が聞こえた。
鳴き声。動物の。森の方角から。一つではなく、いくつも重なるような、遠い遠い声。
気のせいだろうか。
風の音に紛れて、もう聞こえない。
シロは私の手の中でぐっすり眠っている。ぴぃ、とも鳴かない。小さな背中が、呼吸のたびにぷくりと膨らんで、へこんで。
窓の外が白み始めていた。
辺境に来て、四度目の朝。手のひらの中に、温かい命がいる。
──パンを買いに行かなきゃ。それと、この子のミルクも。何を食べるんだろう、こんな小さな子。
考えることが、急に増えた。
でも不思議と、それが嫌じゃなかった。むしろ心臓が、はずんでいた。




