No.01:『食事欲』
テーマ:[性]
凶暴性が、食事欲により備わった。
その日、僕は出会った。
みどり色のカマキリと、道端の原っぱで出会った。
その時に僕は目覚めた。
何か分からない、体から湧き上がる欲求に、僕は気づいた。
きっかけは、いつもの帰り道。
「やーい!逃げんなよぉぅ!」
少し大人びた低めの恐ろしい声が、背後から聞こえる。
僕はいつもの様に、いじめっ子達に追いかけまわされていた。
ひ弱でいじめやすそうだからか分からない。
いつから目をつけられていたかも分からない。
けれど、飽きることなく僕をターゲットにし続けてくる。
そして今日も、帰り道で待ち伏せられていた。
はあっ、はあっ、なんて息を切らしながら走る。
あの子らに捕まったら、僕は陽が落ちるまで、奴隷として命令を受け入れなければならないのだ。
それだけは、どうしても嫌だ。
だから、ひたすら走った。
肉食動物から逃げる様に、走った。
僕の体力もなくなりかけて、あの子らの声がすぐ近くに来た頃、目の前に信号機が見えた。
青が点滅している。
最後の力を使って、道路を渡りきると、背後の声が遠ざかっていくのが分かった。
なんとか僕は間一髪、今日は命拾いをしたらしい。
早くあの子らから離れたい一心で、僕は逃げる様に、再び駆け出してはじめていった。
まだ追いつかれてしまうかもしれないので、僕は遠回りをしようと思い、緑道を使って家へ帰ることにした。
街路樹が茂った緑の空間は、僕の隠れ家にぴったりで、先ほどまでの恐怖を浄化してくれた。
少しリラックスしていたら、いつの間にか道の中心を逸れ、橋の原っぱに片足を突っ込む様に歩いていた。
脛に当たる草がくすぐったくて、少し足元を見た。
すると、そこには生き物が2匹いた。
いや、正確に言えば1匹。
それは、1匹のカマキリだった。
そしてそいつは、モンシロチョウに似た、白い羽の蝶を食べていた。
僕はそれが2匹に見えたのだ。
人間以外の生き物が食事しているところなんて、滅多に見ないので、僕はなんとなく、カマキリを観察しようと、しゃがみ込んでみた。
よく見ると、自分の鎌にうまく蝶の羽を挟んでいる。
そして、中心の胴体にかぶりつく様に、顔を近づけて食べていた。
なんだか、バリボリと音がするかの様に喰らうその姿に、僕はそのままずっと眺めてしまった。
胴体を食べ切ったカマキリは、挟んでいた羽をヒラヒラと道へ落として、自分の鎌を掃除した後、僕のことなんて見えていないかの様に、そそくさと茂みに隠れていった。
僕は、結局カマキリが見えなくなるまで、しゃがみっぱなしだった。
怖いもの知らずで、天敵なんていないかの様な、僕と正反対のその背中を、僕は目で追いかけ続けていた。
家に帰ると、観察と遠回りのせいで、家に帰るのが遅れてしまった。
こういう時は、必ず母が叱ってくるのだが、僕はその説教が、ちっとも頭に入ってこなかった。
カマキリの映像が、頭から離れなかったからだ。
それは、ずっと、四六時中頭にこびりついていた。
夕飯の時も、お風呂の時も。
宿題にも、身が入らなかった。
あまりに衝撃的なことだったので、珍しく日記帳を開いて、緑のクレヨンで、カマキリが蝶を食べている絵を描いてみた。
どうにも、あの時の様には書けなかったが、それでも、僕は満足だった。
もちろん、寝る前も、ベッドの中で、あのカマキリのことをぐるぐると考えていた。
あの映像が、ループしていた。
そのぐらい、僕には信じられない出来事だったのだ。
僕は、あんな風に自分の食べ物を調達することなんて、できない。
ましてや、きっとあの蝶は、直前までは生きていたのだ。
あの時にカマキリに捕まらなければ、もっと長く生きられたはずだ。
そんな命を、カマキリはなんの躊躇もなく、食べてしまった。
栄養のない、羽を残して。
そんなこと、僕にはできない。
あんなに命を間近に感じたことはなかった。
あんなに命が軽いと感じたことはなかった。
その姿に、さも当然かの様に喰らうあのカマキリの姿に、僕は格好いいと思った。
強者にしか与えられない自由さを、僕も手に入れたいと思った。
情なんて持ち合わせていない、あの生命感に、あの残酷さに、僕もああなってみたいと思ったのだ。
と同時に、自分の内側の何かが、湧き上がってくるのを感じた。
その何かは、一瞬にして頭の中から足の先まで広がっていく。
初めての感覚だ。
よく分からない。
よく分からないから、湧き上がって来るものに操られる様に、くねくね動くしかできなかった。
どうしよう、どうしたら抑えられるんだろう。
不思議な感覚に、なんだが怖くなって、冷や汗をかく。
軋むベッドの中で、だんだん僕は体が熱くなっていくのを感じた。
そして、あることに気がついた。
股間の付近が、特に熱っぽい。
僕はなんとなく、この部分からせり上がってきているんだろうと認識した。
そして、暴れる体を落ち着かせて、腹の下を探ってみた。
それでも、何かが絶え間なく身体中に浸透していく。
そいつのせいで、僕はいてもたってもいられなくなってしまっていた。
そしてついに、腕がうねったまま、そこへと伸びていった。
そのまま、パジャマの上からそこに手を置いて、かきむしる様に、まさぐっていった。
不思議なことに、いじくればいじくるほど、腕の動きが激しくなる。
体も連動して、またしなる様に動き始める。
その度に、何かが体に押し寄せる。
脈打つ何かが、増えたり減ったりしている様に思えた。
頭の中では、カマキリの映像がまだ流れていた。
しかも、鎌のギザギザや細い足まで、鮮明に想像できる。
僕は止まらなくなった。
やめられなくなった。
自我を保てなくなった。
足をジタバタさせて、馬鹿みたいに、触ってみたり、撫でてみたり。
もう何も考えられない。
カマキリの映像に、意識が向かない。
もう流れているかも分からない。
ただただ、気持ちいい。
こんなに気持ちいい事があるなんて、初めて知った。
いろんなことに興奮して、周りが見えていなかった。
ガン!
ばたつかせていた足が、壁に激突してしまった。
足に激痛が走る。
その痛みで、僕は冷静さを取り戻した。
と同時に、何故か、こんな所を母に見られたくないと思った。
大きな音を立てたので、母が僕の部屋へ来るかもしれない。
僕は、茂みに隠れる様に、ベッドに潜り込んだ。
そのまま眠りにつこうとしたが、ベッドの中は異様なほど暑かった。
あまりの暑さにイライラして、掛け布団を蹴っ飛ばす。
そして、夜風にあたって涼しさを感じていたら、あまりの疲労感で、いつの間にか眠っていた。
カマキリの映像も、そこで止まった。
その日以降、突然浮かぶカマキリの映像に悶える事が、たびたび起こるようになった。
そうなれば、僕はあの夜と同じように、気持ちよくなろうと腕を走らせてしまうようになった。
やや習慣化された頃に、だんだんと、あのカマキリの映像が薄れていくのが分かった。
まあ、頭で記憶するのにも限界がある。
思い出そうと日記を開いても、あの日の衝撃に似た記憶は、どうやらもう2度と現れないようだ。
そこで、僕は図書館で昆虫図鑑を借りることにした。
そこには、カマキリ以外にも色々な生き物が、写真付きで載っていた。
大きな顎で他の昆虫に襲いかかる蜂。
集団で地道に死骸を漁る蟻。
まだ生きているのに、そのまま糸を巻きつけて食べる蜘蛛。
他にも、トンボだったり、外国のデカい虫とかいろいろ。
その一つ一つが、やっぱり僕と違っていた。
食べて、栄養にして、自分のものにして。
その生き様が、僕と違っていた。
その圧倒的な差に、僕は憧れることしかできなかった。
その憧れは、日々悪化していき、最近はほぼ毎日、あの日の「アレ」の快感に溺れていた。
一通り昆虫図鑑で頭の映像たちをアップデートしたら、さらなる凶暴さを求めて、次は別の図鑑を借りに行く。
動物図鑑に魚図鑑、両生類・は虫類図鑑…。
どれもこれも、やっぱり僕の知らない野生の世界だった。
待ち伏せして獲物を捉えるネコ科の動物。
シャチの計算された狩り。
ワニを丸呑みにする見たこともないほど大きいヘビ。
新たな出会い、新たな快感…。
図鑑をめくる日々は終わりを知らないようだ。
そうして、こんな日々はいつしか趣味のようになった。
誰も知らない、僕だけの趣味になった。
もう僕はしょっちゅう図書館へ出かけるようになったし、あの日のカマキリとまた会うために、あの緑道へ出かけるようになった。
僕は、楽しかった。
しかし、僕は忘れていた。
この町には、いじめっ子がいるという事を。
事件が起こったのは、普通の学校の日。
僕はいじめっ子達に捕まらずに帰れるように、学校の正門と裏門をかわるがわる使うようになった。
そして、今日は裏門から。
裏門は、あの緑道との距離がやや近い。
僕は意識せずとも、裏門を使う頻度が増えていた。
それが良くなかった、そう分かるのは、僕が門を出てからそう時間はかからなかった。
僕は緑道へ辿り着くと、いつものようにカマキリを探し出した。
カマキリは罠の仕掛けようがないし、緑道と同化してしまうので、とても探すのが難しい。
しかし、僕は根気強く探していた。
その精神が、功を奏したのかもしれない。
…見つけた。
そのカマキリは、あの日の巨体にそっくりで、ずっしりと構えて、ちょうど獲物を狙っている様子だった。
今日の獲物は、バッタ。
多分、ヒシバッタというやつだ。
ジリジリとカマキリが近づいていく。
それにつれて、またお腹の辺りから広がってくる感覚。
僕は、外であることも忘れて、ズボンの中、パンツの内へと手を伸ばしていく。
そっと触れるだけで、頭がクラクラしそうだった。
そう思っているうちに、あのでかい鎌の間合いにバッタを捉えている。
鎌がゆっくりと近づいていく。
僕は、じっと見ていた。
周りを見ていなかった。
「てめー何してんの?」
背筋が凍った。
恐ろしいほど聞いた、あのいじめっ子の声が、背後にいた。
僕が後ろを振り返る、よりも速く、取り巻きの2人が僕を軽々持ち上げる。
宙に浮いたかと思うくらいにしたと思えば、僕はそのままどこかへ運ばれ始めた。
もちろん、僕は逃げ出そうとした。
しかし、2人の力は思った以上で、抵抗できるほど甘くなくはなかった。
とても小学5年生とは思えない。
そうこうしている間に、緑道を抜け、僕はいじめっ子のリーダーの家らしき場所の庭で下ろされた。
「近頃どこ行ってんのかと思ったら、緑道で生き物探し?しかも、ズボンに手ェ突っ込んで、きったねぇな!」
そう罵倒され、取り巻きは嘲笑する。
ああ。
なんで、僕はこの恐ろしさを忘れていたのだろう。
「まあいい。今日は久しぶりに遊ぼうと思ったんだァ。」
そう言うと、リーダーは庭の裏にいる飼い犬を連れてきた。
図鑑におそらく載っていた、ロットワイラーという犬種である。
「俺の犬とおめーを、今から喧嘩させる。俺らに面白い試合を見せろ。もちろん、俺の犬んが強ェだろうが」
見た感じ、強いのは間違いないだろう。
飼い犬とは思えない大きさ。
牙も鋭い。
おまけに、僕を敵だと思っている様子だ。
今はリーダーがリードを持っているので、攻撃されることはないが、手放した途端、僕は襲い掛かられてしまうだろう。
が、僕は怯んでいなかった。
まだ心の奥から、凶暴な生物達への憧れが、湧き上がり続けていたからだ。
その憧れに突き動かされ、僕は戦闘体制になる。
あのカマキリのように、大きく、勇ましく。
感覚を研ぎ澄まして、構える…。
僕が好戦的なのに気づいてか、リーダー犬もこちらへ向かって来ようとする。
そしてついに、リーダーの握力じゃ敵わず、犬が一直線に向かってきた。
僕はすかさず手を広げ、包むように突進を受ける。
まるで、頭蓋骨が僕の腹にささるようだった。
ウッ…。
信じられないほど痛む。
苦しい…逃げたい…。
そんな頭に浮かんだ弱音を、すぐにかき消す。
こんなところで引き下がってたまるか!
僕が憧れたあのカマキリのように立ち向かうんだ!!
ヒーローにでもなったかのようなセリフを吐きながら、向かってくる犬を押し返し、反撃へ向かう。
まずは、手足を押さえ付けて、身動きを取れない伏せの状態にする。
そして、またがる様に上に乗って、身動きを許さない。
そうして僕は、先程の仕返しとばかりに背中や頭へ殴りかかった。
「てめェ!やり過ぎだろバカ!」
なんて声が聞こえた気がした。
けれど、僕は戦いに夢中で、攻撃を止めることはなかった。
やり過ぎだろだって?
知らないのか、自然界では情けをかけた方から死んでいくんだ。
そう告げる様に、ふっとリーダーの方を見る。
今にも泣きそうな顔だった。
僕は、ああ……こいつは弱いやつなんだ、と思った。
それだけ思って、また喧嘩に集中しようとする。
が、犬の抵抗があまり激しくなくなった事に気がついた。
かなりの回数殴ったので、すっかり弱ってしまったのだ。
ここで辞めても良かった。
けれど、僕の湧き上がるパワーはとどまるところを知らなかった。
僕は跨いだ状態のままの犬の腹に顔を近づけた。
そして、一口、かぶりついた。
「やめろぉぉっ!」
その瞬間、どうやっても思い出せなかったカマキリの映像が、突然フラッシュバックした気がした。
しかし、僕は見ていないフリをして、とにかく喧嘩に意識を今は向けようと思った。
改めて振り返ると、意外に皮膚が頑丈で、肉を噛みちぎれそうにない気がした。
僕は犬の毛を掻きむしって、もう一口。
少量の赤い肉が、口の中へ入った。
犬は痛がって、ワンワン吠え上がる。
逃げ出そうと、足をばたつかせる。
しかし、僕は絶対に逃すつもりはない。
あのカマキリなら、絶対に逃さない。
ここで再び、映像を見た。
そして、あの勇ましい姿は、獲物を決して離すまいとしている事に気がついた。
なら、僕だって。
僕は体勢を変え、腕で犬の腹を鎌のように挟んで、横腹を食べる。
あのカマキリの映像が、頭の中でループしている。
僕はあのカマキリの様に、バリバリと食らいついた。
しかし、どこを食べてもおいしくはなかった。
図鑑の肉食動物は、こんなものを食べていたんだ。
不味い肉を食べ続けられるか不安だったが、欲にまみれて感覚が麻痺してきたせいで、どんどんと胃袋へ運ばれていった。
「お、おい!!やめろって!!」
犬は出血多量で足を立てることができなくなっていた。
そこを腕で伏せるようにさせ、どんどんと腹を食べていく。
もう人の声も、犬の声も、僕の耳には届かない。
食べ尽くしたいという欲に、僕は支配されていた。
腹を適当に食べ尽くしたら、犬は完全に生き絶えた。
しかし、腹がいっぱいでも、まだ満たされていないような気がした。
そこで、僕は犬の正面にしゃがみ込んだ。
そして、顔面を口へ入れようとする。
が、この時僕は、背後の人影に気付いていなかった。
「何やってんだテメェ!!」
ドスの効いた、男性の声。
その声の主に両手で取り押さえられ、身動きが取れなくなった。
そこで僕は、ようやく正気を取り戻した。
僕は口も手足も血まみれだった。
怪我で出てきた僕の血か、犬の腹の血かはもうわからなくなっていた。
そうして改めて庭を見ると、顔面蒼白の女性、その女性に顔を埋めて泣いているリーダーの男、そして、あの犬の死骸があった。
いつの間にか取り巻きはどこかへ行ったようだった。
僕はどうやら、とんでもないことをしたらしい。
いやでも、自然界ではこれが普通だろ、とも思った。
けれど、
「お前よおやってくれたな!我が家の犬をこんなひどい姿にしやがって!絶対に!死ぬまで許さないからな!!」
と、僕を捕らえた男性が言って、僕はようやく気がついた。
僕は、捕食する側なんかじゃなかった。
ずっとずっと、食べられる側だったのだ。
僕は、その男性に引きずられながら、その家に連れていかれた。
食べられるのは、気持ち良くなかった。
【あとがき】
押見修造先生の影響で書き始めた小説です。
面白かったら、絵文字を押していただけるとありがたいです。
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