霧の妖異と償いの刀
霧が濃い。
宗次、齢三十六。彼がこの山奥の寺に身を寄せて、四年になる。
夜道で人を斬ったあの日の刀を、彼はもう二度と抜かないと誓っていた。償いとは、静かに生を終えることだと信じていた。
彼のささやかな安寧は、麓の団子屋の店子お澄との世間話の中にあった。月に二度、山を下りては、焼きたての団子を二本と、濃い煎茶を嗜む。
それは、かつて侍であった頃の穏やかな日々を、微かに思い出すための儀式のようなものだった。
その団子屋で、宗次は噂を聞いた。「夜人」だ。
夜の山道で旅人や山仕事の者が襲われ、残されたのは生気を吸い取られたかのような、乾いた骸だけだという。
「旦那様も、夜はお山から降りてきなすらないでくださいよ」と、店子のお澄は心配そうに言った。
寺の住職は「山の神の怒りよ」と諭したが、宗次の眼には、それが人ならざる者の仕業でありながら、どこか武の気配を纏っているように感じられた。
宗次の過去の罪は、動乱の時代に大義のために人を斬ったこと。その罪の重さを知る宗次だからこそ、その影が武士の怨念だと気づいた。
そして今宵、噂は決定的な形となって寺へ届いた。村の若者が、この石段の途中で襲われ、辛うじて息はあるものの、その魂は既に抜けていた。
その若者は、宗次にいつも団子を届けてくれる店子お澄の弟だった。
「償いの道は…やはり、これより始まるらしい」
宗次は、包んでいた布を解き、四年間手を触れなかった愛刀の柄を握りしめた。
鞘から放たれる刃の冷たい輝きは、山を覆う月の光さえも拒んでいるようだった。
彼は黒い着流しに身を包み、夜の帳と霧に覆われた石段の前に立つ。
一歩踏み出すたび、苔むした石が湿った音を立てる。鬱蒼とした杉木立が空を覆い、昼間でも薄暗いこの道は、夜になると、まるで生きた闇そのものだ。
石段を百段ほど登った時、宗次の耳が微かな衣擦れの音を捉えた。
「出てこい」
宗次が静かに告げると、霧の塊が四つに分かれ、黒い人影となった。
着流し姿だが、その動きは人間ではない。彼らは元侍の怨念が宿った影、「夜人」の配下だ。その手には、錆びついた刀が握られていた。
四方からの奇襲。宗次は鞘から刀を抜かず、柄頭で一つ目の影の突きを弾く。その影は、悲鳴も上げずに霧のように崩れたかと思うと、即座に形を戻した。
「斬っても、斬っても、消えぬか」
宗次は低い声で呟き、ついに愛刀を抜いた。銀光が走る。
宗次の剣は、かつて人を殺めることによってその技を磨き上げた、無情の太刀だ。
影たちは、その技量に比べれば遥かに劣る。宗次は舞うように四つの影の間を移動し、一瞬でそれぞれの胴を、頸を、斬り裂いた。
しかし、配下たちは止まらない。斬られた傷口は黒い霧を噴き出すだけで、すぐに肉体を取り戻す。
宗次は斬るたびに、人ならざる「怨念」の粘着質のような手応えを感じ、体力を削られていく。
(くそ。このままでは消耗する。団子屋の弟を奪った怨念…その核を砕く!)
宗次は一瞬の隙をつくり、配下の一体を石段に叩きつけ、その刀を奪い取った。
そして、奪った刀の切っ先を、自らの愛刀と交差させるようにして、配下の体の中核と思われる部分へ、魂を込めた一撃を打ち込んだ。
キンッ!という、刀が金属ではなく硬質な骨を砕くような音が響く。
その影は、今度こそ霧にならず、乾いた塵となり、風に散った。
残り三体も、宗次は同じ手法で一掃した。体力の消耗は激しい。左腕に受けた浅い傷からは、どす黒い霧のようなものが染み込んできている気がした。
宗次が息を切らしながら石段を登り切ると、そこは山の中腹にある古い神社の拝殿前だった。
冷たい月光が、社の屋根を銀色に照らしている。そして、その拝殿の真ん前に、静かに佇む「夜人」の主がいた。
彼は、宗次と同じ黒の着流し姿。顔は深くフードの影に隠れて見えないが、手に持つ大太刀からは、底知れぬ圧が放たれている。
「よくぞ来た。贖罪を求める侍よ」
夜人の声は、まるで石の奥から響くように冷たく、宗次の過去を知っているかのようだった。
「貴様は…何者だ」
「我は、お前が捨てた『武士の道』そのものだ。いや、斬り捨ててなお、この世に怨念として残った、お前の罪の残滓だ」
夜人は抜刀した。宗次の愛刀よりも一回り大きな刃が、月光を吸い込んで鈍く光る。
ヒュン!
夜人の初撃は、宗次がこれまで見たどの剣技よりも完璧で、そして無感情だった。宗次は紙一重で身をかわすが、空気を切り裂く刃風だけで肌が切れた。
(強い…!速さだけではない。この技には、生きた人間の迷いがない…!団子の安らぎを知る、今の俺の剣とは違う…)
互角ではない。夜人は明らかに宗次よりも強い。宗次は、その完璧すぎる剣技に、自分の剣の限界と、過去の罪による迷いを突きつけられる。
夜人は間合いを詰める。宗次は懸命に防御と反撃を試みるが、夜人の動きはまるで過去の宗次の理想形を具現化したように、正確で、無駄がない。
宗次はついに、右肩に夜人の大太刀を受け、社前の石畳に倒れ伏した。
「まだ斬るか。諦めよ。お前は償いという名の逃避を選んだ。我は、逃げなかった武士の怨念だ」
夜人の大太刀が、宗次の頭上から振り下ろされる。
「逃げてなどいない!」
宗次は叫んだ。その叫びは、刀を抜いて人を斬った過去の罪を、受け入れた者の叫びだった。
彼は死の間際、「償いとは、生き恥を晒すことではない。この罪を抱えたまま、誰かのために刀を振るうことだ」と悟る。団子屋の店子お澄の顔が脳裏をよぎる。
宗次は、倒れた体勢のまま愛刀を逆手に突き上げる。その一撃は、完璧な型を崩した、命の灯火を賭けた渾身の一撃だった。
夜人は、完璧な防御をせず、その一撃をあえて受けた。怨念の核は、宗次の生きるための覚悟によってしか砕けないことを知っていたかのように。
グシャリという嫌な音と共に、夜人の胸の着流しが裂け、そこから黒い靄が噴き出した。
夜人は静かに、その場に崩れ落ち、彼の着流しと大太刀は、霧のように消えていった。
夜明けが近い。東の山稜が白み始めている。
宗次は満身創痍の体で立ち上がり、社へ向かって深く頭を下げた。
彼の償いは、この一夜で終わったわけではない。彼は再び刀を鞘に納め、この罪を抱えたまま、静かな償いの道へと戻っていく。
明日は、団子屋の店子に、静かに安らぎをくれた礼を言いにいこうと、心の中で決めた。
――終――




