第2章 あの頃の続きを探して 2
その頃、澪は店内を掃除していた。
ガラス窓の内側から、港を見下ろす海の見える席に視線を送る。昨日と同じように、そこに誰かが座るかもしれない。そんなことを考える自分に、どこかで可笑しさを感じながら。
雑巾を絞り、手を動かす。小さなカウンターの隅、読書灯の埃を払いながら、ふと目に止まったのは空のミルクピッチャー。昨日のままだったことに気づく。
——抜けてるんだから、もう。
昨日の自分自身に宛てて、誰もいない店内にため息が溶けた。
その時、扉を押す気配がして、真鍮のドアベルの音が静かに店内を揺らした。
「おはようございます」
その声に背中がわずかに跳ねた。振り返ると、入ってきたのは、やっぱり彼だった。
「おはようございます。今日も早いですね」
「朝の散歩がてら、つい」
凪の目は、いつもの海の見える席へと向かう。そこにまだ誰の姿もないことを確認すると、どこかほっとする。
「どうぞ。いつもの席……空いてます」
「ああ、じゃあ……」
澪はカウンター越しに湯気の立つカップを用意しながら、ふと凪の持つ見覚えのある紙袋に目を留めた。
「あ……、これ。先日、日下部商店に行ったんです」
「へえ、拓海さんのところに」
視線に気付いた凪が口を開くと、澪は少しだけ驚いた様子を見せながらも穏やかに微笑んだ。
「私たちの祖父の代からお付き合いのあるお店なんですよ。ちょっと面白い人だったでしょう?」
「ええ。何というか……、構えなくていい感じがして。気が楽でした」
「よく寝坊するから、開店時間ぴったりに行くとパジャマで出てきたりするんですよ」
「はは……、良いですね、ゆるくって。そういう自由なお店、好きです」
そう言った凪の言葉に、胸の奥の方が少しだけざわついて澪は口元に笑みを浮かべたまま目を伏せた。
「わかります。そういう人、羨ましいなって思うときがあります。無理せず、自然に人と関われるっていうか」
「あなたは、無理してるんですか?」
その問いかけは、あまりにも真っ直ぐだった。
澪は一瞬、言葉を失う。ふいを突かれたように視線が揺れ、答えを探すように手元のカップを拭き始めた。
「……わたし、自分の“ちゃんと”に縛られてるだけかもしれません」
「ちゃんと?」
「ちゃんと起きて、ちゃんと掃除して、ちゃんと笑って……ちゃんと迷惑かけないようにって。そうやって生きてきたら、いつの間にか、それが当たり前になっていて」
やがて手にしていたクロスをそっとカウンターに置いた。
「それが出来ないと……何だか、しんどくなる」
澪の語尾がかすかに揺れた。
その言葉を遮らず、凪はただ静かにコーヒーを淹れる彼女の横顔を見つめていた。
やがて沈黙が訪れる。挽かれた豆にお湯が注がれていく、小さな音ですら感じられた。それと同時にお気に入りのブレンドの香りが濃く漂い始める。
「……それって、すごいことだと思います」
「え?」
沈黙を破った凪に、澪が顔を上げた。
「この店の空気も、あなたの“ちゃんと”があるからこそ、あたたかいんだと思います。
上手く言えないけど、ここの空気は……すごく落ち着きます。あなたの言う“ちゃんと”が、優しさになって…あちこちに伝わってるんだと思います」
澪は、息を呑む。彼の視線はまっすぐで、押しつけがましくなく、そっと寄り添うようだった。
「……ありがとう、ございます」
嬉しかった。お店を褒めてもらった事が、そう思ってもらえた事が。気の利いた台詞が何も出てこないくらい。
身の上話を話してしまった気恥ずかしさよりも、喜びが勝っていた。胸の音がいつもより早く聞こえる。
焦らないように、いつもより丁寧にゆっくりとドリッパーを外した。
凪は差し出されたコーヒーに手を伸ばしながら、「こちらこそ」と小さく頭を下げた。
その言葉に澪の視線がそっと、凪の横顔を追った。
カップを持ったまま、揺れる黒い水面に視線を落としている。ああ、睫毛が長いな、とぼんやり思った。
ふっと息をついたそのとき、凪の声がもう一度静かに重なる。
「でも、ちゃんとしてなくても……そのまんまでも、良いと思います」
「……え?」
「無理してなくても、きっとあなたはあなたのままで、人に優しいと思います」
その言葉は、澪の胸の奥にそっと触れて波紋のように広がっていった。
何かをほどくように、静かに、でも確かに。
言葉は出なかった。けれど、気づけば胸の奥で何かがゆるんで、肩からは力が抜けていた。
——あなたの方こそ、きっととても優しい人なんだろうな。
そんな予感が、窓から入り込む潮風と一緒に心を撫でていった。