第2章 あの頃の続きを探して
潮風がそっとカーテンを揺らし、ひんやりとした朝の気配が部屋を包む。凪は窓辺に腰を下ろすと、少しだけ開いた窓から流れ込む海の香りを吸い込んだ。
薄く曇った窓ガラスの向こうには静かな港と、ゆるやかに明けていく空が広がっている。波の音はどこか遠く、しかし確かに届いてくる。耳をすませば、小さな漁船が軋む音や、かもめの声が混じっている。
この町に来てから、何度目の朝だろう。
思えばあの日、ふらりと引き寄せられるように入った喫茶店――波音ブックス&カフェに、彼はもう何度となく足を運んでいた。
名前も知らない店主の、少しぎこちないけれど穏やかな声。いつも海の見える席に案内され、静かな時間のなかで少しずつ心が落ち着いていったことを、ふと思い出す。
店の空気、彼女の声、コーヒーの香り。それらが、凪の中の何かと静かに結びついて、まだ名のない感情をいまこの瞬間も少しずつ育てていた。
備え付けの小さな冷蔵庫の中には紙袋に入ったままの小さな瓶がある。――先日、日下部商店で買ったジャムだ。
特別、甘い物が好きな訳じゃない。勢いで買ったようなものだ。朝食に使うつもりだったのか、それとも。
考えれば考えるほど落ち着かなくなって、凪は支度を整えて宿の玄関に向かった。
靴を履きながら、ふと頭の片隅に浮かんだのは、あの喫茶店のドア。
昨日と同じ海の見える席は、今日も空いているだろうか——そんなことを考える。
彼女は、今日もあの場所にいるだろうか。
もう別の誰かが、あの席に座っているのだろうか——。
無意識に手が扉に触れたとき、背後から声がかかった。
「今朝はまた、ずいぶんと早いですね」
振り返ると、初めて見かける若い女性が玄関口の奥に立っていた。
年齢は凪より少し下くらいだろうか。色素の薄い長い髪をざっくりとひとつにまとめ、エプロン姿で腕にはトレイを抱えている。
どこか人懐っこく、けれど少し気の強さを感じさせる丸くて大きな目に凪はわずかに戸惑いを覚えた。
「あ、すみません……。ちょっと散歩がてらに、と思って」
「朝ごはんくらい食べて行ってくださいよ」
くすっと笑った彼女の声は、海風に混ざって軽やかだった。
「あたし、ここの娘です。母から聞いてるよ、“凪さん”でしょ?」
名前を呼ばれたことに、一瞬だけ凪の呼吸が浅くなる。
「……はい」
「ごはん、冷めないうちに声かけてって、任されてたの」
そう言って彼女はにっこりと笑い、奥の食堂を軽く指差した。
その笑顔には、どこか澪とは違う温度があった。
暖かいのに、気を抜くと距離が詰まりすぎてしまいそうな、不思議とそんな危うさを感じる。
「……じゃあ、いただきます」
凪は静かに頷き、彼女のあとをついて宿の中へと戻った。
食堂にはまだ他の宿泊客の姿はなく、凪が腰を下ろすと窓の外から眩い光が差し込んだ。
木製のテーブルに置かれた湯気の立つ味噌汁、焼き魚、小鉢に盛られた煮物。それはどこか懐かしくて、肩の力がすっと抜けるような朝の食事だった。
朝食を終えた凪は、宿を出てゆっくりと坂を下った。道沿いに咲く小さな野花が、朝露に濡れて光っている。手にぶら下げた紙袋の中で、冷蔵庫から取り出したばかりの良く冷えた瓶入りのジャムがわずかに揺れた。
歩きながら、さっきの娘のことを思い出していた。気さくでよく通る声、相手の懐に自然と入り込むような話し方。
朝食の間もしきりに声をかけられていた気がするが、名前は……名乗られただろうか。気づけばずっと彼女のペースに巻き込まれていたような気がする。
港沿いの道に出ると、風が強くなった。潮の匂いに混じって、どこか懐かしい香りがする。鼻先をくすぐったその香りに、凪の足取りが少し軽くなった。