第1章 静けさの向こうに ~海が見える席~7
通りにはほとんど人の気配がなく、朝の光が店の軒先や道端の花にやわらかく降り注いでいる。
凪は、紙袋の中に入った小さなジャムの瓶をちらりと見た。
——勢いで買ったけど、結局どうするつもりなんだろう、自分。
朝食に使う?それとも波音ブックスの、あの人に渡す?いやいや、別にそういうつもりで買ったわけじゃない。
日下部商店の店主……拓海さんは「お裾分け」なんて言っていた。
俺が、あの人に渡すつもりなんだと思ってるんだろう。
ジャムを買ったのは別に、そんなつもりじゃなかった。でも、そう受け取られてもおかしくはなかったか。
あの空気、あのタイミング、あの言い方。
なんだか、自分だけが妙に気をまわしてる気もするし、でも、もし——彼女に気があるとでも思われてたら……。
考えれば考えるほど落ち着かなくなって、気づけば結局、喫茶店のある通りまで来ていた。だけど、昨日の今日でまた来るって、変に思われないだろうか——。
拓海さんの一言のせいでこんなに気を揉んでいる自分が可笑しくて、情けない。
歩くたびに足元の砂が小さく音を立てる。潮風と共に砂浜からここまで飛んできたのだろう。波の音も、風の匂いも、昨日より少しだけ近く感じる。
不思議だ。こんなに静かな場所なのに、胸の奥では何かが忙しなく動いている。
静けさの向こうで、自分でもまだ知らない自分が目を覚ましはじめている。
……そんな感覚。
ふと顔を上げると、店先に人の姿があった。
ちょうど彼女が、お客さんを見送りながら「ありがとうございました」と深く頭を下げた。
その姿に、凪は足を止める。
風に揺れる木漏れ日が店先に差し込んで、扉のすぐ外にはここへ着く前に通った花屋にあった物と同じ小さな鉢植えの紫陽花が陽を浴びていた。
頭を下げられた老夫婦は寄り添いながら、ふと目を合わせて微笑み合う。そのやり取りに彼女もまた、ふっと嬉しそうに笑った。
何を話しているのか。声までは届かない。けれど、その場に流れているあたたかな空気だけで、どんな会話が交わされたのかがなんとなくわかる気がした。
きっとこの喫茶店は、海辺の町の人々に愛されているのだろう。そして彼女もまた、この店を、そして町の人たちとの関わりを心から大切にしている。
店から遠ざかっていく老夫婦の背中を見つめていた彼女がふとこちらに気づき、やわらかく、花がほころぶように微笑んだ。
「いらっしゃいませ。……海の見える席、空いてますよ」
胸の奥で、かすかに波音が返事をした気がした。