第1章 静けさの向こうに ~海が見える席~6
古い柱時計が、午前九時を少し回った時刻を知らせた。
宿を出た凪は、町の路地をひとり歩いていた。
朝の空気は冷たすぎず、肌に心地よい。昨日よりも少し風が柔らかく感じられるのは、久しぶりによく眠れたせいかもしれない。
朝の海風は穏やかで、潮の香りが町に静かに漂っている。
坂をくだりながら、凪はその空気を胸いっぱいに吸い込んで、まだ歩いたことのない通りへと足を向けた。
あたたかな陽射しが瓦屋根の影を道に落とし、やさしく揺れる木漏れ日が足元をなぞっていく。
通りには、すでに小さな営みが始まっていた。
通りに面した小さな花屋では、紫陽花の鉢が涼しげに咲いていた。
その隣の弁当屋からは、だしの香ばしい匂いが漂ってくる。湯気の立ちのぼる窓の奥からは、包丁がまな板を打つ軽快な音が聞こえる。
通学途中らしい学生が、まだ温かそうなおにぎりを抱えて店を出るのが見えた。
古びた看板のついた自転車屋の前では年配の男性が若い男性の自転車に空気を入れながら、何やら世間話をしている。
道の端にある小さな公園には朝陽を背にした子どもが、しゃがみこんで植え込みの花をじっと見ている。そのすぐ近くで見守る母親が優しい笑顔を浮かべていた。
――なんてことのない朝。でも、どこか懐かしい。
凪は足を止めて、その景色を静かに眺めた。自分の中の、深くに沈んでいたものがじわじわと浮かび上がってくるようだった。
「……いい町だな」
ぽつりと呟いた声は、風に紛れてどこかへ消えた。
しばらく歩くと、坂を下りきったあたりに木枠の看板が小さく揺れているのが見えた。
軒先に吊るされた木の看板に、手書きのような柔らかい文字で「日下部商店」とある。
硝子戸越しに見えるのは、所狭しと並べられた雑貨と食品、奥の方に置かれた書棚のようなもの。昔ながらの店だ。明かりの点いていない店内は少し薄暗かった。
開いているかどうかを迷いながら手をかけた瞬間――
「開いてますよー。どうぞ」
中から声がした。
すこし気の抜けたような調子の、けれど、どこか憎めない声だった。
凪が戸を引くと、薄く鳴った鈴の音に合わせてカウンターの奥から青年がひょこりと顔を出した。
「いらっしゃい」
奥のカウンターで腰掛けていた若い男が、新聞を畳みながら立ち上がった。
年の頃は凪と同じか、少し上か。肩の力が抜けたような、気取りのない雰囲気をまとっている。
「観光の方?」
「……あ、はい。今は、宿に滞在していて。えっと……見ていいですか」
「もちろん。どうぞごゆっくり」
凪は店内を見渡しながら、ふと気になっていたことを尋ねた。
「この町、食材が手に入るお店って他にもありますか?」
「んー、まあうちは何でも屋だから大体揃うけどね。魚なら漁港の朝市、野菜ならこの先の畑で無人販売してるおばちゃんがいる。
あとは、喫茶店……波音ブックス&カフェ。 あそこはうちの常連で、コーヒーも料理も美味いよ」
「……波音ブックス」
あの店の名を聞いた瞬間、昨日出会った店主の顔がふと思い浮かんだ。
少し疲れていたような、それでいて穏やかな雰囲気をまとっていた彼女の姿。
「あの人も、ここに買い物に来るんだ…」
思わず漏れた独り言に、男が笑った。
「もしかして、もう行った?あの店、なかなか落ち着くでしょ」
「はい。そう思いました」
「だろ?あそこの店主、いい人なんだよ。俺らのじいちゃんの代からの付き合いでね。うちにもよく来てくれてさ、ここのジャムがお気に入り」
「じゃあ…、それをひとつください」
「お、いいね。お裾分けみたいでさ」
そう言って男は棚の奥からひと瓶のジャムを取り出し、包もうとレジ脇の紙袋を手に取る。お裾分け。凪が自分で使うとは思っていないような口ぶりに違和感を覚えた。
瓶が袋におさまるコトン、という音が静かに響く。
「はい、どうぞ。今日もあの店、やってるといいね」
なるほど。この人は俺が、今日もあの店へ行くものだと思っているのだ。
凪は紙袋を受け取りながら、小さくうなずいた。
「あのさ、なんか疲れてる? 」
突然の言葉に、凪は目を瞬かせた。
「えっと…それは、どうして?」
「深い意味はないんだ、ただそう見えただけで。目の奥がちょっとね、くたびれた人の目だなって思っただけ」
男は悪びれる様子もなく、ただ感じて思った事を素直に話しているだけなんだろう。初対面の人間からの、あまりに突然な指摘だったのに、不思議と全く嫌な気分にはならなかった。
「……そういうの、他のお客さんにもよく言うんですか?」
「まあ、たまに。でも、大体の人は笑って流すけどね。君は真面目だな」
そう言って笑う男の背後、天井近くには、ぶら下がったカレンダーとセピア色にあせた写真立てが並んで飾られていた。
笑顔の家族を写したその写真。家族の背後に建っている見覚えのある店には、よく見れば日下部商店と書かれた、まだ真新しい看板があった。
歴史を感じる古びた店内に不思議と居心地の良さを感じながら、凪はふと名乗った。
「俺……凪って言います。海の凪、って字です」
「おお~、いい名前だね。…日下部拓海。ここの、二代目店主。またいつでも来て。暇してるからさ、何も用事がなくても来ていいよ」
そう言って男は笑った。
外に出た凪は、朝の空気を深く吸い込んだ。
紙袋の温もりが、ほんのりと掌に残る。