第1章 静けさの向こうに ~海が見える席~5
朝の光が、店の窓からゆっくりと差し込んでいた。
潮の香りを含んだ風がカーテンをわずかに揺らしている。
澪は、ほうきの柄に手をかけたまま一度深く息をついた。
朝の掃除は毎日の習慣で、手を動かす順番も使う洗剤の量も、ほとんど無意識でできるようになっていた。
けれど、身体が覚えている作業の中に、ふと気持ちが追いつかなくなることがある。
床掃除を終えてカウンターへ戻った澪は、ふと棚の上に目をやる。
そこには祖父が遺してくれた本が所狭しと並んでいた。
小説、詩集、そして色あせた絵本。どれも喫茶店をオープンするずっと前から、祖父の手元にあったものだ。
澪は、その中の一冊を手に取る。
少しページが反っていて、表紙の角は擦り切れていたけれど、それがまた愛おしかった。
子どものころ、澪が熱を出して寝込んだ夜、この本を祖父が読み聞かせてくれたことを思い出す。
静かな声、ページをめくる手の温もり。心細い夜に、祖父の存在がどれだけ嬉しかったか。
そのすべてが、この店と結びついていた。
「……今日も、ちゃんとできるかな」
小さくつぶやいた声が、店の静けさに溶けていく。
もう何度も繰り返してきた朝の始まりなのに、その言葉は、どうしても手放せなかった。
ふと、昨日の昼間のことを思い出す。
ひとりでふらりと店に入ってきた、あの青年。
特別な会話をしたわけじゃないのに、妙に印象に残っていた。
少し疲れたような顔をしていた。
旅の途中だったのだろうか。
コーヒーを飲みながら、何を考えていたんだろう――
あの静けさの中で、どこか寂しそうな眼差しが忘れられなかった。
「……大丈夫だったかな」
澪は目を伏せて、小さくつぶやいた。
店を出るとき、彼はほんの少し笑っていた。
その笑顔が、無理をしていなかったらいい――そんなことを何故か気にしている自分に気づいて、そっと本を棚に戻した。
エプロンのポケットから、小さなメモを取り出す。
買い出しリスト。今日は食材が少し足りなかったはずだ。
「行ってこよう」
そう言って、カゴを手に取ると、澪はゆっくりと店を出た。
商店街の道は朝の日差しを受けて静かに輝いていた。
海辺の町にあるとはいえ、観光客でにぎわうような場所ではない。
けれど、ゆるやかな起伏のある石畳と古びた木製の看板が並ぶ小さな商店の風景には、どこか懐かしさがあった。
澪は、通い慣れた商店の前で足を止める。
木枠のガラス戸には、丸い文字で「日下部商店」と手描きされた札が下がっていた。
カラカラ、と鈴の音がして引き戸を開けると涼しい空気が流れ込む。
「おはようございます」
棚に目を向けながらそう声をかけると店の奥から気だるげな声が返ってきた。
「ん、おはようございまーす。……あ、澪さん?」
姿を現したのは、少し寝ぐせの残る茶髪の青年だった。
Tシャツの裾を片手で引き下ろしながら、あくび混じりに歩いてくる。
まるで、いま起きてきたばかり、というような身のこなし。
「拓海さん…また寝坊してたんじゃないですか?」
「ばれた?いやー、ちょっと昨日ね。珍しく本読んでたら夜更かししちゃって」
「へえ、そんなに面白かったんですか?」
「うん、じいちゃんが遺した全集の中に、めっちゃ泣けるのがあってさあ」
人懐こい笑顔を浮かべながら、拓海と呼ばれた青年はカウンターの内側に回り込んだ。
無造作に置かれた仕入れ帳の上に手をついて、澪の持っていたメモを覗き込む。
「今日は牛乳と卵、それからミニトマト、バターね。……あ、カフェでトマト、また使うんだ?」
「はい。ランチプレートの仕込みに。あと、あの小鉢が人気なので」
「波音ブックス&カフェ、相変わらず評判いいね。うちのばーちゃん、また行きたいって言ってたよ」
「嬉しいです。でも、まだまだで。やっぱり祖父がいた頃とは、全然違ってて……」
「うん。けどさ、澪さんらしい店になってきたって、俺は思ってるよ」
そのさりげない言葉に、澪は一瞬、言葉を飲み込んだ。
「ちょっと待ってて。冷蔵のほう行ってくるから、適当に見てていいよー」
肩越しにそう言い残して、拓海はゆるい足取りで奥の冷蔵庫へと向かう。
その背中を見ながら、澪はどこかペースを乱されたような気分になっていた。
この人はあまりにも人との距離が自然で、気を遣っている様子が全くない。
けれど、不快というわけでもない。
むしろ羨ましいとさえ思えるほどに、彼の立ち居振る舞いはのびやかだった。
「はい、お待たせ。……っと、ごめん、賞味期限がギリだった。こっちの新しいやつにしとくね」
「ありがとうございます」
受け取ったバターの冷たさが、手のひらにじんわりと伝わって心地良い。
小さく頭を下げた澪に、彼は少しだけ首を傾ける。
「ねえ澪さん。そんなに、気を張らなくても大丈夫だよ」
「……え?」
「ん、いや。朝からすごい丁寧だからさ。こっちまでシャキッとしそう。澪さんは寝坊とか絶対しないんだろうなー」
冗談めかしたように笑う顔は悪びれるでもなく、どこか憎めなかった。
澪は戸惑いながらも、その言葉の裏にある何かに少しだけ心を触れられた気がした。
会計を終え、紙袋を受け取る。
ドアを開けると再び鈴の音が軽やかに響いた。
「じゃ、また来てねー」
「ありがとうございます、また」
気の抜けた声が背中に届く。
それに軽く会釈を返して、澪は歩き出した。
日下部拓海。どこか風変わりで、けれど不思議と心に残る青年だった。