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第1章 静けさの向こうに ~海が見える席~4

――夜が、町に沈み込んでいた。


夕暮れの名残が海の端にわずかに滲むころ、波音さえも柔らかくなって、海辺の町は深く静かな夜に包まれていく。軒先の灯りがぽつぽつとともり、人の気配はすっかり減っていた。


青年は、港のそばにある古い宿の二階にいた。民家を改装したようなその宿は、壁が薄く、廊下を歩く足音もよく響く。それでもどこか懐かしくて、落ち着く場所だった。


「凪さん、今日はゆっくりできましたか?」


ふいに障子越しに声がかかった。女将だ。小柄で、柔らかな声の主は、到着したその日から気さくに声をかけてくれる人だった。


「ええ。海も静かで……いい町ですね」


「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいです。娘は、ここは退屈だって言うんですけどね。私はこの町が好きなのよ」


少し笑ってから、女将は続けた。


「明日の朝食はいつも通りで大丈夫かしら?」


「はい、お願いします」


「じゃあ、おやすみなさいね」


ぱたん、と静かに戸が閉じる音がして、また夜の静けさが戻ってくる。


凪と呼ばれた青年が、窓を少しだけ開ける。潮の匂いがひんやりと漂い、遠くに船の灯りが瞬いていた。カーテン越しの夜風が、少しだけ肌に触れる。


ポケットに手を入れると、指先が絵葉書に触れた。端がわずかに丸まり、インクのにじみもある。けれど、そこに描かれている景色は、今日、自分が歩いたそのままの風景だった。夕暮れに染まる海と、小さな漁港。そして、海を背にぽつんと佇む店。


……あの喫茶店。


凪はしばらく取り出した絵葉書を見つめていた。窓の外に目を向けると、海辺の方角に、小さく橙色の灯りが見えた。まだ、あの店の明かりがついている。


誰かが残っているのか、それともただ灯りだけが、今日の名残を照らしているのか。確かめる術はなかったけれど、凪はその光をしばらくの間、じっと見つめていた。


風に揺れるカーテンの隙間から差し込む昼下がりの眩い光。

カップから立ちのぼる湯気と、深くて優しい香り。

昔、祖母とよく行った店の記憶が、あの店でよみがえった。

確かあのときも、こんなふうに静かで、心がほどけていく時間だった。

静かに本を読んでいた祖母の顔が浮かぶ。

コーヒーを口にすると、目を細めて「美味しい」と笑っていた。

他の家族とうまくいっていなかった自分に、祖母だけが優しく寄り添ってくれた。

何も言わずにただ、そばにいてくれる人だった。


……不思議だ。

初対面のはずなのに、あの店主にはどこか懐かしさを感じた――

何かを思い出しかけているような、そんな不思議な感覚だけが胸に残っている。

凪はそっと絵葉書に目を戻し、そしてゆっくりと、胸元にしまった。


胸の奥に、じんわりとあたたかさが広がる。

その感覚だけで、この町に来てよかった――そう思えて、穏やかな気持ちで瞼を閉じた。

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