第1章 静けさの向こうに ~海が見える席~3
澪が小さな声でそう言うと、青年は目を瞬かせた。まるで、自分が話しかけられるとは思っていなかったかのような仕草に澪は笑った。
風に少しだけ乱れた前髪を指先で直しながら、彼はゆっくりと頷いた。
「……じゃあ、そこで」
扉の外の風と潮の香りから切り離されたこの空間が、彼にとって少しだけ心地よかったのかもしれない。
澪は小さくうなずいて、彼をカウンターの端の席へ案内した。窓の外には、午前の光をきらめかせた海が広がっている。遠くを行く釣り船が、ゆっくりと水平線に溶けていく。
「お好きな席にどうぞ。ここから、海がよく見えます」
青年は澪が指し示した席のうちの1つに腰を下ろしながら、店内を静かに見回した。静かで、古びていて、でも手入れの行き届いた空間。木の香りと、ほんのりとしたコーヒーの匂い。奥の本棚には色褪せた絵本や小説の背表紙が、まるで誰かの記憶を守るように並んでいる。
その視線に気づいた澪が、そっと微笑んで言った。
「あの本たち、祖父の代からずっとここにあるんです。絵本は、たまにお子様連れが読むこともあって。どれも大事にしていて……少し古いけど、綺麗でしょう?」
青年は「そうですね」とだけ答えた。その声には、何かを思い出すような、遠い色が混じっていた。
「何か、お飲みになりますか?」
「……おすすめは?」
澪は少しだけ考えて、言葉を選ぶように口を開いた。
「もし、お疲れなら。少しだけ苦くて、あとから甘さが来るブレンドが合うかも。深煎りなんですけど、後味が静かで……波の音みたいなんです」
青年は、それを聞いて小さく笑った。コーヒーの味を波の音に例える人は初めてだった。
「じゃあ、それで」
受け取った言葉に、澪は小さく微笑んでからカウンターの奥へと戻り、豆を挽き始めた。ガリガリと静かに響く音が、店内に優しく広がる。青年はカウンターの上に目を落としながら、その音を黙って聞いていた。
店内に漂う静けさは、まるで時間が海の底に沈んだかのようだった。
窓の外では、太陽の光がゆっくりと町の輪郭を金色に染めていく。
水平線の向こう、釣り船の影が細く揺れていた。
青年はそっと椅子に身を預け、目を閉じた。
ここへ来る途中で感じたあらゆるざわめきが、今はすうっと引いていく。
ポケットの内側で、硬い角の感触が指先に触れた。
古びた絵葉書――色褪せたインクと、描かれた景色。
それは、彼をこの町に導いた唯一のきっかけだった。
澪の背中は静かに動いていた。
豆を挽く音、ドリップの静かな湯音。
誰かのために、丁寧に淹れられる一杯のコーヒー。
その所作が、青年にはなぜだか懐かしく感じられた。
やがて、澪がカウンターを回って、コーヒーを乗せたトレイを手に近づいてくる。
ふと、青年は背筋を伸ばし、視線を窓の外に戻した。
「お待たせしました」
白いカップから立ちのぼる香りが、潮風と混じって漂った。
それは、遠くに置いてきたはずの記憶の扉を、ノックするようだった。
青年は、差し出されたカップにそっと目を落とした。
蒸気の向こうで、彼女の瞳が揺れていた。
何かを探るような、けれど強くは踏み込まない、そんな距離感。
青年はその視線に気づきながらも、言葉を選ぶように少し黙っていた。
やがて、静かに口を開いた。
「……いい香りですね」
それだけの、当たり障りのないひと言。
でも澪は、口数が多くはなさそうな青年から発せられたその短い台詞に心のどこかがふわりとほどけるのを感じた。
この店を開いてから何度となく聞いたはずの言葉なのに、どうしてだろう。波音のように胸に沁みていく。
「旅の途中なんですか?」
ふいに澪が尋ねた。
声はごく控えめだったが、その一歩に澪自身が少し驚いていた。
客に深入りしない、それがこの店の距離感だったはずなのに。
青年は返事に迷うように、少しだけ間を置いた。
「……ええ、まあ。そんなところです」
曖昧に濁したその答えに、澪はそれ以上は聞かなかった。
代わりに、小さく微笑んで頭を下げると、カウンターの奥へと戻っていった。
その姿が遠ざかると、ようやく青年は小さく息を吐いた。
店内には再び、波音と静けさだけが戻ってくる。
外の海が、ゆっくりと色を変えていく。
群青から藍、そしてすこしだけ金色を帯びた紫へ。
青年は窓の外に視線を向けた。
その風景に、どこか既視感のようなものを感じながら。
ポケットの中で、指先が紙の感触をなぞる。
けれど取り出すことはなかった。
まだ、そのときではないと思ったから。
そして、もうひとくち。
カップの中の熱が、かすかに残る孤独をゆっくりとほどいていく。