第1章 静けさの向こうに ~海が見える席~2
海沿いの道を、風に吹かれながら歩いていた。
空は晴れているのに気持ちはどこか置き場のないまま、ただ前に進んでいた。
コートのポケットの中にある一枚の絵葉書を、形を確かめるようにそっと指先で撫でる。
ふと目にとまって、祖母の部屋から無意識に持ち出してきたものだ。
町は、ゆるやかな夏の気配をまとっていた。
朝はまだ少し冷たさの残る風が軒先の風鈴をかすかに揺らす音が聞こえる。
舗道には、どこかの庭先からこぼれ落ちた夏椿の花が一輪、白く咲いていた。
風に乗って、花の甘い香りがわずかに漂ってきた。
歩きながら深く息を吸い込む。ほんの少し、胸の奥が軽くなるような気がした。
やがて、海の方へと視線を向ける。
そのまま引き寄せられるように足が動き、静かな通りへ。
古びた電柱、海を見下ろす坂道、そして少しだけ寂れた商店街――
潮の匂いが風に強く混じり始めたころ、不意に視界の端に小さな看板が現れた。
《波音ブックス&カフェ》
その横には、白いチョークで書いたような文字で、こう添えられていた。
『ここは、静かに過ごしたいあなたのための場所です』
足が止まる。
扉の前で立ち止まり、店の外壁や木製の看板をぼんやりと眺めた。
入ろうか、戻ろうか。そんな言葉が頭の中を行き来する。
看板の木枠には、ところどころ細かなヒビが入っていた。
不思議とそれが味に見える。長く、丁寧に大切にされてきた証のようで。
ゆっくりと、木のドアに手をかける。
中から、かすかにコーヒーと、どこか懐かしい紙の匂いがした。
カラン――
控えめに鳴ったベルの音が、小さな世界の扉を開けた。
ベルの音に続いて、重たすぎず軽すぎない木の扉がゆっくりと閉まっていく。
その瞬間、世界がひとつ、切り替わったような気がした。
外の風やざわめきが、扉一枚で遠くなった気がした。
代わりに満ちていたのは、深く澄んだコーヒーの香りと、紙と木が混ざった静かな空間。
店内は広すぎず、落ち着いた空間だった。
古びた木の床は、ところどころきしむ音を立てて青年の足音を受け止める。
壁際には本棚があり、小説やエッセイの合間に、少し色褪せた絵本が並んでいる。
「こぐまの手紙」、「やさしいライオン」。
表紙が見えるように置かれた絵本はお客さんを歓迎するようにどれもあたたかい笑顔のイラストが描かれている。
その背表紙の下に、小さなラベルが見える。
「読んでみてくださいね」――誰に宛てるともなく、そんな言葉が添えられていた。
陽の光が、海に面した窓からやわらかく差し込んでいた。
その光を受けて、窓辺のカウンター席に飾られたドライの紫陽花が静かに揺れている。
その横には、読みかけの本と、コーヒーのカップ。
そしてページに指を添えたまま、エプロン姿の女性が顔を上げた。
青年と視線が合う。
長い睫毛の奥で、淡く光る黒目がかすかに揺れていた。
小説の世界から現実に戻るように、彼女は静かに本を閉じて立ち上がった。
少しだけ戸惑いを含んだ声で、けれど優しく言葉を差し出す。
「いらっしゃいませ。あの……もしよかったら、奥へどうぞ。よければ、海が見える席、空いてますよ。」
声の温度と、店の空気とが混ざり合って、青年は自分の中の何かがほぐれていくような気がした。
それが何なのかは、まだ分からない。
だから彼は、何も言わずに、そっと頷いた。