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第2章 あの頃の続きを探して 5

陽が傾き、宿の廊下に赤金色の光が差し込むころ。

食堂の窓から見える海も、日中の煌めきを落ち着かせ、ゆったりとした波を打っていた。


「お待たせしました。今日は、サワラの塩焼きです」


宿の娘が笑顔でお盆を運んでくる。

その後ろから、ゆっくりとした足取りで女将も現れた。穏やかな顔立ちは、どこか凪の祖母を思い出させるような柔らかさがあった。


「どうぞ、ごゆっくり召し上がってくださいね」


「ありがとうございます」


凪は小さく頭を下げ、差し出された膳に目をやった。


湯気を立てる味噌汁に、つややかに焼かれたサワラ。

小鉢には、ひじきと根菜の煮物、ワカメとキュウリの酢の物。どれも派手ではないが、丁寧に手が入っているのが伝わってくる。


「ここ、海が近いから魚が本当に美味しいの。このサワラは今朝、港から直接仕入れたんですよ」


女将の娘がちょっと誇らしげに言った。


「……いただきます」


凪が箸を取ると、彼女と女将も向かいの席に腰を下ろす。


「今日はお客さんが少ないから一緒にいただいちゃって良いかしら」


もちろん、と頷いた凪を見て「ありがとう」と微笑む女将の声は茶目っ気があり、どこか母親のような優しさがある。

続くように隣に腰を下ろした彼女が真っ直ぐで人懐っこく見えるのは、こういう家庭で育ったからなのかもしれない。凪はそう思いながら味噌汁をすすった。


「ねえ凪さん、都会ってやっぱり忙しないですか?こことは違う?」


「……そうですね。人も、音も、時間も」


「でも、楽しそうだなって思っちゃいます。毎日、何かが動いてる感じがして」


「あんまりしつこく聞いちゃだめよ。ごめんなさいね、凪さん。うちの娘、好奇心が旺盛で」


女将が柔らかく笑うと、彼女はちょっと頬を赤くした。


「ちょこっと聞いただけでしょ!」


「いえ。大丈夫です」


凪は口元をゆるめ、塩焼きに箸を入れた。表面は香ばしく、中はふっくらとしている。派手さはなくても体に染みるような味だった。


食卓には、どこか懐かしさがあった。

食事をしながら言葉を交わし、笑い合う。そんな時間が自分の中からすっかりなくなっていたことにふと気づく。


「……美味しいです。本当に」


しみじみとした様子で伝えられたその言葉に、2人は顔を見合わせた後で嬉しそうに目を細めた。



夕食を終え、部屋に戻ろうとしていた凪に、廊下の先から声がかかった。


「凪さん、ちょっとだけ時間ありますか?」


振り返ると、エプロンを外した女将の娘が立っていた。先ほどよりもずっと落ち着いた雰囲気で、髪もゆるくまとめ直している。


 「えっと……はい」


少しだけ返事が遅れたのは、灯との距離感に戸惑いがあったからだ。

あどけなさの残る笑顔の中に、どこか別の顔が見え隠れしている気がしたから。

彼女は、ひとときもためらうことなく人の懐に入ってくる。それが嫌というわけではない。ただ、どう受け止めたらいいのか迷っていた。


「裏庭、行きませんか? 星、綺麗なんです」


その言葉に、ふっと肩の力が抜ける。


――なんだ、星を見るだけか。


宿の外にでも連れ出されるのかと、変に意味を深読みしていた自分が少し恥ずかしくなる。

うなずいた凪に、彼女は小さく笑った。


彼女に案内されるまま裏手の小径を抜ける。

物置小屋の裏、宿の敷地ぎりぎりの場所に小さな広場があった。そこにぽつんと木製のベンチが置かれている。


「ここ、星が綺麗に見えるんです」


彼女がそう言って笑った。

見上げた夜空は町の灯りが届かない分、吸い込まれそうなくらい澄んでいる。

静かだった。風の音と遠くで繰り返す波のささやきだけが、夜をゆっくりと包んでいた。


ベンチに並んで座ったふたりの間には距離があった。

けれどその距離も、やわらかな夜の気配の中で自然と心地よく感じられた。


「……私、まだ名乗ってませんでしたよね」


ふいに彼女が言った。


凪がゆっくり顔を向けると、彼女は少しだけ照れたような笑みを浮かべていた。


あかりっていいます。“ともしび”の灯。母がつけてくれた名前です」


「……良い名前ですね」


凪の返事は短かったけれど、それは本心だった。

“灯”。その名前が、この場所と、彼女の雰囲気と、ぴったりだと思った。


「ありがとう。私の名前も知らないのに来てくれて。……凪さんってちょっと不思議な人ですよね」


凪は、小さく息を吐いた。


「……人とどう接すれば良いのか、よく分からなくなるときがあるんです。つい黙ってしまうことも多くて」


「そうなんだ……、あんまり私にはない感覚かも」


「はは……、だろうね」


波音ブックスの澪さんといい、日下部商店の拓海さんといい、こんな短期間でよく話す間柄になれたのは何故だろう。

目の前の灯に対してもそうだ。自分の弱さをこんな風にあっさり打ち明けられるのは何故だろう。


この町では凪がずっと心に纏っていた鎧が砂のように崩れ落ちていく。周りの目を気にして気を張っていたあの頃が嘘のように。

本当は最初から敵なんて居なくて、疲れ果てた自分自身が見せた幻だったのかも知れない。そう思える程に凪の心は穏やかで、裸だった。


「だからかな……初めて見た時からなんとなく、あなたのことが放っておけないって思ったの」


凪はその言葉に目を丸くする。隣を見ると真っ直ぐにこちらを見つめる大きな瞳と目が合った。どれくらいそうしていたのか、灯の意図が分からないまま返す言葉を探せず、ただ黙ったまま星空に視線を移した。


「ごめんなさい、なんか変な事言っちゃった。気まずいですか?」


「いや……」


あまりにも真っ直ぐな物言いに凪は少し笑った。

彼女のこういう素直な所が羨ましくて、眩しいと思う。


「……放っておいてほしくなかったから、ここに来たのかもしれません」


ぽつりとこぼしたその言葉に、灯がそっと視線を向けた。

でも、何も言わなかった。ただ彼女の瞳の中には海のような穏やかさがあった。

自分でも気付いていなかった思いが口をついて出た事に、凪は驚く訳でもなく星空を仰いだまま目を閉じた。

空では、流れるような星がひとつ、尾を引いて消えていった。


瞼の裏に、澪の姿が映る。

彼女が海の見える窓辺でコーヒーを淹れていた朝。名前を呼んでくれた声のやわらかさ。

その一つひとつが、まだ胸の奥で微かに揺れている。


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