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第2章 あの頃の続きを探して 3

店内には、コーヒーの香りと静かな波音がやさしく漂い続けていた。


何度かコーヒーを口にした後、凪はカウンターに紙袋をそっと置いた。


「あの……これ、もし良ければ。勢いで買ったんですけど、よく考えたら1人でひと瓶は多いと思って。その、お裾分け、というか……」


戸惑いがちに言葉を探すその姿が、先ほどまでの静かな物言いの彼とは全くの別人のようで澪は思わず吹き出しそうになる。けれど笑わずに、代わりに静かに受け取って袋の中をのぞき込んだ。


「あっ、このジャム……!」


その瞬間、ぱっと澪の表情が明るくなる。珍しく大きな声が店内に広がり、凪は目を丸くした。その顔を見た澪はすぐに口元に手をやる。


「大きな声出しちゃってごめんなさい……。嬉しい、このジャム、大好きなんです」


嬉しそうに目を輝かせて、まるで子どもみたいに笑った。驚くほど無防備なその表情に、凪は息を呑む。


——こんなふうに笑うんだ。


いつもの控えめな声とは違う、ほんのり弾んだトーン。その心地良い揺れが、心の深いところまでどこまでも静かに染みこんでくる。


「じゃあ、お返しに……トースト、焼きますね」


「トースト?」


「メニューにはないんですけど。隣町のパン屋さんの、食パン。シンプルだけど美味しいんですよ。ジャムに合うと思って」


「嬉しいです。あの……良かったら、一緒に食べませんか?」


かけられた言葉に、澪はほんの一瞬だけ迷った後、笑顔で頷いた。いつもの自分なら、なんて答えただろうか。そんな事を考えながら。


カウンターの奥で動き出した澪の背中に、凪は目を細めた。朝の陽が窓越しに射し込み、彼女の輪郭をふわりと淡く照らしている。



やがてコーヒーとトーストの香りに包まれて、ふたりは静かに席についた。言葉は多くなくても、心地よい空気が漂っていた。


皿の上には、こんがり焼けたトーストと、小さく添えられたバター。瓶からスプーンですくわれた琥珀色のジャムが、パンの上にゆっくりと広がっていく。


「少し焦げちゃったかも……、ごめんなさい」


「いやいや、完璧です。すごく美味しそうです」


澪が差し出したトーストを、凪は両手でそっと受け取る。向かいの席に腰を下ろした澪にも、もうひと切れ。

ふたりで並ぶようにして、それぞれ一口、口に運んだ。


「……おいしい」


ほぼ同時に、ふたりの口からこぼれた言葉に、自然と笑いが生まれた。


「このジャム、最高ですね」


「こんなに合うと思ってなかったです……。実はトーストと食べるの、初めてで。」


「え、本当ですか?」


「はい!いつもはヨーグルトに入れてました。パン、買っておいて良かったなぁ…」


澪の声に、また嬉しさが滲む。パンの温かさ、ジャムの甘み、それに重なるように2人のやわらかな空気が広がっていく。


やがて、ふと澪が顔を上げる。


「……あの、そういえば。私、名前を……」


その声と重なるように、凪も言った。


「そうだ、名前……まだでしたね」


一瞬、どちらも口を閉じて、そして笑った。


「凪です。波の“凪”」


「……いい名前ですね。私は、澪。水の道って意味みたいです」


「水と……波かぁ」


そうつぶやいた凪の声に、澪はふっと目を伏せた。けれど、口元には確かに笑みが浮かんでいる。


「……なんだか、ちょっと似てますよね。名前」


「ええ、少しだけ。でも……」


凪は、残っていたパンの端を小さくちぎりながら、澪の顔をちらりと見た。


「似てるのは、たぶん名前だけじゃないかもしれません」


その言葉に澪の手がわずかに止まった。けれど否定の言葉はなく、ただ静かに、ジャムの甘さが口の中に広がっていく。


やわらかな余韻とともに、店の奥では、波音がゆるやかに響いていた。

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