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第1章 静けさの向こうに ~海が見える席~1

潮の香りがほんのり混じった初夏の風が、カフェの窓をかすかに揺らした。

その町には海がある。観光地と呼ぶには地味すぎるけれど、暮らすにはちょうどいい、時間の流れがゆるやかな町。ここでは季節の変わり目が、誰にも気づかれないようにそっと衣を脱ぎ着する。


カフェは海に向かって開いた小さな坂の途中にあって、目印になるような派手な看板もなかった。ただ、ふと立ち止まった人が、香りに導かれるように扉を押すような、そんな場所。


その店で、澪は毎日変わらない時間を過ごしていた。朝一番に豆を挽き、カウンターに手拭きの花瓶を置いて、お気に入りの音楽を控えめに流す。

「いらっしゃいませ」と口にする声は穏やかで、控えめだった。それは、この町の空気に染まるように、彼女自身もまた静けさの中に身を置いていたからかもしれない。


客足の落ち着いた昼下がりになると、澪は決まって窓辺の席に本を持っていく。コーヒーの香りと、さわさわと風に揺れるカーテン。そこは誰にも邪魔されない、小さな世界だった。


澪が読んでいるのは、小さな町を舞台にした古い児童文学だった。主人公は内気で言葉の少ない女の子。自分の気持ちをうまく伝えられずに、時々遠回りをしてしまうけれど、ほんの些細な優しさが誰かの心を救っていくような――そんな物語。

子どもの頃から何度も読んでいるというのに、澪はこの本を手に取るたび心が踊るのを感じる。


カフェの隅の本棚には、彼女が好きな物語たちが並んでいた。旅と、冒険と、静かな愛、どれも季節の描写が丁寧なものばかり。詩集やエッセイもいくつかあって、表紙はどれも淡い色合いで少し日焼けしている。


その中に、いくつか絵本も混じっていた。色とりどりの表紙が控えめな文学の並びの中で、どこかあたたかい存在感を放っている。中には、子どもの頃に祖父と読んだ思い出の絵本もあった。

「次はどれを読んでやろうか」と何度も笑いかけてくれた祖父の声が、この本棚を眺める優しい眼差しが、ページをめくるたびにふと蘇る。色褪せはしていても、丁寧に手入れされて埃ひとつ積もっていないその絵本たちは今も誇らしげにそこにあった。


時折、子どもを連れたお客さんが手に取り、静かにページをめくっていく姿を見ることがある。そんなとき澪はコーヒーを運びながらそっと微笑んで、必要があれば本を読んであげることもあった。


大人になっても、物語を読んでもらった大切な思い出は心の奥にちゃんと残っている。そんな思い出を取り出す時のあたたかい気持ちを澪は知っていた。

だからこそ、この小さなカフェには言葉のぬくもりが、そっと寄り添うように息づいている。


それらの本を眺めるだけでも、澪にとってはひとつの癒しだった。日々の営みの中で、そっと心を撫でるような言葉たち。だからこそ、この場所の静けさは大切にしたい宝物だった。


今日もまた、ページをめくる指先に光が落ちる。海面がきらきらと陽に揺れて、時間の輪郭が曖昧になっていく――まるで、夢の中にいるみたいに。


そのとき。カラン、と真鍮のドアベルが小さく控えめに鳴った。


澪は、ちょうどページをめくる指を止めて顔を上げたところだった。目を細めて光を受けながら、やわらかく微笑む。けれど、その笑顔にはほんの一瞬だけ戸惑いの気配が差す。


昼下がりの、誰も来ない時間。潮の匂いが漂い、コーヒーの香りが満ちたこの空間に、誰かの気配が入り込むことは稀だった。


入り口に立っていたのは、ひとりの青年だった。


長めの黒髪が額にかかり、表情は読めないが少し疲れたような印象だった。数歩、歩いて立ち止まる。その目だけが、この空間を確かめるようにゆっくりと店内を見渡していた。

ーー迷っているのだろうか?

澪はそっと立ち上がり、手に持っていた本を静かに閉じた。ページの間に、ドライの紫陽花を挟んだまま。


「いらっしゃいませ。あの……もしよかったら、奥へどうぞ」


ためらいながらも差し出すように、彼女はふわりと声をかけた。 


「よければ……海が見える席、空いてますよ」


その言葉に、青年の目がわずかに揺れた。


言葉をかけることは、彼の静けさを壊してしまうかもしれない。でも、放っておくには、どこか寂しげな雰囲気をまとった青年だった。


彼は小さく頷き、促された窓辺の席へと歩き出す。

歩幅はゆっくりで、でも確かだった。

澪は、彼の後ろ姿を見つめながら、そっと胸に手を当てた。


鼓動が、不思議なほど静かに鳴っていた。

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