05.トマソン
斉木は道に迷う方ではなかった。
だのに、この街ではよく迷う。まずスマートフォンやタブレットでの地図機能が利用できない。澤井から地図を貰ってよくよく調べても、果たしてこの道が正しいのか、常に腹の中で居住まいの悪い心地がする。
斉木の住むマンションの隣は空き地であった。
仕事終わりに通りがかると人影が動いて物音がした。測量か地主の関係であろうと気にもしなかった。帰宅し就寝した。どうでもいい。
朝に出勤する。隣の土地には家が建っていた。
夕に帰宅する。まだ家であった。
朝に通りがかる。今度は公園になった。夕も公園のままであった。
翌朝は倉庫になっていた。ある日は博物館、ある日は開店前のコンビニ。数日そのままになることもあったし、空き地に戻ることもあった。
なるほど、これのせいか。
正しい道を通っても、翌日にはなにやら様相が違う気がする原因。この街は常ならぬ変化に見舞われる。どうでもいい。事務所や自宅の位置が突然変わったりするでもない。事務所のパソコンはその変化に対応しているようだ。昨日見たはずの無人の物件が今日は探しても見つからない。それは困る。澤井に聞く。
「それは鬼の仕業ですね」
鬼。妖怪もいるのだからいるのだろう。取って食われるわけではないのならいたっていい。何か困ったことがありましたか、と澤井が続けた。今のところはない。だが、もしも紹介などで必要な物件が消えてしまうのは困る。
「それなら大丈夫ですよ。入り用なものには手を付けませんから。不要の兆し、消えても問題ないものを取り払う。そういうものです」
そうでなければ私が消しています。澤井はこともなげに宣言する。なんの権限かは知らないが、澤井が言うとできる気がする。
「要不要の判断は信が置けるんだろうな」
「練習中でーす」
この街には、どうも人間にはなじみが薄い常識がある。一日にして新しい建物が生える土地や、曜日ごとに毛が生えていたり手足が多かったり透けていたりと客層の変わる商店街。斉木は実害がないので放っておいた。そういうひともいるよね。そこにいて誰にも迷惑をかけず生活を営むならどうでもいい。引っ越しの挨拶に来た隣人の頭に皿があったとして、差し入れの蕎麦がうまかったので問題がない。果たして生まれつき頭頂部に毛が生えていない生物と、加齢によって毛を失う人間のどちらが自己憐憫を抱きやすいかといえば後者であろう。
「じゃあこうしましょう。なくなったら困るものはここに書いておいてください」
パソコンにテキストデータが送られてきた。開く。空白であった。タイトルは、必要なものリスト、とやる気が感じられない文字が並んでいる。
「物件の名前とか、人や物。いつもは放っておくけどないと困るもの。そういうものは書いておいてください。消えなくしておきます」
使わないが必要なもの。そこにあることに価値のあるもの。
「失ったものは取り返せるか?」
もうなくなってしまったもの。肩を澤井は肩をすくめて返す。
「取り戻したいものがあればご自分でどうぞ。それができなければ鬼にだって無理ですよ」
占い師が最終決定権を相談者に委ねるような言い方だった。斉木はこれ以上言っても埒が明かないことを察した。テキストデータに打ち込む。
いつもは気に留めないが、ないと困るもの。消火設備、水道管、護岸設備、非常階段。
電柱、と書き込んだ時にふと思う。はす向かいの家の電柱を迂回するための壁のへこみ。電線を地中埋設に換えたのだろう。電柱がなくなっても、そのへこみは残っていた。自分はそれを当然に電柱の跡と分かった。だが電柱を知らない子どもや地中埋設が当たり前の地域の人間には分からないだろう。必要だったものが、不要となった時に生じるすきま。
それをなんとすべきか斉木は迷う。
その隙間さえなくなってしまえば、電柱を当たり前のようにそこにあるものとして扱った自分たちの過去が否定されてしまうような気がする。感傷だ。
そこに何かがあった過去を許容する、無用の長物。
何と書いたらいいものか。なんと書いたら伝わるものか。斉木は諦めて筆を折った。
帰宅した時に見た空き地には古びた不要物が乱立していた。
階段を失った橋げた、行先のない階段、コンクリートで塗りこめられ明かなくなってしまっている扉。
時々物好きが写真を撮りに来る。
マンションの隣は、今も無用の長物の楽園になっている。
話の間で街の描写に差異があっても鬼のせいです