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教務主任から辞職する旨は児童に知らせないよう通達があった。理由は不明だが、棚端はそれならそれで構わなかったので素直に受け入れた。
あと数日で終業式という日曜日になんの前触れもなく柊磨が教員住宅に現れた。
「先生、柊磨くんが来てるよ」
藤谷が外で大きい声を出した。棚端には一瞬彼女が何を言っているのか分からなかった。柊磨が来てる?そんなことは1度もなかった。考えてみれば校門から目と鼻の先にある教員住宅に児童が遊びに来たことがなかったのだ。暗黙の了解か誰かが止めていたのか。考えてみれば6年生などは来てもおかしくないのに誰も来ていない。
それなのに柊磨が来た?1人で?
棚端は慌てて部屋を飛び出した。玄関先に柊磨がいた。1人笑っている。だがその顔つきはここに赴任の挨拶に来た時のヘラヘラのアホ顔とは随分と異なっていた。木の上から猿のような顔で「たあーし」と叫んだバカな子どもと同じ子には見えなかった。まともに話もできないはずなのに、その表情からは不思議と知性が感じられた。
「柊磨一人で来たのか?」
棚端がそう尋ねると、
「先生に会いに来た」
と柊磨が答えた。
「そうなんだ。偉いね」
藤谷が柊磨に近寄って頭を撫でた。棚端は突如涙腺が緩みそうになって狼狽したが、気を振り絞って落ち着きを取り戻した。
棚端の部屋はダンボールの箱で埋もれていたので藤谷の部屋に柊磨を迎えた。そこで30分ほど3人でジュースを飲み、とりとめのない話をして過ごした。
棚端には柊磨がとても聡明で賢い子どものように見えた。むろんそんなことは決してなく、まともに話もできていなかった。だが顔つきがいつもと少し違っていた。唇を横にひいてだらしなく開けていた柊磨は2学期のうちにいなくなっていた。3学期は見た目だけでは普通の子との差異は見いだせない程になってはいたが、今はそれとも異なる印象を受けた。とても綺麗な顔で、瞳の輝きが知性を感じさせていた。
考えてみれば、赴任してきた時なぜ柊磨は棚端の名を知っていたのか?なぜ木の上で待ち構えていたのか?そして、なぜ今このタイミングでここに一人で来たのか?棚端にはその答えが分からなかった。そして、その真相を知ることは叶わない気がした。ただ夢の世界にいるような居心地が良いような悪いような不思議な思いのまま時が流れた。柊磨は来た時と同じく1人で帰路へついた。
終業式の最後にノートを一人一人に渡した。
「なんだよ。ノートなんかいらねーよ」
と菊地が呟いた。まあ、そうだろうなとは棚端も思ったが、そんなに邪魔にもならないだろうと心中で言い返した。
職員室に戻ると赤坂が近づいて来た。
「あのさ、離任式があるから、ちゃんと来てね」
そう告げて去っていった。離任式?初めて聞いた。棚端は騙し討ちに合った気がした。結局辞めることはみんなに知らせるんじゃないか。自分から子どもたちには言いたかったわ。と、腹立たしい思いにかられた。離任式は5日後だった。そこで教員生活はようやく終了となるようだった。
「次の仕事決まったの?」
藤谷が困ったような表情をつくった。この部屋にももう来ることはないんだなとしみじみ思った。
「うん。車で20分くらいのところ」
視線を合わせないようにした。
「車買ったの?」
「いや、まだ」
「ふぅーん」
藤谷との関係はもう終わりであろうことは藤谷自身もよく理解してることだろう、と棚端は身勝手に考えた。棚端にしても今後新たな出会いもあるだろうから6歳も年上の女性と交際している利点が見出せなかった。
「部屋は見つけたんだよね」
「まあね」
地元のワンルームマンションを契約していた。藤谷に断りを入れる必要も無いだろうと思っていたが、伝えておいたほうがよかったか。冷たい気もするが、この先を期待されても困るのでこれでいいとする他ない。棚端はそう判断した。藤谷もそれ以上は聞いてこなかった。
離任式は校庭で児童全員が集合した中で行われた。棚橋の他に1名事務員が今年度で退職するので挨拶した。棚端は通常通り、
「半年という短い時間でしたがありがとうございました」
と短く感情も込めずにさらりと言って終わりにした。
離任式の締めくくりは離任職員の退場だった。50代の事務員が先頭で、と言っても彼と棚端の2人だけだが、児童たちが両側に並んだ中央を通って退場するという悪趣味でばかみたいな趣向だった。仕方なく棚端はちょこちょこ頭を下げながら事務員の後をゆっくり歩いた。
突如、もの凄い勢いで近づいてくる女性が見えた。柊磨の母親だ。顔がいつもと違う。目を赤く腫らしている。
「井川です。先生、柊磨のせいで辞めるんですか?」
手には終業式に渡したノートが握られていた。
「いえ、違います。初めから決めていたことです。それとは別に、息子さんには大変失礼なことをしてしまい申し訳ありませんでした」
棚橋は立ち止まって深々と頭を下げた。
「そんな事を言うのは本当にやめてください!先生!」
柊磨の母親は泣いていた。棚端は頭を下げたまま足を進めた。しばらく歩くと
「先生!ばいばい!」
と声が聞こえたので顔を上げると坊主頭の山田が満面の笑みで手を振っていた。
「ばいばい!」
悪ガキの菊地と中島が笑っていた。不登校だった南香奈が大きく手を振っていた。
「せんせー!」
クラスのみんなが叫んだり手を振っていた。
お気に入りの北川由美は微笑んでいた。心身ともにガチガチだった菱見涼子はニコニコしながら手を振っていた。心優しい高橋貴子は唯一人泣きじゃくっていた。井川柊磨はぼーっとした顔で棚端を目で追っていた。
児童たちの列が終わると棚端は振り返って1度だけみんなの方へ大きく手を振ってから向き直って職員室に向かって歩いた。この運動場に踏み入ることは二度とないという当たり前の事実がなにやらとても薄っぺらいものに感じた。
小説内の会話の内容と出来事は全て一人の人間の主観を通して受け取られた事実を書いてあります。
坊主頭の山田がどうやって調べたのか、中学に上がったと電話をしてきたことがあり、柊磨は相変わらずでチンゲが生えて女好きだという、いらない情報をくれました。
棚端翔は老人となった今も塾で更にパワーアップして生徒との刺激的な日々を過ごしています。