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01.突然の別れ

 雨が、降っていた。


 しとしと、しとしと、と音もなく降りしきる雨は強くはないが、だが止む気配は一向にない。


 松橋(まつばせ)慧人(えいと)はその雨の中、天を見上げて立ち尽くしていた。傘も差さずに立ち尽くす彼の顔を、身体を、冷たい雨が止めどなく濡らしてゆく。もう春も終わりだというのに冷え冷えとした雨は、まるで涙のようだった。


「慧人くん、風邪引いちゃうよ」


 声とともに、慧人の頭上に傘が差しかけられた。慧人が振り返ると、そこには喪服に白いマスク姿のひとりの若い女性の姿がある。


「美々津……」

「ほら、しっかりお見送りしないと。君がそんなんじゃ、未蕾(みらい)だって安心して眠れないんじゃない?」


 傘を差しかけてくれたのは同級生の美々津(みみつ)(はるか)だった。

 彼女が振り返った方向に、慧人も顔を向ける。そこには今まさに霊柩車に載せられようとしている柩があった。


 柩は両親や兄弟、それに親類たちの手でゆっくりと霊柩車の後部ハッチから車内に収められてゆく。その周りには故人を偲ぶために集まった喪服とマスク姿の参列者たちが涙を拭きつつ囲んでいたが、少し離れた、庇もない場所に立つふたりの位置からはちょうど視界が確保されていて、その様子がよく見える。

 喪主である未蕾の父親が胸に抱く遺影が目に入って、慧人は咄嗟に顔を背けた。



 柩に収められ、今まさに霊柩車に載せられているのは前原(まえばる)未蕾(みらい)という女性の亡骸(なきがら)だった。

 慧人の最愛の、恋人だ。


 未蕾は先日、信号を無視して交差点に突っ込んできたトラックに撥ねられ、わずか19年の生涯を閉じたのだ。大学のキャンパスで一報を聞かされた慧人は慌てて彼女の運ばれた病院へと駆けつけたものの、すでに彼女は帰らぬ人となってしまっていたのだった。

 あまりに突然のことで、慧人には到底受け入れ難い現実だった。つい半日前まで隣で笑っていたというのに、その最愛の彼女が死んだと言われても、受け入れられるはずがなかった。


 それからはまるで白昼夢のように日々が過ぎ、茫然自失のままに通夜と葬儀が執り行われ参列し、そして今出棺に立ち会っている。これから彼女は火葬場で荼毘に付され、そして小さな小さな骨壷に納められて両親とともに還ってゆくのだ。


 慧人は火葬場に同行するつもりはなかった。奇跡的に外傷をほとんど負わなかった彼女の顔が、身体が、灰になってゆくその場に居合わせたくなどなかった。

 見なければ、もしかすると全部夢で、そのうち彼女がひょっこり帰ってくるかも知れない。そんなあり得ぬ夢にさえ縋ってしまいたい心境が、慧人を火葬場に行かせようとしなかった。


 弔慰を示すクラクションが長く長く鳴らされ、頭を下げる多くの人々に見送られつつ霊柩車が走り出す。霊柩車はゆっくりと、雨の降りしきる中を走り去って行った。




  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆




 松橋慧人と前原未蕾は同じ高校から同じ大学へと進学した先輩と後輩の間柄だ。ただ高校の頃はお互いに接点がなく、同じ大学に入学したのも全くの偶然でしかなく、慧人も未蕾が大学に入ってくるまでは彼女の存在さえ知らなかった。

 だが彼女が入学してすぐの頃、新歓コンパのしつこい勧誘に捕まって困っていたところに、偶然出くわした慧人が声をかけて助けてやった事があった。それで顔見知りになって話すようになり、同じ高校の出身と分かってからは一気に話に花が咲き、そこから親密になるのにさほど時間はかからなかった。


 当初彼女は、忘れられない元カレがいると断ってきて遠慮していたが、慧人の方が離さなかった。友達ならいいだろ、と半ば強引に押し切って、でも彼女の気持ちがほぐれるまで辛抱強く、節度ある付き合いを心掛けたのだ。

 その甲斐あって、入学から半年を過ぎた秋も深まる頃になってようやく彼女は慧人にも心を許すようになり、デートを重ねてクリスマスイブの夜に告白して、ついに彼女からOKをもらったのだ。



 それ以来、彼と彼女は手を取り合って幸せな時を重ねてきたはずだった。年末年始、バレンタイン、そして彼女の誕生日。お互い将来のことまで深く考えていたわけではなかったが、それでも若いふたりの“今”は幸せに満ちていて、その時間が永遠に続くとばかり思い込んでいた。


 それが、こんなにもあっさりと、無残に引き裂かれるなんて。



 慧人の掌には繋いだ彼女の手の温もりが確かに残っている。小さく華奢でほっそりした指、それを握りしめてやると遠慮がちに握り返してくるさまがなんとも可愛らしかった。

 慧人の耳には彼女の声がはっきりと蘇る。遠慮した声、気遣う声、はにかむ声、拗ねた声、喜ぶ声、怒る声。そして涙に震えながらも「私も、先輩のことが、好きです……」とはっきり伝えてくれた声までも。

 慧人の脳裏には彼女の姿が鮮明に思い浮かぶ。出会った時の不安げに怯えた姿、助けてもらったお礼を言うはにかんだ顔、同じ高校の出身だと分かったときの喜びに溢れた表情。そして告白を断った際の申し訳なさそうな顔、絆され受け入れてくれた時の潤んだ瞳、キスをする直前の見上げたまま目を閉じた白い頬、抱き締めれば腕の中で折れそうなほど細い腰。

 なんならふたりきりの時だけで他には決して誰にも見せない、生まれたままの姿や恍惚とした表情までもがはっきりと脳裏に刻まれている。彼女の瑞々しい肢体も、上気した肌も、艷やかな黒髪も唇の柔らかさも、その肌から伝わる温もりや甘やかな吐息さえもが脳裏に、身体に染み付いている。


 それら全てが、愛しい全てが永遠に失われてしまったのだと、慧人は認めることができなかった。

 だって、認めればもうなんにも(・・・・)なくなる(・・・・)のだ。そんなことは、それだけは絶対に嫌だと、慧人の中で聞き分けのない我侭な子供が声の限りに泣き叫んでいるのだ。




  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆




 霊柩車を見送って、未蕾の葬儀からひとり暮らしの安アパートに帰ってきた慧人は、その後傷心から立ち直る事ができずに1週間ほど大学もバイトも休むハメになった。だが部屋に篭っていてもそこは何度も未蕾が訪ねてきた思い出深い場所であり、慧人の心は決して晴れることはなかった。

 姿を見せなくなった慧人を心配して、友人や先輩後輩たちが電話やSNSなどで様々に連絡を入れてきたり、時には部屋まで押しかけられて食事などに連れ出されたりした。そういう時には慧人も申し訳ないと思いつつ、彼ら彼女らの好意に甘えさせてもらった。部屋にいても心苦しいだけだったし、食事を用意する気力もなかったので正直有り難かったのは事実だ。

 慧人自身にだって、立ち直らなければダメだと頭では解っていたのだ。ただどうしても、心が言うことを聞かなかった。


 だが時の流れというものは無情なまでに残酷なもので、1週間も経てばさすがの慧人も重い腰を上げる気力が僅かなりとも戻ってくるものだ。元々が立ち直らなければならないと理解していたこともあって、一度行動を起こしたらあとはそれなりにスムーズだった。


 久々に大学に姿を見せた慧人の周囲には、すぐに友人たちや親しい後輩たちが集まり、口々に慰めては気を紛らわす手伝いをしてくれた。さほど交友関係が広いとは言えなかった慧人だが、辛いときに寄り添ってくれる友人たちの存在は本当に有り難かった。

 自分は独りじゃない、前を向いてもいいんだ。

 そう励まされたようで、慧人も少しずつ前を向けるようになっていた。







生前の未蕾ちゃんは拙作『縁の旋舞曲』にちょっとだけ出ています。


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