00.老人と少女
「ついに……」
薄暗い部屋の中、しわがれた声が響く。
「ついに、この時が来た……!」
白衣をまとった総白髪で痩せぎすの老人が、熱に浮かされたような目で一点を凝視しながら独りごつ。その視線の先にあるのは、一基の巨大な、透明な液体が満ちている培養槽と思しき円筒形の水槽。
それは部屋の中央に、どっかりと鎮座していた。
その中に、裸の少女がひとり、浮いていた。
浮いていた、というのは正確な表現ではない。
正しくは、水槽の中心に存在していた。
上方の水面に浮かんでいるのではなく、下方の水底に沈んでいるのでもない。たっぷりと湛えられた液体の中心に、なんの支えもなく、重力を無視するかのように、少女の姿がある。
そういう意味で、浮いていると表現するより他にない。
少女は目を閉じ、身体を折り曲げて膝を抱えるようにして浮いていた。鼻腔から時折かすかに気泡が漏れ出ているところを見る限り、生きているようではある。だがピクリとも動かない。
その身には大小様々なケーブルやチューブが取り付けられ、培養槽の壁面や底面、上部へと様々に伸びてている。少女の身のどこに接続されているのか一見して分からないが、少なくとも彼女はそれらで縛られて位置を保っているのではないことは明白だ。何しろ手も脚も胴体も、どの部位もそれらは絡まってはいないのだから。
「随分と待たせたね」
老人の顔に笑みが浮かぶ。
深く皺を刻んだその顔はまるで恋する少年のように上気し、漏れる吐息にまで甘やかな歓喜が含まれている。
と、老人が培養槽から目を離し背を向けた。
老人が向き直ったのは部屋の奥の壁面だ。そこには壁一面に巨大なディスプレイが据えられており、その中に大小様々なウインドウがデジタル表示され、その中で数値やグラフが無数に蠢いている。あるいは規則正しく、あるいは緩急をつけながら、あるいは不規則に乱高下しながら動くその数値やグラフを老人は満足げに眺めやる。
「さあ、目覚めなさい、“マイコ”」
老人がディスプレイの下方に備わるコントロールパネルに歩み寄る。無数のボタンや計器類が並ぶ、なんの用途かも分からないそのパネルに迷わず手を伸ばすと、節くれだった指でひとつのボタンに手をかけた。
数あるボタンの中で、それだけが透明なカバーをかけられていた。誤操作防止なのか、あるいは防護せねばならぬほど重要なボタンなのか。
そのカバーのある一点に老人が指を押し当てる。するとディスプレイに新たにウインドウが開いて、正しく認証がクリアされたことを示す警告文が表示される。次いで、準備が完了した旨の表示が浮かんだ。
それをしっかりと確認してから、老人はカバーに触れてそれを開いた。手前から上に持ち上げ、ヒンジに従って貝のように向こう側へと開いたカバーの手前には、赤く鈍く光るボタンスイッチ。
それを老人は無言で押し込んだ。
カチリ、と小気味よい接触音とともにボタンがコントロールパネルに押し込まれ、同時に鈍く光っていたボタンの光が消える。
プシュー、という排気音が老人の後方から聞こえてきて、老人は再び培養槽へと向き直る。
排気音は培養槽の上部の蓋が開く音だった。培養槽は液体で満たされていたわけではなく、上部にわずかに気体を残していたのだが、蓋が開いたことで密閉されていたその気体が漏れ出したのだ。
それと同時に、様々な電子音を響かせて一斉にディスプレイの中で無数のウインドウが立ち上がり、何かを表示しては消えていく。そしてそのたびに、少女の身体に取り付けられていたケーブルやチューブが外れていく。
やがて少女の身体からそれら全てが外れ、彼女は完全にひとりの人間になった。
ディスプレイ画面の中で最後のウインドウが開く。それにはこう表示されていた。
『MA‐IKO‐018 Start up “Good morning!”』
そして、少女の目がゆっくりと開く。
培養槽を満たしていた液体もすっかり排出され、何もない培養槽の中にしっかりと自分の足で立つ彼女は老人の姿を見止めると、花が綻ぶような微笑みをその顔に浮かべて、そして口を開いた。
「おはようございます。そしてお久しぶりです、マイマスター」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
柔らかな陽射しに充ちたその部屋には、ひとつの大きなベッドが窓のそばに置かれていた。
部屋には他にも、大小様々な紙の本が詰め込まれた壁一面の本棚があり、本棚の中心部には最新式のフィルムタイプのスクリーンディスプレイが備えられ、寝たきりでも日常生活に不便がないようにベッドサイドにはタワー型の全自動食餌提供システムが備えられている。一方で部屋の主がベッドから離れて寛ぐことを想定してか、アンティークな木製の安楽椅子も置いてある。
空調はコンピュータ制御の天井床面一体型で室内は常に最適・完璧な状態が保たれ、成分コントロール済みの安全安心な空気で満たされている。照明も天井一体型で目や肌に優しい、柔らかな光が天井全面から降り注ぐ。
その部屋のそのベッドに、老人がひとり、寝かされている。
老いさらばえたその姿は、もう今この瞬間にも人生の幕を下ろしてしまいそうなほどに儚くなっている。揺れる視線に力はなく、漏れる吐息さえ今にも途絶えそうだ。
そのベッドのそばでこれまたアンティーク調の木製の椅子に腰掛けて、節くれだった彼の手を握っているのは、“マイコ”と呼ばれたあの少女だった。何やら光沢の強い、どこに継ぎ目があるのか分からない不思議なワンピース状の服を着た彼女は、あの時と比べて見る影もないほど痩せ衰えた老人とは裏腹に、いささかも歳を取ったようには見受けられない。
まあ、老人と彼女の年齢を考えれば無理もない。片や人生の最終盤、おそらくは80代から90歳前後に見える老人に対して、“マイコ”はどう見ても10代の半ばから後半といったところ。老人と少女では時の流れさえも異なるのだ。
ただ、老人が10年ほど経過しているように見受けられるのに対し、“マイコ”は本当に何らも変わりなく見えるのが違和感と言えば違和感であろうか。いくら若いとはいえ、いや若いからこそ普通は成長して容姿も大人びて然るべきだが。
「マイコ」
掠れた声で、老人が少女の名を呼ぶ。
「はい、マイマスター」
耳をそばだてても聞こえるかどうかさえ怪しいほどの小さな呟きを、彼女はしっかりと聞き分けていた。
「最期まで…………傍に、いてくれて…………」
途切れ途切れの掠れた呟きを、マイコは黙って聞いている。
「ありがとう、な」
やっとのことで言い終えた老人は、僅かに瞳だけで少女に笑みかける。もはや表情筋を動かす力さえも残っていないのだ。
「いいえ」
穏やかな笑みのまま、だがマイコは老人の末期の言葉を否定する。
「“マイコ”は、いつまでもお傍にいますからね」
彼女はそう言って、老人の枯れ果てた手をしっかりと両手で包んで握りこむ。
まるで言葉だけでなく、包んだその手からも確固たる意思を伝えるかのように。
「━━━━━━」
声にならない呟き、いやもはや吐息にしかならないが、老人の口から確かに漏れた。
すう、と瞼が落ち、だが落ちきらずに僅かに開いたままの眦から、一筋涙が零れ落ちた。
それっきり、老人は何の反応も示さなくなった。
「おやすみなさい、マイマスター」
穏やかな笑みを崩さないままに、“マイコ”は老人に語りかける。
もはや二度と応えがないことくらい、彼女にも分かっている。
「また逢う日まで、少しだけ、待っていて下さいね」
それでも、確かに彼女はそう言ったのだった。