第七十六話 時を守る黒き兎 その、本質
それは古いおとぎ話。
どこにも残されていない異界の物語。
暖かな世界しか知らない豊穣の神と。
冷たき世界しか知らない死の神の、出会いと別れの物語。
死の神は、豊穣の神の温もりを知る。
焦がれ、恋し、自らの在り方を捨ててしまいたいと願ってしまうほどに、生者の世界は暖かくて。
死の神は温もりを求め世界を渡る。
そしてそれが、創造神の逆鱗に触れる。
神は豊穣の神の命を奪い、死の世界へ堕とす。
死の神はそれを知らず、彼女を求めて生者の世界を彷徨う。
全てを知った時には、豊穣の神は存在すら忘れ去られるほどの時が過ぎていて。
死の神は、創造神へ反逆を企てる。
けれど創造神に傷一つ与えることすら出来なくて。
世界を渡る翼をもがれ、地に墜ちた。
神としての力を失い、死なない人間に堕とされて。
永遠の牢獄とも言える生者の世界で生きることしか出来なくて。
異なる世界を求めた者は引き裂かれる。
死の神を求めた豊穣神は命を奪われ、
豊穣神を求めた死の神は共に過ごす時を奪われた。
それが創造神の決めたルール。愛し合う二人は同じ世界に生きることを許されない。
だからせめて、彼は覚えることにした。
せめて、せめて、せめて。
俺が彼女を覚えていれば、彼女は俺の中で生きていられるから。
会いたい。会いたい。でも会えない。
会えないからこそ、忘れない。
俺が彼女を忘れた時こそ、彼女が本当に死んだ時だ。
長すぎる時間は記憶を摩耗させていく。
彼女の名前すらわからなくなるほどの長い時間。
けれど、愛しい彼女ということだけは必死に覚えていて。
暖かな彼女が、生者の世界で笑顔で言ったこと。
『あなたは、寂しくないの? 私は寂しいと死んじゃうウサギさんなの。だから、私が死なないように一緒にいて』
『さびしい。それはなんだ?』
『教えてあげる。だから、私と一緒にいよう?』
豊穣の神の言葉を頂いて、最後の一文字に彼女の愛おしさを宿す。
それ故に、時守。
それ故に、黒兎。
いつかきっと、隔てた世界から取り戻すと誓った愛しい神。
そして黒き死の神は、世界の真理に殺された。
………
……
…
それはもはや狂気の戦いだった。
無限に再生を続ける左の爪を、天獄帝オリオンの刀へぶつけ続ける。
いくらやっても刀には罅一つ入らない。なのに黒兎は無駄とわかっている筈のに爪を振るう。
痺れを切らしたのは、祈だ。
いつまでも終わらない戦いに業を煮やし、一旦距離を取って両の刀を振り上げる。
「終わりにしましょう。そんなぼろぼろで壊れたあなたを、私は見たくない!」
「壊れた? 壊れた。それはおかしい。俺は災厄だ。俺が壊れるわけがない。俺は、俺は、俺は」
「あなたの命を差し出して、私はお父さんに会います。だから、時守先輩……さようなら!」
刀にオリオンの力がより込められる。対する黒兎は無策のまま祈へ向かって突進する。
意識が混濁する。黒兎は現状を理解しきれていない。
右へ動こうとすると脚が動かない。左へ動こうとすると脚が動かない。
黒兎の意識が邪魔をする。雷帝の意識が邪魔をする。
圧倒的な力を得るはずの覇王君臨をコントロールしきれていない。
それは覇王君臨による弊害だ。本来の覇王君臨は帝王単体で行うものであり、二つの意志が混ざり合って使うモノではない。
かつて黒兎の身体を乗っ取った雷帝が覇王君臨をしなかった理由は二つある。
一つは上述した、黒兎の意識が混ざることにより肉体の操作が上手くいかないこと。
己に絶対の自信がある雷帝ですら、意識の融合には躊躇した。
もう一つは、単純に終焉の闇の力があれば覇王君臨に並ぶほどの力が扱えること。
黒兎と雷帝の思考は全く異なるもので、行動の一つ見ても合わないと断言出来るほどだ。
故に、一つとなる覇王君臨は二人にとって足を引っ張るものでしかない。
それでも溢れるエネルギーは絶大で、黒兎はそのおかげでかろうじて祈と戦うことが出来ている。
だからこそ今の状況は非常に不味いわけで。
勝つ為の手段として選んだ覇王君臨で、黒兎は敗北する。
それを一番不味いと思っているのは黒兎ではない。
ここでの『最悪』は、完全に無力化されオリオンの望みが叶えられてしまうことだ。
そうなれば水原祈は天獄の世界へ渡り、生と死の境界を踏み越えて願いを叶えてしまう。
それは避けなければならない。
生と死に隔てられた者は、交わってはならないのだから。
どうして?
どうして黒兎は忌避しているのか。
どうして黒兎は『それが出来ない』と断言するほどの知識を有しているのか。
それは、まるで。
体験してきたかのような。
"おい、時守黒兎"
内なる世界で、雷帝が問いかける。
少し焦った表情をしている。用意周到な彼からは想像出来ない表情だ。
"どうした"
"このままでは負ける。わかっているのだろう?"
"わかっている。けれど最悪は俺がオリオンに差し出されることだ。幸いなことに春秋が間に合ったので、俺が敗北しても問題はないだろう"
"問題が、ない? お前は本当に、終焉の闇の者か?"
"何が言いたい?"
"命の炎は、選ばれた存在にしか使えない力。ナノ・セリューヌは、制御出来る者にしか使えない力。終焉の闇は、違う。お前だ。お前しか使えない力だ。それが何を意味しているのか、考えたことはないのか?"
"……"
"お前は、選ばれたとかそういう枠組みではない。お前は、特殊だ。お前は"
雷帝の言葉は意味深で。その言葉の意味を考える。
言われてみれば、確かにそうだ。
そもそも力を求め、終焉の闇の力に覚醒した時、黒兎は自分ではない自分に出会った――ような感覚があった。
けれど、黒兎はそれを幻覚と割り切った。島を守る為にこの超越の力を使うのだと。
それがもしも、意味のあるものなら、その意味は。
"思い出せ、時守黒兎。思い出せ、お前はどうやってイザナミを隠していた世界に来た。思い出せ、思い出せ、思い出せ。ああ、癪に障る。負けたくないし春秋を殺したいからこうするしかないのが癪に障る。だが、これをすれば俺の意志が消えることくらいわかっているのに。ああ、ああ、ああ本当に。黄金の魔女が気に食わない"
だから、と雷帝が怒りを露わにする。
残された残滓にしては感情が豊かすぎる、と黒兎は皮肉めいて笑う。
"俺は雷帝。雷を司る帝王。そして生物とは電気信号によって意識を形成している。それは意識だけではなく、記憶もだ。だから"
――――お前に、全てを思い出させてやる。
雷帝の意識はそこで消失した。どうしてどうやって消失したかはわからない。
わかっているのは、雷帝がしたことによって、黒兎が次のステージへ上り詰めたこと。
いや、正確には上った訳ではない。
"帰ってきた"
オリオンの刀が迫る。足を止めた黒兎は避ける動作をしようともしない。
この一撃で決着が付くと祈が確信した。後は彼の首をオリオンに捧げるだけで願いが叶うと。
「お父さん、会えるよ。もうすぐ会える。だから、だから、謝らせて」
「――――気持ちはわかる。俺も、会えることなら彼女に会いたい。けれど会えはしない。それがこの世界のルールなのだから。オリオンですら出来ないルールによって隔てられた俺たちは、だからこそ、死を、守る、神である」
「え――――」
すぐに冷静な黒兎の声が聞こえてきて。力の入らない左の爪がオリオンの刀を受け止めて。
衝撃の余波が黒兎の全身に響く。甲殻の全てが砕けていく。再び左腕を失う黒兎だが、その口元は歪んでいた。
「成る程、そうか。成る程な。俺は『招かれていた』のか。ああ、そうか。そうか、納得した。このクソみたいな展開が盛り上がると思っていたのか? そうか、そうか、そうか。ならば突きつけてやろう。貴様が考えた展開が、どれほど下らないモノかを、な――――」
黒兎の身体が、ヒトの枠を越える。
それはヒトの姿をしていた。
ヒトの姿をした、ヒトではない存在。
ヒトの姿をした、ヒトという枠に収まらない存在。
背には空を舞う翼が添えられていた。
否。異なる。
彼は元より空を舞う。この翼こそ、彼が彼である証明。
かねてより、空は彼のモノだった。
死の世界を、生の世界を眺める為の翼。
降り立つことを許されない、世界と隔絶する為の翼。
彼は、ヒトではない。
彼は、ヒトを越えた。
違う。ヒトに堕とされていた。
取り戻した。記憶を。
取り戻した。過去を。
忘れていた過去を。かつての記憶を。かつての世界を。――――戦う理由を。
「水原祈よ。大切な者を思うお前の気持ちは尊重するべきだ。だが、俺が出来ないことを、貴様が出来ると思うなよ?」
幼い頃からずっと、自分が普通の人とは違うとわかっていた。
それも天賦の才という枠に収まらない。特別すぎて争いを呼ぶ可能性すらある。
だからこそ、自らを『天災』と言っていた。
その全ての理由だ。
時守黒兎は人間ではない。
この世界に生まれ落ちた時守黒兎は確かに人間なのかもしれない。
けれど、けれどけれどけれど!
時を守る黒き兎とは、死を司るが故に命に嫌われた神なのだ。
ヒトではない。神である。
「ああ、ようやく納得がいった。俺は最初から人間ではなかったのだな。シオンは違うようだが……まあ、■■者の思いつきだろうにああ下らない。だがいいだろう。その目論みも何もかも、全て俺が殺してやろう」
時守黒兎は空を飛ぶ。そして、その在り方を変容させる。
――――鳥だ。
人の身よりも遙かに大きい鳥だ。
猛禽のような鋭い爪を研ぎ澄ませ、闇よりもなお暗き黒の羽を羽ばたかせる。
その鳥の名は、フェベヌニクス。
不死と死、二つの特性を混ぜ合わせて生み出された特別な神鳥。
大空へ上がり、太陽を背に一直線に落下を始める。
「っ……オリオン!!!」
迫る神鳥を受け止める為に、祈はオリオンの刀を交差させて待ち構える。
けれど、違和感を覚える。
オリオンの力が先ほどよりも弱い。
身体の内から湧き上がってくる感情が、脆い。
『ああ、ああ、ああ。お帰りなさいませ、フェベヌニクス様』
天獄の帝王オリオンは、待っていた。
帝王すら超える最上位たる存在、神を。
死の世界に君臨すべき、絶対たる存在を。
神鳥が落下の加速度を合わせ急降下してくる。
死なぬ刀ならば問題ないと判断した祈は、真っ正面から黒兎――フェベヌニクスの一撃を受け止めた。
「死なないから、大丈夫だと思ったのか?」
「そん、な……」
オリオンの刀は、ものの見事に粉砕された。
破片の全てに黒い斑点が浮かび上がっている。
祈はすぐに刀を構成していた骸骨たちを操ろうとするが、反応は何一つとして返ってこない。
「死なないから、なんだ。死とはなんだ。死とは、俺が決める。俺が殺すのだから、必ず死ぬ。俺を誰だと思っている? ――――俺は、死を司る神であるぞ?」
人の姿へ舞い戻った神が、地に膝を突く祈を見下ろした。
その瞳に宿るは殺意。そこにはもう、仲間を思う感情は微塵も感じられない。
思わず、春秋は駆け出した。
黄金の炎を、死を司る神へ向けて。




