第二十八話 大地の帝王
敵わない相手に挑む。
それがどんなに無謀で蛮勇なことなのか、朝凪仁は深く理解していなかった。
仁の最も足りない経験値。
強敵と相対し、敵わない時――どうすれば、いいか。
シオンはまだ水帝スペルビアとの戦いを経験していた。無謀だった少女は自らの実力を見極める力を僅かでも手に入れていた。
けれど、仁は違う。
本気で、自分を殺そうとしてくる敵との経験値が圧倒的に足りない。
春秋と出会った日、春秋は確かに仁に対し殺意のこもった言葉を吐いた。
けれど、春秋に明確な殺意が無いことは相対したからこそわかっていた。
殺す気なら、とっくに殺している――それだけの実力差を突きつけられていた。
恐怖は感じた。でも、どこか楽観的に受け取ってしまっていた。
……仁のそんな感情に拍車をかけてしまったのは、他ならぬ水帝スペルビアとの戦いの日だった。
シオンと違い、仁はずっと水帝スペルビアが呼び寄せた水性の魔物たちと戦っていた。
勿論一体一体が強力な魔物であることに違いはないのだが、それでも倒せない相手ではなかった。
クルセイダースの仲間たちと協力し、多数対一の状況を作り続けた結果、被害を出さずに勝利することが出来た。
これまでの《侵略者》とは一線を画す魔物相手であるというのに、勝ててしまったから。
だからこそ仁は、シオンより危機感が薄かった。
その結果が、今の惨事に繋がってしまっている。
「……ぱい、先輩。生きてますか!?」
「……………………だい、じょうぶ、だ」
口だけである。とても大丈夫では無い。
軽傷のシオンとは裏腹に、仁は立ち上がれたのが不思議なくらい重傷だ。
地帝アケディアが大剣を振り下ろし、衝撃の余波で仁は吹き飛ばされた。
頭から壁に叩き付けられた挙げ句、全身を飛散した瓦礫が襲ってきた。
シオンは回避に成功出来ていたために、軽傷だ。
だが仁の状況は最悪だ。
頭部から出血し、全身には打撲と切り傷。骨が折れてないことだけが幸いとも言える状況で。
「ほう、生きているとは思わなかったぞ」
悠然と、地帝アケディアが大地を踏みしめる。
すでに海岸線は悲惨な状態だ。テトラポッドは砕け、堤防も半壊している。
そもそも仁が海岸線に隣接している家の壁にまで吹き飛ばされたのだ。
その威力がどれほどのものかは、仁が誰よりも痛感している。
――勝てない。
仁の胸中に広がる、明確な実力差。
――殺される。
思ってしまう、肌で感じてしまう、自らの“死”。
「先輩はもう逃げてください! あとはボクがなんとかしますから!」
シオンの悲痛な叫びが聞こえてくる。でも、仁は立ち塞がる。
「……俺は、負けない。絶対に、死なない。死んだら、春秋に、殺されちまうからな……」
「命は一つでしょうが!?」
「だから、だよ。死なない。死んでたまるか。お前だって、そうだろ。俺は、この島を、守るんだ…………」
すでに生気は感じられない。けれどその瞳には、確かな覚悟が込められている。
「その執念、見事。我が手を下すに値する戦士である。――故に、次の一撃で確かに貴様を屠ろう」
――――時間は、どれくらい経ったのだろうか?
春秋は十分保たせろ、と言っていた。
五分は経っただろうか?
わからない。時間を確認する暇も無い。
「じょう、とう……!」
「ああもう、先輩は馬鹿ですか!?」
「馬鹿で、いいんだよ。こ、の島を、まもれる、なら……っ」
一歩ずつ接近してくる地帝アケディアを迎え撃つように、仁は震える腕に鞭打ってラグナロクを掲げる。
全身の痛みが酷すぎて、構えることすら厳しい。
どう見ても戦える状態ではない。このまま戦いを続ければ、確実に死ぬ。
それがわかっていてもなお、仁はラグナロクを天に翳す。
「吠えろ、らぐなろく……っ!」
「っ……ああ本当にもう!」
仁が時間を稼ぐ気がないことを、シオンは理解してしまった。
いや、時間を稼げないと判断したのだ。
あれだけの質量が暴れれば、そもそも島が保たない。
十分耐える話ですらないのだ。
地帝アケディアに、致命傷を与える――それが、現状を打開し、島を守る唯一の方法だ。
「フェンリル、起動――!」
仁の判断を理解して、シオンも己がカムイを起動する。
このまま地帝アケディアを暴れさせるわけにはいかない。
これ以上の被害を防ぐために。島を、守るために。
「先輩はその一撃に集中してください。ボクがぎりぎりまでかく乱させますから!」
全身に魔力を漲らせ、大地を蹴る。
――春秋に言われたことが、ずっと尾を引いている。
今のスタイルが向いていないこと。才能を無駄遣いしていること。
それはつまり、自分にはもっと伸びる余地があるということで。
でも、それを今模索する訳にはいかない。
今は、自分に出来る精一杯をするしかない。
(……こんな時、兄さんがいてくれたら)
頭を過ぎるのは、大嫌いで、大好きな、大切な家族の後ろ姿。
ずっとずっと憧れて、でも比べられるのが嫌で、シオンの心をがんじがらめにしていた張本人。
でも、それでも、彼がいてくれたら――こんな苦しい状況も、どうにかしてくれるはずなのに。
それだけ、シオンの兄――――時守黒兎は、極めて優秀な存在だった。
性格に難があるものの、その実力は島中の誰もが敵わないほどと噂されるほどで。
(――余計なことを考えるな。今は先輩の一撃に賭ける。今のボクに出来ることは――)
巨大な敵との戦闘経験はほとんどない。どの一撃が有効かもわからない。
けれどシオンは大地を蹴る。誰よりも早く、壁を蹴り地面を蹴り縦横無尽に地帝アケディアへ攻め立てる。
それが有効であるかは、別なのだが。
「その程度で何をしたいのだ?」
上下左右四方からの連激。魔力によって形成された爪は、シオン独自の魔法のおかげで帝王たちの術式を乱し、ダメージを与えることが出来る。
地帝アケディアの身体を削っている。削れている。それなのに――どれもこれも、薄皮一枚傷つける程度の傷にもなっていない。
「貴様はつまらんな。もっと別の在り方があるであろうに」
地帝アケディアが腕を伸ばすと、シオンは呆気なく巨大な腕に捕まれてしまう。
単純な膂力の差。もがく暇も与えられぬまま、シオンは地面に向かって放り投げられた。
「っ、まだ――」
「遅い。遅すぎる。見て判断している時点で貴様は我に届かない」
素早く空中で体勢を整えようとしたシオンに、地帝アケディアは容赦なく追撃を浴びせる。
防御する暇も与えられぬまま、地帝アケディアの拳がシオンを捉えた――。
「――――」
ぐしゃり、と鈍重な響と共に地面に叩き付けられるシオン。
四肢は痙攣し、起き上がることもままならない。身体の何処に異常があるのかもわからないほどに、体中が悲鳴を上げている。
口をパクパクと開けるのだけで精一杯で、何を言葉にしたいのかもわからない。
「さて」
地帝アケディアの双眸が仁に向けられた。
既に死に体。放っておいても治療が間に合わなければ死ぬ状態。
けれど地帝アケディアは手を抜かない。
殺すと決めたから。だから殺す。障害にすらならなかった少年を、殺すと決めたという理由だけで排除する。
「最後の一撃を放とうとする、その意気や良し。だがその一撃すらも我には届かない。実力の差くらいは――いや、言葉にするだけ野暮であるか」
地帝アケディアが大剣を構える。四足を曲げ、大地を蹴り上げた。
巨大質量の突進。
当たるだけでも致命傷。避けるには巨大すぎる体躯。
たとえ避けたとしても、全力疾走の勢いが乗った大剣が構えている。
――死ぬ。
どう足掻いても死ぬ。朝凪仁は、ここで死ぬ。
けれど。
「……おれ、は」
「さらばだ少年。この島全ての同胞たちも、すぐに送ってやろう」
「こたえろ、らぐなろく――――」
残っていた全ての魔力は、ラグナロクに注ぎ込まれていた。
朝凪仁最大で最後の、決死の一撃。
どう足掻いても、帝王には届かない刃。
地帝アケディアはそれを理解しているから、仁の抵抗も何も考えずに突進の択を選んでいる。
事実、地帝アケディアの突進を止めることは仁には出来ない。
迫る。迫る。巨躯が迫る。
大地が揺れる。世界が揺れる。
関係なかった。もう意識も朧気で、視界もあやふやで、地帝アケディアがどこにいるのかもよくわからない。
だから後は、この剣を振り下ろすだけ。
力無く振り下ろされるラグナロク。
だがしかし。
――――風が吹いた。
何の風かはわからない。地帝アケディアが気付かぬほどの、柔らかなそよ風。
「な――――」
『地帝アケディアの巨躯が崩れる。』
『体躯は袈裟に両断され』
『覇王君臨は為す術も無く解除される』
『眼前にいるのはただの少年? 否』
『彼こそは、帝王である』
『七の帝王とは違う、人の極地に至った者』
『――――剣帝』
――――地帝アケディアの歩みが止まる。
崩れていない巨躯。
両断されていない体躯。
今もなお此処に在り続ける覇王君臨。
立ったまま意識を失っている仁。
生気も魔力もろくに感じない、およそ脅威とは何も思えない少年。
帝王に、いや、滅んだ世界の誰よりも弱い、ただの少年。
何が起きたか、地帝アケディアは一つも理解できなかった。
仁がラグナロクを振り下ろし、地帝アケディアは確かに自身が両断されるヴィジョンを見た。
だからこそ驚愕し、足を止めた。何が起きたかを理解するために。
けれど何も起きていない。起きていないからこそ、理解不能。
「何をした。何をした、少年ッ!!」
仁は答えない。答える余裕などありはしない。身体は限界で、意識もとっくに手放していて。
「答えろッ!!!」
大剣が振るわれる。剣の腹がそのまま仁に直撃し――受け身を取ることも叶わずに、仁の身体は地面に放り投げられる。
嫌な音がした。聞きたくない音が聞こえた。広がる血だまりは最悪を連想させてしまう。
「答えろ、答えろ、答えろ少年!」
地帝アケディアは混乱している。混乱したまま、仁へ詰め寄りもう一度問いただそうと歩み寄る。
風が吹いた。肌を撫でるそよ風。
肩の違和感に、地帝アケディアはようやく気付くことが出来た。
「な――――」
「――よう、アケディア。じゃあな、死ね」
――――――――春秋が肩を貫いていた。




