第二十二話 変化の享受
「お帰りなさい、春秋さん」
「……ああ」
当たり前のように、桜花が部屋にいた。
いや、眠っていた桜花を置いて出て行ったのだからいるのは当然なのだが。
当たり前のようにエプロンをして、朝食の用意をしていたようだ。
ふんわりと味噌の香りが漂ってくる。さすがに毎日のように用意されているだけあり、桜花の作るものを嗅ぎ分けるくらいは出来るようになってきた。
「体調は大丈夫ですか?」
「問題ない」
「よかったです。少しでも春秋さんの役に立てたのなら、そ、その……一緒に寝た、甲斐があります……~~~っ」
はにかむ桜花だが、すぐに顔を真っ赤にする。昨夜のことを思い出したのか、耳まで真っ赤だ。
春秋はそんな桜花を気にもせずに上着を脱ぎ捨てる。勿論シャワーを浴びるためだが、突然脱いだことに桜花は思わず固まってしまう。
「は、春秋さん!?」
「シャワーを浴びるだけだ」
「は、はい……」
春秋が脱いだシャツを拾い、抱える。浴室に春秋が入っていくと、桜花はそっとシャツを鼻元へ持ち上げるのであった。
当然だが、春秋がシャワーを終えた頃にはしっかり洗濯機に入れておいた。春秋が気付いたかどうかは、誰にもわからない。
「いただきます」
「……」
相も変わらず。
桜花の声にかぶせることなく、春秋は言葉も発さずに箸を手に取る。
代わり映えしない、和風の朝食。
味噌汁の具は星華島から少し離れた場所で取れたワカメと、豆腐屋渾身の出来の豆腐だ。
「……?」
ずず、と味噌汁を一口啜り、春秋が目を見開いた。そんな小さな変化を見逃さない桜花ではない。
ではない、が――桜花はあえて、言葉にしなかった。
春秋はきっと、それを指摘して欲しくないから。桜花は、なんとなくでも春秋のことがわかるから。
だから、当たり障りのない会話をする。
「今日は大橋くんの豆腐がおいしいですね。ワカメは小橋くんが取ってきてくれた中でも一番いいのを貰ってきました」
「そうか」
春秋はけっして料理の感想を口にしない。それは彼が未だに料理の味がわからないからだ。
桜花も薄々だが、春秋が食事を楽しんでいないことはわかっていた。
勿論、感想を求めているわけではなかった。でも、食事をしている表情を見れば、自然と味の善し悪しは見えてくるものだ。
普段の春秋は、まったく表情が変わらない。美味いも不味いも酸いも甘いも何も関係ないとばかりに、淡々と食事を摂っていた。
栄養の補給という認識でしかなかった。それは桜花も同じ見解で、それ以上は求めていなかった。
でも。
今の春秋は、明らかに食事に対して何かしらの良い感想を抱いている。
正確に言うのであれば、味を味として認識している。
美味い、と意識している。
「……」
けれど春秋は何も言わない。世辞も何も言わないことが、逆に褒め言葉になっていることに気付いていない。
そんな春秋に桜花は微笑みを向けている。いや、微笑みどころか満面の笑みだ。
(……味がする。濃いわけではない。……美味い、な)
春秋は、初めて食事に感動している。
自然と箸の速度は増し、あっという間に朝食を平らげる。
箸を置き、茶を啜り、思わず一息吐いた。
「お粗末様でした」
一度頭を下げてから、桜花は空になった食器を片付け始める。春秋は桜花の後ろ姿を眺めながら、自分の舌を指先でいじる。
味覚が変化した様子はない。異常が起きた感じもしない。
体調は良好だ。絶好調とまではいかないが、好調といって差し支えない。
時折、自分自身のことがわからなくなっているのかもしれない。不可思議な、不気味な感覚が身体を走る。
とはいえ、それが帝王との戦いに響くとは何一つ考えていない。何度でも言うが、体調は良好なのだ。以前よりも、ずっと。
だから戦いに負ける分けではないし、味が分かる程度の違和感は捨ててしまって構わない。
「後で本を返しにいくつもりだが」
「お伴させてください」
「好きにしろ」
「はい」
春秋のそっけない答えも、普段より刺々しさがない。桜花の提案もすんなりと通し、何か思うところがあるのか呆けている。
案外、春秋に起きている変化に桜花は気付いているのかもしれない。
だが、桜花は何も言わない。
桜花の真意はわからない。
けれど、今のこの空気が嫌ではない春秋であった。
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「おや。おやおやおや。また二人で来るとは思わなかったが」
「こんにちは、管理者さん」
「ようこそ桜花。それと春秋」
以前と同じように、管理者に促される形でテーブルに着席する。
「それじゃあ私は、また資料室に入らせてもらいます」
「好きにしたまえ」
向かい合う形で着席した春秋と管理者を見届けると、桜花は踵を返して資料室へと向かった。
資料室の扉が閉められる。途端に図書館の中は二人だけの世界となり、静寂が包み込む。
春秋はテーブルの上に、以前借りた三冊の本を置いた。
「なかなか面白い物だった」
「だろう。お前の好みから推察した私の知識も捨てたものではない」
「別の本はあるか?」
「いくらでも、な」
にやりと不適な笑みを浮かべる管理者だが、正直言って春秋はこの笑顔が好ましくない。
桜花にも言ったことだが、春秋は自分の行動を読まれることを酷く嫌がる。
桜花はまだ「春秋が何をしたいか」を先読みしているようだが、管理者の笑顔は全く違う。
「……お前と話していると、腹の底まで見透かされていそうで気にくわないな」
「おや。そう言って私の機嫌を損ねた場合を考慮しての発言か?」
「お前は俺の言葉にいちいち反応しない。そんな気がする」
「正解。だったら黙って私の好き勝手にさせるがいい」
管理者の笑顔は、桜花と違い――春秋の全てを見透かそうと、値踏みをしているような笑顔だ。
それが堪らなく不愉快で、思わず言葉が出てしまう。だが管理者はそれでも機嫌を損ねることなく、本棚から春秋に貸し出す本を選出していく。
身の丈は小学生女児と同じ、小柄で小さな管理者の背中。
だが春秋には、異様に大きく感じて見える。
ハッキリ言えば、春秋は管理者のことが苦手である。
嫌いと言っても過言ではない。
相性が悪い、とそんな簡単な言葉で表したくないほどに。
「それじゃあ今回はこの四冊でいくとしよう」
「そうか」
管理者が並べた四冊の本を纏めて重ねる。一度資料室の扉の方へ視線を向け、すぐに戻す。
春秋はそのまま一番上に重ねられた本を手に取って開いた。
「ほう。ここで読むのかね?」
「邪魔なら帰るが」
「いや、構わないよ。……お前のことだから、本を受け取ったらすぐに帰ると思ったのだがね」
「四ノ月がまだ出てきていないだろう」
「ほう」
どうやらその言葉は管理者にとっては少々予想外の言葉だったようで。
そして春秋自身は、その言葉になんの違和感も抱いていなかった。
「春秋よ。以前に話したことを覚えているかい?」
「なんだいきなり」
「まあまあ少しだけ雑談に興じてくれないか。以前お前は、“近くに誰かいるのであれば、人と人は自然と交流をする”――そう言っていたな?」
それは、管理者と出会った日に何回かされた質問の一つだ。
『孤独とは』
そう、管理者が提示した質問だ。
「そうだな」
「では、春秋よ。――――お前は今、孤独かい?」




