第百二十一話 自覚する呪い、秘めたる思い形にして
「はぁー、疲れた疲れた」
陽が落ちた頃に春秋は帰宅していた。
汗を吸ったシャツを脱ぎ捨て、乱雑に洗濯機に放り込む。
起動のスイッチを押して、設定を弄ることもせずスタートを押す。うなり声を上げて選択を開始する洗濯機を眺めながら、誰もいない真っ暗な部屋を一瞥する。
「桜花、いないなぁ」
桜花は、いない。なのに春秋は、まるで桜花がいるような口振りで呟いた。
分かっている。自覚している。けれど自覚していることを口にしたくないのだろう。
「……分かっている。そんな目で見るな」
春秋は誰もいないのに、まるで誰かに問いかけるように言葉を投げた。
投げられた言葉を受け取る人はいない。この家の中にいるのは春秋だけだ。
「お前はファントメアの世界にいたんだろう? あれもまた夢という形式にしていただけで、物語の管理者が思い付いた設定を利用していた。だからお前は、あの世界で敵として利用された」
ぶつぶつと春秋は過去を思い出しながら言葉を口にしていく。
誰もそこにいないのに。誰かいるかのように会話を続ける。
「どうやら俺は不完全な管理者になったようだ。……管理者を否定した俺が、不完全な管理者になる。最低最悪の展開だな。でも、だからこそ俺はお前の存在を意識出来た」
否。
春秋には『彼女』が見えていた。いないはずの少女が見えていた。
この場には誰もいない。誰かがいる。春秋にしか見えない少女がいる。
一月を経て春秋には変化が訪れていた。
それは、自覚出来るほどに自分の中身が変容していたこと。
桜花を求め焦がれる気持ちはそのままに、世界の真実を見ることが出来るようになっていた。
春秋は、自分が【物語の管理者】になっていることに気付いた。
それも、能力の大半を使用できない不完全な存在に。
「世界のルールを読むことも出来る。……はは、管理者は本当に、くだらねえことをしていたよ」
春秋の独白/会話は続いている。
「正直なところ、俺はもう全部が全部どうでもいい。桜花を取り戻す気力もなかった。……でも、違う。不完全な管理者になって、お前の存在に気付いて、そして、世界のルールに気付いたからこそ」
春秋の瞳から、光が消える。
「――――俺は桜花を取り戻せる。あいつの幸せを、叶えることが出来る」
春秋は、続ける。
返ってこない言葉を求めて。
いや、違う。
春秋は返事を求めていない。
ただ聞いてくれる人がいるから、宣言をしているだけなのだ。
「お前はどうする。お前にも望みがあるのなら、ついてこい」
そして春秋は新しいシャツを着て、暗くなってきた空を見上げる。
「世界の敵になる覚悟があるのなら、ついてこい。お前に命を与えてやる。名を与えてやる。俺は今日から、物語の枠を超えて世界に理不尽を強いる存在になる」
そして春秋は部屋を後にする。春秋が開けっぱなしにした扉がゆっくりと閉められた。
桜並木を歩く。
鬱陶しいほどの量の花びらが視界を埋め尽くす。
うっとうしいと手でかき分けて、春秋が辿り着いたのは永遠桜。
桜を見上げれば、忌々しい思いがこみ上げてくる。
桜の名を冠した恋人を失ったのだから当然だ。
愛する人は世界から消えたのに、どうしてこの桜は当たり前のように存在しているのか。
そもそも、この桜を守る為に戦っていたというのに――――あんまりな結果に、うんざりしている。
枯れない桜の永遠桜。世界中の魔力が交わる場所。
事実上、世界の中心点といっても過言ではないこの場所で。
「ハル!」
懐かしい声がした。懐かしい呼び名が聞こえてきた。それだけで春秋はわかる。
彼もまた、『過去』を取り戻したのだと。
推察する。彼がどうやって過去を取り戻したのか。
切っ掛けは。そして、彼に与えられた【役割】とは。
答えは簡単だ。そもそも、それ以外に彼が『過去』を取り戻すほどの事件なんて起きていない。
まるで最初から桜花が死ぬことが決められていたかのような設定に辟易する。
彼が『過去』を取り戻す切っ掛けは、『桜花の死』。
「……虫唾が走るな。まずはそれから消さないとな」
誰にも聞こえないくらいの声量で、小さく呟いた。
声を掛けてきた少年――――朝凪仁に背中を向けたまま、二人は今朝方ぶりの再会を果たす。
それが決別の始まりであるのは、明白だ。
今宵、春秋は世界の敵となる。




