第百十九話 【終わり】の日
何が起こったか、春秋は理解出来なかった。
春秋だけではない。
仁も、シオンも、唐突に訪れた目の前の光景に理解が追いついてこなかった。
桜花が、倒れた。春秋はすぐさま桜花を抱き起こして、そして戦慄する。
桜花の足が、崩れていた。黒い粒子となって、消えていく。
身体が、文字となっていく。
「……なんで」
「あはは……。もうちょっとだけ、時間、あると思ってたんですけど……」
「なんで、だ!? なんで桜花が、桜花が!!!」
「私がもう、【役目】を果たせなくなったからです。【役目】を果たせなかった人物は、物語に必要ないので……」
「必要ない!? 違うだろ、お前は、お前は俺にとって必要だっ。なんだよそんな馬鹿げた【役目】は!!!」
「私の【役目】は…………『春秋さんを物語の管理者』にすること、です」
「な…………」
ぎゅ、と桜花を強き抱き締める。
終わりを間近に控えた桜花は酷く軽い。もう、命を感じられないほどに、軽かった。
桜花が伸ばした手を、春秋は掴む。愛おしくて暖かったはずの温もりが、酷く冷たい。
「たぶん、ですが。管理者さんは……死にたかったんだと、思います。でも、全能である管理者さんでも【物語の管理者】というシステムを消し去ることは出来なくて、だから、あなたを、育てたんです」
桜花の言葉は推測でしかない。けれど原初からの記憶を持っている桜花は、物語の管理者の思惑に少なからず気付いていた。
永劫に存在し、永遠に物語を管理する存在――果たしてそれは、感情を持ち合わせた存在が成し遂げられることなのだろうか。
いくら無限の物語を読み解き、紡ぐことが出来るとはいえ。
終わりが存在しないことがどれほど虚無であるかは、物語の管理者本人にしかわからない。
それがどれほどの絶望か。それがどれほどの退屈か。
故に、物語の管理者は後継者を創り出すと決めたのだろう。
自身を殺し、物語の管理者という責務を継げる存在―――――物語に共感し、喜び、笑い、泣き、怒れる、そんな"英雄"を。
それが、春秋。
管理者に選ばれた――いや、管理者となるべく生み出された、主人公。
全能であるはずの物語の管理者を討ち果たした存在は、そのまま次代の【物語の管理者】となるはずだった。
けれどそれは出来なかった。春秋自身が、否定の刃で、【物語の管理者】という存在自体を否定したから。
それ故に、『春秋が管理者になる』という可能性が世界から消え失せた。
桜花の【役目】が果たせなくなったとは、そういうことだ。
「じゃあなんだ、俺が奴を否定したから? 否定したから桜花は消えるのか。俺が、俺の所為で――――」
「あなたの所為じゃありません。あなたの感情を、あなたの選択を私は尊重しています」
「桜花が死んだら意味がないだろう!?」
桜花は死の直前だというのに微笑みを向けている。
慈愛の眼差しは、どこまでも春秋を想っての表情だ。
死を恐れていない桜花を前に、たじろいでいるのは春秋だ。
「私は、幸せでした」
「ふざけるな、終わったみたいに言うな!」
「無限に続くと思った私たちの物語が、春秋さんの手で決着が付いたんですから」
「なんだよそれは! これからだろう!? 俺と、お前で、これから一緒に生きていくって、添い遂げるって彼方の過去に誓い合ったじゃないか!!!」
「後悔していません。私は、春秋さんが幸せならそれでいいんです」
「お前を失った俺が幸せになれる訳ないだろう!?」
桜花が崩れていく手で春秋の頬を撫でる。暖かさも何も感じない。手のひらの感触すら感じない。それはもう、この場に存在しないも同じで。
慌てて春秋は桜花の手を掴む。しかし伸ばした手は虚空を切った。
「春秋さん、幸せを見つけてください。私という呪いから解き放たれたあなたは、自由ですから」
「呪いじゃないだろ、愛だろうが! 俺にとって掛け替えのない存在はお前しかいないんだよ! だから―――」
崩れていく、崩れていく。四ノ月桜花が崩れていく。
桜花の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それが後悔の意志であることは明白だ。
春秋が指摘するよりも早く、桜花が最期の力を振り絞って言葉を紡ぐ。
「ああ、でも。一つだけ心残りがあるのなら。
どうせなら私は、『あなたを幸せにする』【役目】で生きたかった。
……あはは、そうしたら結ばれたその日で消えちゃいましたか」
「やめろ、やめろ。もう何も言わないでくれ。消えないでくれ、俺にはお前が必要なんだ。だから頼む、桜花、桜花ぁ……!」
縋る。プライドも何もかもかなぐり捨てて、春秋は大粒の涙を流す。
そこにはもう英雄の姿は無い。愛する人を失う、無力な少年しかいない。
「お前を救えるなら俺はなんだってやる。世界だって敵に回せる。どんな代価を支払ってでもいい、だから、だから」
乞う春秋に、桜花は微笑みを向けるだけだ。瞳からゆっくりと光が消失し、もう何も見えないのだろう。
消えていく、消えていく。四ノ月桜花という少女が消えていく。
せめてもの【役目】を果たして消えた奏や黒兎と違う、【役目】を果たせなかったペナルティによって。
そしてそれは、他ならぬ桜花が理解していた筈で。
「四ノ月桜花。お前は、分かっていたはずだ。春秋が否定の刃を使えば、こうなるって。お前なら止めれた筈だ。春秋に、別の方法で管理者を討たせることも出来た筈だ。なのに、どうして」
かろうじて意識を取り戻した昂も、事態に気付いて立ち上がった。
昂の言葉に桜花は応えない。恐らくだが、もう、耳も。
「っ……俺が間違えたからか? 俺が最初から星華島に協力して、管理者の脅威を、その特異性をしっかり春秋に教えておけば……春秋が、物語の管理者の力を欲するように仕向ければ、こうならなかったか?」
昂の言葉は贖罪に近いものだ。帝王たちの侵略が終わってから始まったこの戦いは、昂によって始まったものだ。
後悔の言葉しか溢れてこない。仁もシオンも言葉を失っている。
桜花を守る為の戦いを続けてきた筈なのに、最大の敵を倒したはずなのに、それでも桜花を失う結果に何も言葉が出てこない。
「春秋さん」
光を失い、音を失っている筈なのに。桜花は微笑みながら、しっかりと両の瞳で春秋を見つめる。
「"あなたの幸せを見つけてください"」
それはもう、失われる自分自身を切り捨てろと言っているのと同義だ。
嫌だ、という言葉は間に合わなかった。
崩れる、崩れる、崩れる。
消えて、消えて、消えて。
四ノ月桜花という少女は、文字となってこの世を去る。
それは人としての死ではなく、物語の登場人物の喪失という形の終わりで。
「……ぁ。おう、か。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ」
声にならない慟哭が、響いた。
少年少女を出迎えた永遠桜は、小さく、寂しく、揺れるだけ。
どこかでぱらりと、本が捲られる音がした。
天使の羽を持つ栗色の髪の少女が、愛おしそうに本を胸に抱き締める。
砕け崩壊した世界の中で、今にも消えゆく世界の中で、かろうじて生き伸びていた少女は『四ノ月桜花』と書かれた本を撫でる。
「お疲れ様、桜花。でも、ここからが始まりなのね? 管理者も、春秋も、世界も、何もかもを騙して成し遂げたあなたの偉業を、私は祝福するわ」
足場が崩壊する。
【物語の管理者】を失ったことにより崩壊した世界の中で、少女・アヤはその時が来たとばかりに手にした本を掲げた。
「ここからよ」
「ここから、始まるの」
「桜花の、いいえ」
「『私たち』がずっと求め続けてきた、春秋が幸せになる物語が」
そして、誰も気付かないところで。
泥のように濁った闇が、蠢いていた。




