第百十三話 想いを交えて
春秋と桜花、二人の足取りは重かった。
口にした言葉は全て無意味に消えてしまいそうで、何も形に出来なくて。
とりわけ春秋の表情は暗い。
模双神帝オリジンの言葉と素顔。
かつての自分。過去の記憶。ありとあらゆる『春秋』を経験している自分。
自分が記憶を取り戻せていない理由――それが予想外の理由とは思いもしなかった。
自分が、本物では無い。
過去を経て、桜花を取り戻そうとした自分では、ない。
ならば、今の自分は?
「…………っ」
考えただけで吐き気がこみ上げてくる。ずっとずっと、ずっとずっと桜花と言葉を交わして愛を交わしていたはずなのに。
桜花は知っているのか。いや、知らないわけがない。
桜花は【物語の管理者】と旧交があったのだから。
何を信じれば良いのか、わからなくなりそうで。
「春秋さん」
二人の家に戻ってすぐに、桜花が春秋を背中から抱き締めた。
やめてくれ、と言えなかった。言わなくてはならないはずなのに、言えなかった。
偽者の自分に愛を向けてどうするんだと、言えなくて。
偽者の自分を愛してどうするんだとも、言えなくて。
管理者の世界で、桜花の愛に応えられるだけの自信を身につけたはずなのに。
どうしてこうも人の想いは脆いのか。
「桜花、俺は……」
「私が愛しているのは、目の前のあなたです」
「……っ」
背中から聞こえる、真っ直ぐすぎる言葉。
でも、と口を開こうとして言葉を飲み込んだ。
今自分が吐こうとした言葉は、自分がこの世界で最も信じ愛している女性の言葉を否定するものだから。
それだけはしてはならないと、ぐっと堪えた。
「過去の記憶を持っていても、過去の絶望を知っていたとしても、私が愛しているのは……春秋さん、あなたなんです。模双神帝オリジンではない、あなたです。私が憧れ、私が信じて、私が愛している『春秋』さんは、あなたです」
抱き締める力が弱くなり、春秋は拘束をほどいて振り返った。
春秋を見つめる桜花の表情に、影はない。
心の底から、目の前の存在に愛情を向けてくれている。
「過去の記憶は、大切なものです。過去の絶望は、糧として否定するつもりもありません。ですが、違います。オリジンにはなくて、今のあなたしか持ち得ないものがあります。それは……あなたのそばに、私がいることです。私を守る為に剣を握り、私と生きることを選んでくれたあなたが……私にとってかけがえのない、春秋さんなんです」
「桜花。……桜花」
「だから春秋さん、自信を持ってください。あなたは、四ノ月春秋です。あなたが、この物語の主人公なんです。ハッピーエンドは、あなたでなければ到達出来ません」
そう言って桜花は春秋を優しく抱き締めようとして。春秋は堪らず桜花にキスをした。
桜花もすぐにキスを受け入れ、しがみつくように春秋を強く抱き締める。
お互いがお互いを貪るように求め合い、電灯に照らされた銀の滴が二人の間に橋を架ける。
「桜花、愛している。……俺が、愛してるんだ。この愛は、誰にも負けない……っ」
「はい、はい……っ。私も、私も愛しています。春秋さんを、あなたを、愛してます……!」
もっとと言わんばかりに抱き締める力を強くする。
相手の存在を確かめるように、感じる痛みがより実感を与えてくれる。
「必ず守る。オリジンからも、管理者からも。二人で最高のハッピーエンドを迎えよう」
不安はある。けれどもうそれが障害になることはない。
最愛の少女が、ひたむきな愛を向けて貰えるから。
誰にだって、負けるつもりは無い。
最後の日を、最後の日でなくするために。
「それはそれとして、今から押し倒して良いですか? 少しでも私からの愛情を疑った春秋さんにしっかりと教えたいんですが……」
その一方で、昏き管理の世界にて。
青年・オリジン――いや、『春秋』は苛々を隠しもせず管理者に敵意の視線を向けていた。
「おいおいどうした。お前が倒すべき相手はまだ私ではないだろう?」
「そうだ。そういう契約だ。だがお前と同じ空気を吸うこと自体が反吐が出る」
「おやおや嫌われているねえ。何百だが何千だか人生をメチャクチャにしただけじゃないか」
「お前は。……お前は、俺たちの人生をなんだと思っていやがる」
「退屈しのぎで暇つぶし」
咄嗟に剣を向けようとした『春秋』だが、それは契約によって不可能となっている。
『春秋』と【物語の管理者】が交わした契約。
"今回の物語を終わらせた時に限り、【物語の管理者】と戦うことが出来る。"
では『物語の終わり』とはどういう定義なのか。
【物語の管理者】はそれを【春秋の死】と定義している。他ならぬ主人公が死ぬのだから、物語が続くわけがないということで。
だからこそ、『春秋』の狙いは春秋だ。桜花を守りつつ、同時に【物語の管理者】を殺せるチャンスなのだから。
数え切れないほど繰り返された物語の中で遂に掴んだ千載一遇のチャンスを前に、『春秋』は一切の容赦を切り捨てる。
桜花さえいれば良い。桜花がいればそれでいい。桜花さえいれば、他のなにも要らないから。
「どうせ丸一日待機させるんだろ。お前を殺す算段を整えるから一人にさせろ」
「構わないよ、ゆっくりしておくれ」
そう言い残して、【物語の管理者】が姿を消した。
残された管理の世界で、『春秋』は存在しない空を見上げる。
「ようやくチャンスが巡ってきた。待っていてくれ、桜花。今の俺を殺して、お前を取り戻して、今度こそ絶対に――【物語の管理者】を否定する」
その瞳には、輝きは灯っていない。
そして、そして。
失った者と向き合う者。
篠茅昂は、月を眺めながら亡き親友に勝利を誓う。
時守シオンは、亡き兄に宣言するかのように満天の星空を見上げて。
残された者と向き合う者。
神薙ユリアは、病室で未だ眠り続けるインを見守る。
最後に残された同胞は、仲間たちの最期をどう思うのか。
最後に向けて抗うことを決意する者。
愛し愛され、春秋と桜花の気持ちはもう揺らぐことは無い。
輝かしい未来をその手に掴むために。
誰もが決意を口にする。
"これで、終わりだから"
各々が六日目を過ごしていく。
最後の平穏とばかりに、激動の五日間とはかけ離れた静かな日常を謳歌する。
そして、そして。
七日目が、訪れる。
「――――――――まあ、桜花だけはわかっているんじゃないか? 私の狙いも、真実も。桜花はなんだかんだ私の予想を超えてくれるからね。だから私がここで言葉にしておこう。
【七日目が終わりではない】と。
【七日目を経て始まるのだ】と。
――――ああ、楽しみだ。楽しみだよ春秋。お前は今度こそ、私の願いを叶えてくれるのか? はは、あはは。あははははははははははははははははははははははは」




