ビーガンって、タコの青い血を見ちゃったから
いつものバーでのはなし
そのお客さん、新顔だけど初めての人と話すのが商売でも多くて、ずっと喋りっぱなし。夜の仕込みのふりしたマスターが目配せしてきたんで、わたしが相槌うつ羽目になったんだけど。
ウーん、まァー・・・・わたくしですねぇ、これからお客様になってもらいたい方とお食事する機会が多くて、特に女性の方、これからキャリアアップを考えてらっしゃるまだまだ若い女性の方が多いんですけど・・・・いいえ、けっして鼻にかけてるわけじゃないんです。でも、自慢に聞こえますか。こうしたお洒落な空間でお酒をいただくなら少しでも綺麗な話の方が楽しいじゃないですか。
そうした類いのアラサーの女ってビーガン、多いんですよ。10人にひとりなんてもんじゃない。5人にひとりは出くわしますね。えー、わざわざ聞き出さなくたって匂いで分かりますもの。ちゃんとそうしたメニューをチョイス出来るお店を予めリサーチして、お連れする。「せっかくお誘いくださっても、わたくし、いただけるものがなくって」なんて逃げ口上あたえたりしませんよ。少しでも「ソうだって気づいてくれたのォ」のはにかんだ笑顔を見つけられたら、こっちのもの。はなしはコロコロ転がり、次にお逢いするときには、お客様になっていただいてます。
「ソうだって」方って、やっぱり自分を聞いてもらいたいんですよ。わたくしがビーガンになったいきさつ。気高く、ストイックに、ピュアな身体と心を手に入れるまでのサクセスストーリーを何回も練習して待っていますから。
要約すると、たいがいはダイエットってフレーズが散りばめられた陳腐な話が9割なんですが、それでもとっておきの、このバーのお洒落な雰囲気にぴったりの経緯もありまして・・・・・・
ー 痛いっ。
今日これで三度目。また下唇のウラ嚙んじゃった。今朝嚙んだ時にできた傷、丸い疱瘡みたいに白く膨らんでたけど、きっと、破って血が出たんだろうなぁ、あー、シょっぱい味が口の中いっぱいに染みてきた。完全に真っ赤になってる。口のなか生理みたいになって気持ちわるぅ。
たまにあるのよね。こんなのがクセになっちゃうときって、凸凹した下唇のウラをヒリヒリしながら嘗めちゃうクセも付いちゃって。いい加減なれちゃうと、その時分には止まってる。高校生からだけど、ここ最近は毎シーズンやってくる。
とくに冬。
お茶だってコーヒーだって、外は寒くて、手はかじかんで、それでも湯気の立った熱々なの飲めないじゃないの。そういうキャラじゃないのに「猫舌だったんだ」って聞かれたら、何をふん投げて返せばいいワケ。大好きなリブステーキだってチーズ入りハンバーグだって、ナイフを入れたすぐのものなんか怖くて口に入れられないよ。
それで、しばらくお肉食べなかった。美味しくないから。しばらくって1週間かと思っていたら1か月たっても食べたくなくて、そのころはもう下唇を嚙むクセ直ってたし、傷も疱瘡もヒリヒリしなくなっていたのに。メニューみてもお肉の並び素どおりしちゃう。本物でなくても、写真だけでも。ううん、あたまの中で肉汁が零れる嚙み切る音が聞こえたら、もういけない。ブルブル、ぶるぶる。
きれいに塞がった下唇のウラ。ぷっくり茹だった薄皮のソーセージ。また切れて、破裂しちゃう。
ー ひょっとしたら、あたし、食べたくなくなったの、おにく。嫌いになっちゃったの、おにく
そうじゃないかなって薄々気づいていたのに分かっていたのに、一気にそのフレーズを読み下す勇気でなかった。
ー 泣きたくなっちゃった
わたしの身体、わたしのものでないみたい。三十路の女がバージン無くしたときみたいな鳴き声で戦慄いちゃった。
それからなの。わたしがお肉食べれなくなったの。お肉もお魚も、血でつながった同じ生き物を食べてるつながる感じが見えてきて、つながる感じが伝わってきて、タコみたいにわたしがわたしの身体を食べてる感じがしてきた。
タコって青い血なの、知ってる。冷たい海の中でブルーハワイみたいに青いシュワシュワする血が溶けだしてるの、想像してみて。青い血だから全然いたくないの。全身麻酔したみたい。だからどんどん瘦せて小さくなっていく。食べたり食べられたりを続けていたら、もう顔の半分しか残ってない。もう下唇のウラ嚙んじゃうしか出来ない。それでもお腹は空いたまま。だって首から下はカラっぽなんだもん。
ー ふーん、ソれってビーガンっていうんだ。そんな言い方はじめて聞いた。えっ、ハリウッドセレブとか意識高い系女子がやってることなの。みんなわたしみたいに下唇のウラ嚙んじゃったから始めたのかな。あーゆーひとたち、ストレス半端ないでしょ。きっと、わたしなんか想像もつかないイロイロ得体の知れない憑きものいっぱいくっ付けてる気がするもん。
ふたりの真ん中のシーザーサラダに先ほどまで行儀よく収まっていたタコが、皿から腕を伸ばして、這い出して、何万マイルも離れたかつての棲家だった深海から「おいで、おいで」してくる。茹でるまえだからってそんなに青いはずないくらいに、そいつはブルーハワイ色したペイントで顔を塗りたくってる。
ぬたり ぬたり ぬたぬたり
何もかも嫌になって、満足にお肉を嚙みちぎることが出来ないくらい疲労困憊の顔が、鏡にひとつぶら下がって。挙句の果てが、己れの肉と他人の肉の区別も出来ない血まみれだらけの口の中。コロコロうがいも面倒と地上の生活に疲れて深海まで出張ってみたまではいいけれど、骨は抜け血の色まで変えられて、こんな姿になっちゃうなんて。
ー あんた、いったい、何に化けたの
あーあー、マスターまで黒板メニューからローストビーフ丼、消しちゃって。わたしもさっきまで迷ってたけど、食べなくてほんと良かった。お腹の中に入ってるの考えたら、バーボンウイスキーのロック二杯目でトイレに駆け込む羽目になったじゃないの。
あー、憎たらしい。喋るだけ喋って、「それじゃ、お先に」なんて、さっさと引き上げて。こんなグログロ噺耳に焼き付けたら、もうお肉なんて食べられないじゃない。わたしもマスターも毛細血管の隅々までブルーハワイ色したシュワシュワの血にすげ替えられて、お肉なんて金輪際、血の通った食べ物なんて金輪際、口に出来ないしたくないトラップにまんまと引っ掛かっちゃった。
さっきまで意識しなかった下唇のウラ、べろが疱瘡でまん丸になった水ぶくれ感じてる。ほらほら、マスターだってマスクで隠そうとしたってダメよ。ベロの先で下唇のウラを突っついてるの見逃さないんだから。ふたりともまんまと堕ちちゃったわね。
きっとビーガンなんてダイエットのなれの果てでも崇高な意識でもなくて、ほかに楽しみがなくなって暇ばかりたっぷり貯めこんだおじさん達の秘密結社なのよ。
でも、なんで、わたし、急に女ことばに変わったワケ。これも陰謀。