縺れた血、繋がった縁(えにし)
ハァハァ~ッハッ!足がもつれて転びそうになるのを堪えてスピードが落ちる。ダメ!もっと早く!早くしないと追いつけない!気持ちだけが焦る。だが何故・・・浮かんだ疑問を振り払い走る。心臓が警鐘を鳴らす様に早まり呼吸もままならない。苦しくて景色が滲む。
あぁここはあの店の前だ、そしてあの人は私を見ているのだろう、醜く歪んで、もがき苦しんでいる私を・・・そこまで考えた時に気づく。これは夢だ。気づいても足は止まらない。いや止める事ができない。もうこれ以上走れないと思った時、前を行く白い毛玉の様な生き物が突然止まって振り向き、私に向かって怯えたように鳴いた。待って!そこにじっとしていて!言葉にならない喘ぎだけが闇にとける。もう少し!この前よりも近づけた気がして手を延ばす。が、掴かんだと思った瞬間、目の前で毛玉が散り散りに舞う。そして、私の全身に冷たい血の雨が降り注いだ。
◇
「はっ・・・」
飛び起きて、冷や汗にまみれた身体を掻き抱いて現実を確認する。呆けた様な顔が映りこんだ時計の針はまだ夜明け前を指している。
もう何度見た夢だろう、何故いつも同じ後味の悪い夢なのか。わけの分からない不安が気持ちをざらつかせ私を苛立たせる。ふらつきながら立ち上がりベタつく身体をシャワーで流し、湿ったシーツを剥がして洗濯を始める。
「・・・ったくもう、今、何時だと思ってるんだよ」
高い位置から寝起きの声が落ちてきた。振り返って見上げた私に不機嫌な視線が刺さる。無視して部屋に戻ると刺さったままの視線もついてくる。
「またあの夢を見たのか?」
「・・・・」
「はぁ・・・」
深いため息。
「気持ちは分かるけど、もうちょっと時間を考えてくれ」
それだけ言うと自分の部屋に帰っていく。
分かるわけ無い、私の気持ちなんて。自分でも持て余してるのに、兄に分かるわけが・・・。洗濯機の音を聞きながら明け始めた空を見つめた。
◇
「おい、ご飯だぞ」
ドアの向こうから声がした。あぁ寝てしまったのかと時計を確認するとまだ朝の7時だった。リビングに向かうと干し忘れていたシーツがベランダで揺れていた。
「洗濯物・・・」
かすれ気味の声を絞り出す様に言う。
「あのさ、干さないならあんな時間に洗う意味ないだろ」
「でも気持ち悪かったんだもん」
「・・・・朝から洗濯干してご飯作ってって、俺は主夫かよ、今日だって朝飯は眞希の当番だろう」
「あっ、ごめん・・・でも私、朝、食べないし・・・」
作りたくないと言う前に睨まれる。
「食べる、食べないの問題じゃ無いよ、当番制だろ、責任もって」
「・・・」
毎度の事だ。時間が不規則な仕事の私に規則正しい生活なんて無理なのに・・・。
私、井岡 眞希 27才 フリーのメイクアップアーティストとして依頼を受けて仕事をしている。依頼は昼間だけに限らず朝早かったり深夜だったり、日によってバラバラだ。なのに兄は生活リズムを崩すなと家事の当番制を決めた。さっさと結婚して離れてくれたら良いのにと日々願っているがその気配はまるで無い。
兄 井岡 律 31才 グラフィックデザインの事務所を友人と立ち上げて代表なんかを務めてたりする。2人だけで暮らしているせいか何かと私の事に干渉してくる。そして今はご飯を食べないで珈琲を入れている私を睨んでいる。
「なに?」
「胃を悪くするよ」
「食欲無い」
「・・・全く同じ夢なのか?」
「・・・」
「やっぱりどこかで調べて貰ったら?」
「だから、どこかってどこ」
「心療内科とか・・・占いとか・・・」
占い???兄の口から聞くとは思わなかった。鼻で笑う私を更に睨むように続ける。
「心配してるんだよ、ここ半年位ずっと同じ夢に怯えてるじゃないか」
ぞわりと何かが内側に芽生える。それに気付かない兄。
「何かその・・・原因がある筈だろ」
と探るように見る。内に沸き立つ、どう扱ったら良いのか分らない気持ち。どうしたら良いのかなんて、自分でも分らない、何が原因なのかなんてもっと分らない。
本当に突然だった。突然に走り出し、守らなければいけない物を追いかけて、そして守りきれず、目の前で命潰える。叫び出す事も許されず、心臓は軋み、浴びた命は冷や汗に取って代わられる。守らなければいけないあの子の命なのに、目が覚めれば洗い流さずにはいられない。
「眞希、不安なら一緒に検査でもなんでも行ってやるから」
私は持て余した気持ちをそのままぶつける。
「いいよ!もうほっといて!」
こんな会話がここ半年の間に何度も繰り返されている。視線を避けるように立ち上がり部屋へと向かう。いつもならここで終わりだ。今日も終わりのはずだった。だが、兄にも譲れない気持ちが残っていたのか部屋までついてくる。
「何よ」
「・・・」
言葉を探すが出てこない、そんな兄を疎ましく見やって、絶対言ってはならない言葉を吐き出す。
「血の繋がりもないのに何故そこまで私にかまうの?もうほっといて」
その場の空気が冷える。何かを言おうとしていた兄の口が、目が、開いたまま固まり、そして風にはためくシーツへと流れる。
「・・・午後は雨になるらしいから昼前には取りんで置いた方が良いよ」
そして私の頭をぽんと叩くとリビングに引き返して行った。
◇
私達はそれぞれの、親の連れ子で再婚で繋がった義理兄妹だった。
3才の春、突然お父さんとお兄ちゃんだと紹介されたが、母子家庭でひとりっ子の私には、とても、とても嬉しい出来事だった。小学2年生の兄は同級生の誰よりも背が高くてカッコよく、小さい頃から剣道を習っていたからか礼儀正しく、そして強かった。
親の再婚を兄はどう思っていたのだろう。生意気な、突然現れた小さい妹をどう思っていたのだろう・・・。とにかく自慢の兄だった。どこにでも連れて行き見せびらかした。私に何かあればすぐに駆けつけて来てくれた。
幸せだった。ずっとずっと・・・。家族となって10年目の春、長く続くはずの幸せが突然に終わりを告げる。
私は中学生になり最初のオリエンテーション合宿で家には居なかった。新しいクラスメイトと寝食を共にしながら学校のルールを学び親睦を深め合って、これからの中学校生活が有意義でキラキラとした日々になれば良いなと思いながら合宿初日を終えていた。夜、眠っていた部屋に先生が入ってきたのは消灯時間を1時間ばかり過ぎた頃だった。
「井岡さん」
震える声で突然名前を呼ばれ何事かと目を覚ます。
「井岡さん、寝ていたところごめんなさいね。でも、これからあなたを家に送って行く事になったので荷物をまとめてください」
意味が解らずボーっとしている私を軽く揺すり、もう1度先生が荷物をまとめてと言った。まだ眠っていなかった子も居たのだろう。私よりも先に先生に
「どうしたんですか」
と聞いていた。
◇
先生2人に付き添われ乗せられた車の中で家族が事件に巻き込まれたと告げられた。事件ってなに?ピンと来こなかった。眠くてボーっとしていたからか、あまり深く考えられなかったが、兄は無事かと聞くと先生方は目配せをしながら大丈夫ですと言った。なんだ、ならわざわざ家に帰る必要なんか無いのにと私は思っていた。
この時の私は自分の親が死んで自分の前から居なくなるなんて思いもしなかったのだ。せっかく楽しんでいたオリエンテーションを途中で抜ける事になってしまって、残念で仕方無い気持ちの方がずっと強かった。家に帰ったら父と母にうんと文句を言ってやろうと思っていた。
◇
意に反して連れて来られたのは病院だった。夜の病院なのになんだか騒がしい。先生達が私の両脇を挟んで守るように立ち、それに気がついて近づいてきた男の人にお辞儀をした。
「井岡 眞希さん?」
「・・・はい」
するとその男の人は近くに来ていた女の人を手招きして私を引き渡す。そして先生方に向かって
「御苦労様です。井岡さんにはどこまで伝わってますか?」
と聞いた。担任の小山先生が
「まだ何も・・・・」
と消えてしまいそうな声で答える。
そのあと私の傍にいた女の人(刑事だった)がゆっくり私の様子を見ながら事件の内容を話し出した。あの時のその後の事はあまり記憶にない。父と母が何者かに殺された事、兄は頭と腕に怪我をしたが命に別状はない事、犯人はまだ見つかっておらず警察が全力を挙げて捜査している事等々。父と母が殺された?理解出来ない!何?何故?気がついたら私は悲鳴を上げていた。何も聞きたくなかった。耳を塞ぎ身体を丸めて悲鳴を上げ続ける。父と母はどこに居るの?兄は?
「お兄ちゃん?」
「お兄ちゃん!」
「お兄ちゃーん!」
兄は来なかった。いつでもどんな時でも私の側に駆け付けてくれたのに。悲し過ぎて、叫び過ぎ、重すぎる現実に心がついていけず、そのまま暗闇へと吸い込まれる様に意識を失った。
翌日目覚めた時、ベットの側の壁にもたれて眠る兄を見た。頭に包帯を巻き顔にも小さなキズがいくつか、そして右手は固定されていた。昨日の事は夢ではなかったのだとその痛々しい姿を見て納得する。涙が溢れて声が漏れるが力が入らず身体を動かす事が出来なかった。私の声に反応したのか、兄の肩がビクッと跳ね、体を動かそうとして痛みに顔を歪めた。痛みを逃がしながらゆっくりと私を見つめる兄と目が合った。そこには真っ赤に泣き腫らした私の知らない目があった。恐れ、悲しみ、憎しみ、そして不安、全てが混じり合い暗い影を落としている。自信と誇りを持って私に向けられていた力強い眼差しは過去の物となっていた。それでも、私を見て少しほっとしているのがわかる。
「お兄ちゃん・・・」
それ以上は言葉にならなかった。私の傍に寄ろうとして動いた体が止まり、視線が床に落ちると
「・・・ごめん」
と消え入りそうな声がした。なんで?なんで謝るの?犯人に立ち向かって行ったって昨日の刑事さんが言ってた。殺されなくて運が良かったって。
「悪いのは犯人なのになんでお兄ちゃんが謝るの?謝ったりしないで!」
行き場のない気持ちを思い切り兄にぶつける。ひどい事を言っていると分かってる。怒りを向ける先が間違ってるって分かってるのに、抑えようの無い気持ちを口に出して必死に自分の心だけを守ろうとしていた。私以上に傷付いている兄を思いやる事も出来ないくらい、私はまだ子供だった。兄は俯き、その肩は小刻みに震えていた。
私の声を聞きつけて看護師や先生が病室にやって来て、兄を見付けると慌てて連れて出ていった。そこでまた私はパニックになる。
「ダメ!連れていかないで、お兄ちゃんを連れていかないで!嫌だ、1人にしないで!」
私の声を聞いた兄が看護師の手を振り払って戻ってきた。
「眞希」
「お兄ちゃん」
私をぎゅっと抱きしめて泣いていた。
「ごめん、オレ、父さんも母さんも守れなかった」
何も言えずただ兄の腕の中で否定するように頭を振っていた。兄のせいじゃないと本当は言ってあげたかった。兄が生きててくれて良かったって言いたかった。それからひとしきり2人で泣いた後、検査があるからと諭されて、兄は看護師と部屋を出ていった。
その夜、兄と2人部屋にしてくれる様に看護師に伝えたが、怪我のせいか熱が出てしまったので無理だと言われてまた泣きわめき、病院側は仕方なく鎮静剤を使って私を眠らせた。そんな日が何日か続くと、私は全てを諦めて泣かなくなった。
兄の高熱は10日も続き、動けるようになった頃には親族によって葬儀も済んでいた。私達は両親の最期の姿を見ることもお別れを言う事も出来なかった。
◇
私達の両親の事件は世間の好奇の目に晒され、犯人が見つからない事もあって、ある事ない事取り沙汰され毎日ワイドショーを賑わせたがそれも何年かすると世間の記憶から抹殺された。事件のあった家には帰れず、私と兄は親の残してくれたお金でマンションを借りて2人だけで生活を始めた。親族からは心配の声も上がったが、私も兄もそれを無視した。中学生だった私は不登校となり最終的には通信で高校卒業資格を取った。今の仕事は15、6才から自己流で始めてアーティストと認めて貰うまでに10年かかった。兄はグラフィックデザインの専門学校を出て何年かお勤めした後、専門学校仲間と事務所を立ち上げた。両親が殺されてからもう15年、犯人はまだ見つかっていない。
◇
ひどい言葉を兄にぶつけた夜、反省の意味を込めて兄の好きなメニューで夕飯を作る。が、その日、日付が変わっても兄は帰って来なかった。仕事が忙しい時は事務所に泊まる事もあったがそんな時はきちんと連絡をくれる。黙って帰って来ないなんて今までなかった。それほど、それほど私の放った言葉は兄を傷付けたという事だろう。
ベットの上で落ち着かなく起きたり横になったりしていたが、兄だっていい大人なんだから心配する必要は無いと自分を納得させる。でも何かあったらと、そこまで考えた時に突然パニックに襲われる。父と母の事件を思い出す。
事件現場も、父と母の最期の姿も見ていない私は表立った喪失感は強くなく、どこか他人事のように過ごしていたが、本当の深い所ではドロドロとした闇がいつでも私を飲み込もうと口を開けていた。
子供に返ってしまったように立ち上がって家中をウロウロ歩き回り、泣きながら兄を呼ぶ。爪を噛みイライラと帰らない兄へ悪態をつき、作った料理をゴミ箱に捨てた。また涙を流しながら兄を探してウロウロする。そんな事を繰り返して、気がついたらソファに身体を丸めて倒れ込んでいた。そしてまたあの嫌な夢を見た。
◇
何から何まで同じ。呼吸が乱れ心臓が口から飛び出しそうなほど苦しい。走っても走っても追いつかない、私の守るべきもの。あの店の前であの人を意識したところでまた夢だと気付く。気付いても終わらないつらい夢。あの白い毛玉が止まって私を見る。もうすぐ手が届くと思った瞬間いつもと違う事に気が付く。あの子の目はいつものそれと違う。怯えて縋る様な目では無い。赤く泣き腫らして自信を無くし暗く沈んだ目。あの日の兄の目だった。驚いて伸ばしかけた手を止めた瞬間、毛玉は散り散りになり私の全身に冷たい血の雨を降らせる。耳障りな音に鼓膜が震え、目が覚めると本当に悲鳴をあげていた。ガタガタと震えが止まらない。今日の夢はなんだ・・・私が追いかけていたのはなんだ・・・。あの目は・・・兄に何かあったらと、そう思うともうどうしたらいいのか分からない。あまり使わない携帯を手に取り兄にかける。ツーコールで声が聞こえる。
「もしもし・・・」
知らない女の声がした。慌てて電話を切る。女の人と一緒なんだと理解するまで少し時間がかかった。兄の携帯なのに、私のかけた電話に出るほど親しい女の人が居るのかと思うとなんだか変な気持ちになって携帯をソファに投げつける。
何をしているんだろう私。いい歳して、ちっとも成長していない。兄に甘えて、不満をぶつけて傷付けて、それでも自分の側に居て守って貰えると思っていた。自分だけのものだと思っていたのに違うと気付かされる。兄には彼女がいる・・・。そう考えただけで今まで感じた事の無い孤独に襲われて胸の奥が苦しい。さっきまでの不安が更に高まって呼吸が乱れる。私は何も考えられず、ドロドロの暗闇に足下をすくわれて深く沈んだ。
◇
どの位の時間が過ぎたのか気が付くと携帯に兄からの着信のマークが何件も着いている。どうしよう・・・かけ直すべきだろうかと思った時ガチャリとドアが開く。驚いて玄関に向かうと汗だくになった兄がそこにいた。
「なっ、なんで」
「どうして電話に出ないんだ」
2人の声が重なる。
「何かあったのか!」
肩を掴んだ手が痛い。
「痛いよ」
顔を顰めて言うと慌てて手を放す。
「・・・何かあったのか」
「帰って来ないから」
上目遣いに言うと、ぐっと固まるが直ぐに
「はあぁぁ」
と息を吐いてソファにドッかと座り込む。
「酒飲んでるのに全速力って、俺、死ぬぞ」
まだ乱れる呼吸を整えながら苦笑う。慌てて水を持って来て手渡す。受け取ってイッキに飲み干し、また、はぁーっと息を吐く。
「驚いた、眞希から電話なんて滅多にないから・・・」
「・・・デートの邪魔して悪かったわね」
そう言うと、兄は顔を顰めて
「デートなんかじゃない」
と言う。
「無理しなくて良いよ!ずっと女の気配無いと思ってたから驚いたけど安心した」
と作り笑顔でコップを持って台所に向かう。
「違うって言ってるだろ」
兄の語気が強まり驚いて振り向く。2人の間に朝の空気が戻ってくるのを感じる。
「ごめんなさい、もう寝るね」
そう言って部屋に行こうとした私の手首を兄が掴む。驚いた私は振り向いて硬直する。そこには今まで見た事のない目をした兄がいた。睨まれている訳では無いのになんだか怖かった。
「・・・俺が怖いか?」
私の表情を読み取ってつらそうな声が聞こえる。私は言葉に出来ず首を振った。
「・・・俺は・・・」
兄はそれ以上言葉を探し出す事が出来ずに掴んだ私の手首を離した。
「おやすみ」
「・・・おやすみなさい」
ソファに深く沈み込む姿を見ないように部屋の戸を閉めた。
次の日、早朝から仕事だった私はなるべく音を立てないように支度をして家を出た。
◇
今日の仕事は、屋外でのポスター撮影用のメイクアップだった。渋谷ハチ公前にスタッフとモデルが集合し現地へ向かう。
「井岡さん、おはようございます。今日はよろしくお願いします」
広告代理店の阿部がマイクロバスの乗り口にスタンバって挨拶してくれた。
「おはようございます。またお仕事に呼んでいただけて光栄です。よろしくお願いします」
と笑顔で挨拶をする。早朝からのロケということで朝食のお茶とおにぎりが配られる。
「井岡さん、おかず、唐揚げと卵焼きどっちが良いですか?」
と阿部に聞かれ、朝は食べたくないのにと思いながらも断れず卵焼きのパックを受け取る。時間になり全員乗り込んだのを確認して出発する。現地までは2時間の長旅だ。窓の外を眺めながら少し寝ようかと思っていると隣の空いてる席に阿部が座って話しかけてきた。
「井岡さんってフリーランスなんですよね。若いのに凄いですよね。美人だし!あっ、もちろんメイクの腕が良いからだけど!」
取って付けたようなお世辞だが褒められて悪い気はしない。
「ありがとうございます」
とだけ伝える。
「今日のポスター撮影は、僕の責任で動いてるんですよ。メイクを誰に頼むかってなった時、真っ先に井岡さんにって思って猛プッシュしたんですよ」
あ~阿部さんってこのタイプだったかぁ・・・と思いながら
「本当ですか?嬉しいです、ありがとうございます。精一杯頑張りますね」
と張り付いた笑顔で返す。
10年もこの仕事をしているとクライアントのタイプも段々分かってくる。女1人で仕事をやっていくためには、上手く立ち回らなければならない。媚びて見えないよう注意しながら相手方を立て、次の仕事に繋げて行かなければフリーの仕事は続いていかない。阿部との仕事は今回で2度目だが、あからさまに僕のお陰と言ってくる人は要注意だ。関わり方に気を付けないと、と思っていると後部座席から
「眞希ちゃん、おはよう」
と声をかけてくれる人がいる。振り向くとスタイリストの北野だった。
「うわぁ~北野さん!おはようございます。嬉しい、またご一緒出来るなんて」
と心からの言葉を伝える。
スタイリストの北野優子は 33才。彼女もフリーランスで仕事をこなす先輩で、現場が一緒になると色々アドバイスをくれる優しいお姉さんだ。
「眞希ちゃん、早速で悪いんだけど、今日の衣装とメイクの打ち合わせさせてもらってもいい?」
とさり気なく助け舟を出してくれた。
「はい、ではうしろに行きますね」
と私も話に乗っかって、阿部にすみませんと頭を下げてどいてもらう。阿部は軽く北野を睨む素振りを見せると私に向き直り
「じゃあまた後でね」
とわざわざ耳元に囁くように言って他の席へと移って行った。気持ち悪くて鳥肌が立つ。北野の隣に座ると案の定、阿部には気をつけるように言われる。既婚者の癖に仕事に託けて女の子を口説いて回っているらしく、あまりいい噂は聞かないと教えられた。が、中堅の広告代理店から指名されるようになると仕事の数もグンと増えるので我慢している人も中にはいるらしい。
まだまだ私のメイクの腕だけで仕事をくれる所は多くは無いがそれでも確実に増えて来ているのも実感している。阿部のような男に足元をすくわれないように気をつけよう。
眠るつもりだった2時間は北野との楽しいおしゃべりであっという間に経ち、現地でもなるべく北野の側を離れないようにしながら仕事が出来たので、阿部は寄ってこなかった。撮影もスケジュール通りに進み21時には渋谷に戻って来れた。
「お疲れ様です。皆さんのお陰で良い写真が撮れました。ありがとうございました。夕食を準備していますので是非食べて行ってください」
と阿部が全員に声をかける。
「北野さんどうしますか?」
と聞くと食べると言うので私もついて行く事にする。仕事の進み具合によってはもっと帰り時間が遅くなると思っていたので夕飯はいらないとスケジュールにも書いてきた。兄も待ってはいないだろう。
予約されてた店は最近オープンしたばかりのスペインバルで人気のお店だった。さすが広告代理店!と変な所に感心しながら美味しいワインと食事を楽しんだ。北野やスタッフ達と談笑していると阿部が、用事があるので先に帰るけど皆はゆっくりね、と声をかけて帰って行く。今朝わざわざ声をかけて貰ったのでお礼を言いに後を追う。
「阿部さん、今日はありがとうございました。また何かありましたらよろしくお願いします」
と頭を下げる。
「あぁ、眞希ちゃん、あっ眞希ちゃんって呼んで良い?こちらこそよろしくね。またすぐに会えるよ!じゃあね~」
とご機嫌に帰って行った。バスの中では少し嫌な感じがしたけれど、案外良好な仕事関係を続けられるかもしれないと思えた。
その後も北野達と楽しい時間を過ごして気が付くと終電の時間だった。皆で慌ただしく席を立ち挨拶もそこそこにそれぞれの家路に着いた。電車に揺られながら昨日の事を思い出していた。兄はまだ起きているだろうか・・・何となく顔を合わせづらいと思いながらも終電で帰るとメールを送ってみた。すぐに、気をつけるようにと返事がくる。兄は昨日の事を気にして起きてる・・・と思いながら、家に着く頃には寝ててくれると良いなと思った。
最寄りの駅から家までは10分程度の道のりだが、今日は人通りが全く無く、街灯も少ない道なので自然と早歩きになる。5分程歩いた辺りで建物に寄りかかる人影を見た。ドキッとして立ち止まるとふらっと出てきた人に更に驚く。先に帰ったはずの阿部だった。
「眞希ちゃん、遅かったね、待ちくたびれちゃったよ」
そう言ってニヤニヤと寄ってくる。何故ここにこの人がいるのか、恐ろしさに足が竦む。
「阿、阿部さんこんな所で何してるんですか」
と言う私に
「すぐに会えるって言ったでしょ」
と更にニヤついて近寄ってくる。私は後ずさり走り出そうとした瞬間に後ろから抱きつかれて口を塞がれた。恐怖で身体が竦んで呼吸が上手く出来ない。耳元で興奮した声が聞こえる。
「初めて会った時から良いなと思ってたんだよね~眞希ちゃん俺のタイプ、これからも一緒に、仕事沢山していくんだから、ね、いいでしょ、ね、ね」
良好な仕事関係なんて考えた私が甘かった。まさかこんなやり方なんて・・・拘束されたまま建物の裏手へと引きずられていく。誰か!助けて・・・思った以上に力も強く抵抗してもびくともしなかった。
「みんなさ、俺と仕事したいって言って、静かに協力してくれるよ~眞希ちゃんもさ、ね」
こうやって仕事を盾に何人も従えたのだろう。通りから全く見えない場所まで来ると口を塞いでた手が離れる。叫ぼうとした瞬間に思い切り平手打ちされて押し倒された。
「ダメだよ眞希ちゃん、叫んだりしたら楽しめないでしょ!俺、暴力は嫌いだからさ、ね、一緒に楽しもうよ」
そう言うといきなり生ぬるい唇で口を塞がれる。顔を背けるが抑え込まれて前を向かされる。両手を身体の下に挟み込まれて体で身体を抑えつけられ服の上から胸をまさぐられる。
「んぐっ」
声にならない叫びが虚しく涙が溢れる。嫌だ、助けて!やめて!気持ちの悪い唇が離れると今度はタオルの様な物を口に突っ込まれた。離れた唇はヌメヌメと首筋を下がってきてゾワッと悪寒が走る。下に伸びた手がズボンのボタンを外していく。何度声を出そうとしてもタオルに邪魔されてどこにも届かない。足をきつく閉じて抵抗しても手が下着の中にスルスルと入ってくる。何故こんな事に・・・助けてお兄ちゃん、助けて助けて・・・。
「おい何してる!」
聞き覚えのある声がした。
「ぎゃっ」
走って来た勢いそのままに阿部の体を蹴飛ばした。
「眞希」
兄は私を確認すると、抱き起こして自分の後に隠す。そして阿部を睨みつけ近づいて行った。髪の毛を掴んで立たせる。
「ひぃ」
小太りな阿部はつま先立ちの様な格好になる。
「俺の妹に何してんだよ!」
そう言うと阿部の鼻の辺りに頭突きを食らわせる。
「うぎゃー」
阿部の顔が真っ赤に染まる。その顔を拳で何度も殴りつける。
「ふざけるな」
手を離すと阿部が足元に崩れ落ちる。そこに何度も蹴りを入れる。言葉にならない呻き声をあげて阿部は動かなくなった。それでも兄はまだ殴ろうとしていた。
「やめて!」
思わず叫ぶ。兄が振り返る。
「もういいよ、やめて。それ以上やったらその人死んじゃう」
「殺してやるよ」
兄の目は暗闇に沈み、怒りだけに支配されていた。
「ダメだよ、やめて!人殺しなんて、それじゃ父さんと母さんを殺した人と同じになっちゃう」
泣きながら言った言葉を聞いて兄の握っていた拳から力が抜ける。
「眞希・・・」
「・・・お兄ちゃん」
涙が溢れる。
「大丈夫か」
叩かれて切れた唇を見て顔を顰める。
「うん」
「警察に」
「通報しないで」
「こんなやつ野放しにするのか?」
兄に聞かれてハッとする。この男はこれまでも、こんな事を繰り返して来たのだろう。そしてこれからも仕事を盾に同じ事を繰り返すかもしれない。だが、警察に通報するのも躊躇する。どう見てもこちら側の過剰防衛に見えるから・・・。私が黙っていると、兄はまた阿部に近寄って行く。それに気付いた阿部の体が縮こまる。
「おいあんた、結婚してんのか」
指輪に目を止める。
「子供は?」
「・・・」
喋らない阿部の肩を乱暴に掴む。
「ひ、ひとり」
小さな声が聞こえた。
それを聞いた兄は怒りを込めて阿部に言い放つ。
「警察には黙っててやる。その代わり、もしまた今日みたいな事を眞希にしたら、その時はお前を殺す。そしてお前の家族にも同じ事をしてやる。あんたの子供にも奥さんにも。殴って押さえつけてお前がやったのと同じ事を・・・」
「や、やめてくれ、2度としないから!」
阿部は怯えながら口にする。他人にはこんな酷い事をしておいて、自分の家族は守るとか、こんな、こんな、クズ!もう1秒でも同じ場所に居たくなかった。
「帰りたい」
自分の身体を守るように掴んで立ち上がる。が、足に力が入らずにふらつく。兄が慌てて支えてくれる。
「歩けるか」
「うん」
兄の腕に抱えられるようにして歩き出す。兄の匂い、温もりに安心してまた涙が溢れる。
兄は黙って私を支えて家まで連れ帰ってくれた。帰るとすぐにお風呂場に行き熱いシャワーでゴシゴシと身体を洗う。こすりすぎて肌がヒリヒリするが構わず洗い続ける。何度洗っても阿部に触られた感覚が消えず涙がこぼれ続けた。
「大丈夫か」
脱衣場の方から心配そうな声がする。
「・・・うん」
それ以上は何も言わずにいなくなる。その後も時間が長すぎたからか、何度も来て声をかけては戻って行く。兄があの時来てくれなかったら・・・考えただけで恐ろしさと吐き気に襲われる。兄はいつでも私を守ってくれる。昨日あんな言葉で傷付けたのに、私はひどい妹だ。あの時の辛そうな兄の目・・・。だから夢に見てしまったのかもしれない。謝らなきゃ、そう思ってようやくお風呂場から出る。
リビングをそっと覗くと心配そうにこちらを見ている兄と目があった。すぐに立ち上がって傍にきた。
「大丈夫か」
心配そうに覗き込む目は優しかったけれど深く傷付いているようだった。見ているのがつらくなって俯いた私の目に飛び込できたのは赤く腫れた兄の手だった。
「お兄ちゃん、手が!」
驚いて見上げると兄もその時初めて自分の手が腫れてるのに気がついたようだった。
「あぁ・・どうって事はない」
そう言って後ろ手に隠そうとする。
「ダメだよ、冷やさなきゃ」
氷を取りに行こうとした私を、兄は引き寄せて抱きしめた。
「俺の事はいい。眞希が無事ならそれで・・・。ごめんな、もっと早く見つけていたら怖い思いも嫌な思いもさせなかったのに」
あぁ・・・私はこんなにも守られている。涙が溢れて言葉にならない。
「・・・ごめん、ごめんね、お兄ちゃん、昨日あんなひどい事言って」
それを聞いた途端、ハッとして私を抱きしめていた腕から力が抜け顔を背けて体を離す。が、その瞬間、私は自分でも驚く行動を取っていた。兄の背中に手を回してしがみつく。
「離さないで」
驚いた兄が息を止めたのがわかる。迷い、そしてゆっくりとまた腕を回し、そっと力を込めて私を抱きしめる。優しく、力強いその腕に抱きしめられて、私はようやく自分の気持ちに気が付く。兄が・・・井岡 律が好きだ。いつからかなんて分からない。初めて会った時からだったのかもしれない。兄として好きなんだと思っていたこの気持ちは他の男に襲われて、初めて女としての気持ちだったと気付いた。本当の兄妹じゃないなんて兄を責めた言葉は、無意識に女として見て欲しかった気持ちが言わせたのかもしれない。
「・・・好き」
躊躇いがちに、でも正直に口にして兄を見上げる。
そこには驚いた様に私を見つめる目があった。
「眞希・・・」
名前を呼んだ唇で恐る恐るそっと私の髪にくちづける。何度も、何度も・・・。幸せだった。あんなに怖い思いをした事が嘘のように心が満たされて行く。
「眞希・・・俺は・・・俺はずっとお前が好きだった」
驚いたが、嬉しくて兄の胸に更に顔を押し付ける。
「昨日お前に本当の兄妹じゃ無いのにと言われたけど、俺はずっとそう思っていたんだ。本当の兄妹じゃないんだから好きになっても良いだろうって・・・。だけど素直に兄と慕ってくれているお前にそんな事は言えなかった。事件の事もあったし・・・。想いを隠して、兄として一緒に暮らしてるのは正直つらかった」
そんな風に考えていたなんてちっとも知らなかった。
「父さんと母さんがあんな事になって2人っきりで残された時、お前と引き離されるのが嫌でおじさん達にも必死で抵抗した」
確かに何度も話に来ていたおじさんを追い出していたっけ・・・兄はそんなに前から私を好きでいてくれたのか、嬉しさと恥ずかしさで顔が火照る。
両親が殺されてから15年、未だに犯人はわからない。その場に居合わせた兄は両親を助けようと犯人に立ち向かって行って重症を負った。私が余り両親の事を口にしないのは兄が両親の死に物凄く責任を感じていたからだ。両親を助けられなかったと私に謝ったあの目は今でも忘れられず昨日の夢の中でも・・・。両親を殺された事は私達にとって忌まわしい過去なのは間違いないけど、私には兄が居てくれたから、兄がずっと私を守って傍に居てくれたから寂しくなかった。そしてもう兄にはあんな目をして欲しくなかったから、両親の事は口にしなかった。
「あの時・・・」
兄が消え入りそうな声で言う。
「あの時、犯人が捕まっていたら、眞希は俺を好きになっただろうか・・・」
「えっ」
兄の言葉の意味が解らなかった。聞き直そうとした時、私を抱いた腕に力が入る。顎をそっと持ち上げられると優しい唇が降りてきた。身体中の力が抜けるのと同時に1番深い所にギュッと血が集まったようにドクドクと脈打つ。今日あった悪夢がすべて打ち消されて行くみたい。兄をこんなにも近くに感じて嬉しいのに苦しい。好きすぎて切ない。
「おにい・・・」
途中まで言って唇で止められる。
「・・・名前で呼んで」
名前・・・改めて呼ぼうとして何だか恥ずかしく口ごもる。
「・・・つ」
「何?なんて言ったか分からなかった・・・」
わざと聞こえない振りをするのがずるい。
「・・・律」
言った途端に恥ずかしくて俯いてしまう。
「もう1回」
笑いを堪えるように言われて少しムッとする。
「言わない!もう絶対に言わない!」
拗ねて兄を見上げるとそこには愛おしそうに私を見つめる目があった。あぁ!もう!
「律、律、律、律」
思いっきり抱きつくとバランスを崩しそのまま2人で倒れ込む。
「いっ!」
律が私を支えようとして腫れてる方の手をついてしまったらしい。私は慌てて氷を取りに行った。そのあと、大丈夫だと言う律を無視して手を冷やし、湿布をして包帯をぐるぐる巻きにしたあとはお互い離れがたく、律の部屋で一緒に眠った。
◇
あれから・・・律は仕事の不規則な私に規則正しい生活を押し付ける事を止めたけれど、私が律と離れたくなくて、前日の帰りがどんなに遅くなっても翌朝は律と一緒に起きて、一緒にご飯を作って食べた。そして私の帰りが遅い日は律が必ず駅に迎えに来てくれた。あと変わった事と言えばあの夢を見なくなった事・・・最後に見た毛玉は何故か律の目をしていた。どんな意味があったのかと時々は思い出すけれど、その事で夜中に飛び起きる事は無くなった。
◇
穏やかな日常はゆっくりと季節を進み、今は12月の慌ただしさを迎えていた。仕事が立て込んで、律は会社に泊まる事が多くなり、私の方はありがたい事に、あるホテルのイベント企画で仕事を依頼され打ち合わせに忙しかった。今日はその打ち合わせが終わった後、律の誕生日プレゼントを買う為に銀座を歩き回った。律の誕生日は12月29日。今まではおめでとうって言うくらいでお祝い事は避けてきたけど、今年は、今年からはちゃんとお祝いしたい。生きている節目節目を一緒に刻んでいきたいから。私はあれこれ悩んだ末に律に似合いそうなシルクコットンのセーターを選んだ。当日の食事は何処でしようとか、考えながら歩いていたら裏道に入り込んでしまい、不慣れな銀座で駅までの道がわからなくなる。いい歳をして迷子かと自分に呆れながら携帯のナビを開き、道を確認する。思った程駅から離れていた訳ではなくてホッとし、ナビに従い駅に向かって歩き出した私は、驚いて足を止める。知らない道に知っている店があった。あの店だ。何度も夢で見たあの店が現実に目の前にある事が理解出来ず呆然として立ち尽くす。また夢を見ているのかと思ったが私は走っていないし、呼吸も苦しくはない。こんな所に・・・こんな所にあったなんて。
そこは、にぎやかな表通りとは違って、忘れ去られた場所のようにひっそりとしていた。掲げられた看板にはBarの文字だけ。営業時間にはまだ早いようでシャッターは下りていた。怖くなった私はナビに目をやり、駅へと歩き出す。心臓がまるで走った後のようにドキドキして息苦しい。家に帰ってからもあの店の事が頭から離れない。恐ろしかったが確かめたくもあった。あの店にあの人が居るのかを・・・。あの人・・・夢の中ではあの人の事を私は知っているが、実際は誰なのか見当もつかない。そんな事を考えながら夕飯の仕度をしていたせいか思わず指を切ってしまった。慌てて傷口を咥えて絆創膏を探している時に律が帰って来た
「どうした?」
「指切った」
慌てて律が手当してくれる。
「あまり深くなくて良かった。気を付けないと・・・」
「うん、ありがと」
「その指じゃ料理は無理だ。俺がやるから座ってな」
仕事で疲れてるだろうに律は優しい。
「ねえ律・・・」
今日見た事を言いかけて止めた。心配かけたくなかったから。
「何?どうした?」
「ううん、なんでもない。仕事で疲れてるのにごめんね」
台所に立つ律の背中にもたれ掛かる。
「こら、危ない、俺まで指を切っちゃうだろ」
笑いながら律が文句を言う。律の温もりに触れて不安が少し薄れた気がした。
◇
久しぶりに2人で眠る。が、そこには消化しきれていない、切ない空気が残っていた。
律に作ってもらって夕飯を食べていた時に誕生日の話になった。どこかに食事に行こうと言うと、今更誕生日なんてと照れながらも私に押し切られて渋々頷いた。
家族になって、両親が殺されるまではそれぞれの誕生日をみんなで楽しく祝っていた。あの事件後はしばらく私が引きこもったり、気持ちの整理もつかないままで、お祝い事とは、ずっと無縁で過ごしてきた。律は心身共に深く傷付いていたし、2人の間に会話も無い日々が数年続いた。それでも律が社会人になり、私も仕事の依頼が入るようになってきた頃にはポツポツと会話をするようになっていた。規則正しい生活をと言い出したのも多分その頃だと思う。私には面倒な生活のルールだったけど、律にすると少しでも私と時間の共有をしたかったから、らしい。律の、私に対してしまい込んでいた気持ちを少しづつ聞く度に、なんとも言えない幸せな気持ちになる。そして、そんな律にも、幸せになって貰いたかった。律は口にはしなくても両親の死の責任をまだ感じている。律のせいじゃないのに・・・。その気持ちから解放してあげたかった。過去に囚われず今を生きて欲しかった。人が聞いたら薄情に聞こえるだろうけど、亡くなった両親の事よりも今を生きる律が大切だった。
「律」
「ん?」
「私達が家族になってから来年の春で25年になるんだね」
「・・・そうだな」
「あの事件からも15年経った」
「・・・」
「律はまだ・・・自分の責任だと思ってるの?」
そう言ってテーブルの向かいに座る律を見た時、私は言った事を後悔する。全身が硬直し、目には悲しみと苦しみの色が浮かんでいる。私の視線に気づくとスっと目を伏せた。傷付ける気は無かったのに焦る。
「ずっと律がそう思ってるのは知ってる。だけど、父さんと母さんが死んだのは律のせいじゃ無いよ。悪いのは犯人だもん。律が責任を感じる事じゃ無いし、もう・・・」
バン!
もう忘れてと言いかけた時に律がテーブルを叩くように立ち上がった。俯いていて表情はわからなかったけど、肩が小刻みに震えているのがわかる。私は馬鹿だ。律を幸せにするどころか悲しませている。
「律」
「・・・ごめん」
それだけ言うと自分の部屋に入ってしまった。
私は何をしているのか。律はあの現場にいて怪我までしている当事者だ。思い出すのもつらいに決まってる。ましてや忘れる事なんか出来るわけない。
でも・・・だからこそ、1人で抱えて欲しくなかった。私達家族に起こった事件なのだから、律の痛みを私にも分けて欲しかった。どうすれば良いのか分からなくて苦しい。だけど律に寄り添いたいと強く思った。
ドアをノックする。
「律」
「・・・」
「律、開けて」
「・・・」
「お願い、律」
「・・・ダメだ」
震える声が聞こえる。
「律・・・」
「・・・」
「律、私達は兄妹として育ったけど、だけどお互いの気持ちはもう兄妹じゃ無いよね?私は律が好きだよ、律と一緒に居られて幸せ。すごくすごく幸せを貰ってる。だから、律にも幸せになって貰いたいの、私が律をいっぱい、いっぱい幸せにしてあげたい。誕生日だってお祝いして一緒に生きてる証にしたい。・・・律があの事件のせいで心も体も傷付いて、今もその傷が癒えてない事は知ってる。知ってるから今まで事件の事は怖くて聞けなかった。でも、もう1人で苦しんで欲しくない。その苦しみを私にも背負わせて。だって殺されたのは私達の両親だから。あの日何があったのか私には分からない。分からないから教えて欲しい。律の目で見た総てを律の口から教えて欲しい。お願い、律・・・お願い・・・」
涙が溢れて言葉が途切れる。もうこれ以上何を伝えたら良いのだろう。どうしたら律を・・・。言わなければ良かった、こんな事になるなら。でも事件の事を、お互いの気持ちを隠したままでは本当の意味での幸せにはなれないとも思う。他人の話ではない、私達の家族の話なのだから。
もう言葉にする事も出来ない気持ちを抱えたまま、私はただハラハラと涙を流しドアの前に立ち尽くしていた。もしかしたら律は私を嫌いになるかもしれない・・・そんな考えが頭をよぎる。律に嫌われたら私はどうすればいいのだろう・・・律がいなくなったら、律と暮らせなくなったら・・・不安な気持ちが膨れ上がって喉が詰まりそう。押し込めても押し込めても上がってくる恐怖が唇から漏れだして泣き声に変わる。小さな子供のように声を出して泣く。
「律、律、律、律」
声を出して泣きながら何度も律を呼ぶ。すると根負けしたようにドアが開いた。そこには目を真っ赤にした律が立っている。
「律」
抱きついて更に泣いてしまう。
「・・・眞希はずるい、そんなに泣いたら俺は・・・」
律もそれ以上言葉に出来ず私を抱きしめて泣いた。事件の日と同じように2人で抱き合って泣いた。ようやく涙が枯れた時、私を抱きしめながら、
「眞希、あの日の事、どう話したらいいのか・・・少し自分の中で整理して考えてみたい。それから眞希にちゃんと話すよ」
と静かに律が言った。
「・・・分かった。待ってる・・・律・・・」
「ん?」
「嫌いにならないで私を。ひどい事ばかり言って律を傷付けてばかりだけど、私を嫌いに・・・」
その後の言葉は続かなかった。優しい唇で塞がれたから・・・。
◇
「俺の方こそ、眞希に嫌われるのが怖い・・・」
律がそう呟いたのは、私が律の腕の中で安心して眠ってしまってから。暗く沈んだ律の目はあの日を見つめていた。
◇
翌朝、律は私を起こさないようにそっとベットを抜け出そうとしたけれど、律のパジャマをギュと握って離さなかった私は律と一緒に目を覚ました。
「おはよう、律」
「おはよう」
律の目の赤さが睡眠時間の短さを現していて申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「眞希、ごめん、今朝は寝坊して、もう出ないとだから朝食一緒に食べられない」
すまなそうに私に言ってくれるけど、こっちの方が申し訳なくてつらい。
「それと・・・多分今日から2、3日泊まりになりそうだから、戸締りしっかりな。それから仕事で帰りが遅くなるならタクシーで帰ってこいよ」
「わかった」
ベットから出ようとした私に
「まだ早いだろ、もう少し寝てな」
と布団をかけ直してくれる。
「律がいない間、律のベットで寝ても良い?」
「いいよ」
私の頬にかかった髪を優しくはらいながら額に唇を押し当てて部屋から出て行った。せっかく楽しく誕生日の話をしてたのに、私は馬鹿だなぁと改めて昨夜の事を思い出す。律には辛い決断をさせてしまった。でも、話してくれるって言った。私は信じてその日を待とうと思った。
仕度を終えて玄関に向かう音がする。慌ててベットから起きてドアから顔を出すと律と目があった。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
静かに玄関が閉まった。
◇
昨日洗えなかった食器を洗って片付ける。律が指に巻いてくれた絆創膏は、残念だけど新しいのに貼り変えた。風は冷たくて寒いけど、よく晴れた1日だった。
今日、律は仕事で帰らない。昨日律に言えなかったあの店・・・見に行ってみようかな。律が自分の気持ちに決着をつけようとしてるんだから、私も何故あの夢を見たのか解るのなら調べたい。夕方まで部屋の片付けをしたり、読みかけの本を読んだりしながら過ごして家を出る。
電車も街も夕方のラッシュで混んでいたし、どこもかしこもクリスマスイルミネーションで彩られ、カップルで溢れていた。私も、律と手を繋いで街を歩きたいなんて考えてちょっと恥ずかしくなる。
銀座通りから横道に入り少し行くとあの店の前に出た。看板にあかりが灯り、シャッターは開けられていて音楽が漏れ聞こえている。店は2階にあるので中の様子を伺う事は出来なかった。どうしよう・・・女1人で入っても大丈夫だろうか・・・。ダメならすぐに出ればいい、そう考えて階段を登る。綺麗なクリスマスリースが飾られたドアをゆっくりと開けて入る。
「いらっしゃいませ」
入口の狭さに比べて中は案外広く、手前がカウンター席、奥は観葉植物に仕切られていてここからは見えなかったがボックス席になっているようだ。
「あの1人なんですけどいいですか・・・」
バーテンダーに声をかける。
「勿論。あっコートはそこのハンガーに掛けて。こちらにどうぞ」
時間がまだ早いせいか他に客は居なかった。
促されてカウンターまで行き、手で示された椅子に座る。その間、私の顔を見たバーテンダーはひどく驚いたようだったが、私はそれには気づかなかった。席に座ると改めて
「いらっしゃいませ、店主の晶です、この店は初めてですよね。ゆっくりしていってくださいね」
と挨拶しておしぼりを渡してくれる。受け取りながらぐるりと店の中を見回すが見覚えはなかった。少しガッカリする。使用したおしぼりを下げ、お通しなのか、ミックスナッツを置く。動作が流れるようで、手も指先まで綺麗だった。
「何を飲まれますか?」
言われてバーテンダーの顔を見上げ驚いた。入って来た時は気が付かなかったが彼の目は、律の目によく似ていた。
「どうかされましたか?」
ハッと我に帰って
「知っている人にちょっと似てたので」
と言って彼の後ろのボトルを見る。ボトルを見ながら彼を、彼の目を盗み見る。と、私に向けられた目と合う。まるで律に見られているようで恥ずかしいような不思議な感じがして慌ててボトルを見る。
「・・・バーボンを」
と言うと
「今置いてあるのはハーパーかメーカーズマーク、ワイルドターキー、ファイティングコックですね」
ひと通りカウンターに並べて見せてくれる。
「えっと、ではファイティングコックをロックでお願いします。あっ、あとチェイサーも一緒に」
「ほお~お客様、通ですね」
おどけた感じで言って他のボトルを棚に戻してグラスを出してくる。
冷凍庫から氷を取ってくるとその場で丸く削り始める。細く長い男の指先から氷が削り出され細かい破片が飛び散る。表面は体温で少し溶かされ一筋の雫になって腕へと流れる様子はなんだか色っぽくて少しドキドキする。
「お待たせしました、ファイティングコック、ロックでございます」
グラスを私の前に置いてそっとチェイサーを横に添えてくれる。若いバーテンダーで口調はくだけてるけど、銀座でお店を構えるだけあって動き総てが洗練されている。グラスを傾けて口に含むと、角のないまろやかなそれでいて濃い口当たりとバニラ香でバーボンらしさを感じる。
「お客様、今日は待ち合わせですか」
「いえ、この前偶然こちらを見つけて気になったので来てみたんです」
「偶然・・・それはそれはありがとうございます。気にいっていだけるといいですが」
「あのこの店はあなたの・・・えっと晶さんの店なんですか?」
「いえ、オーナーは別にいます。僕は囲われバーテンダーです」
「えっ囲われ?それを言うなら雇われ・・・ですよね」
「この店のオーナーは銀座の老舗クラブのママで僕はそのママに囲われてるから、文字通り囲われバーテンダーなんです」
笑いながらすごいことをしれっと言う。
「晶さん以外に従業員さんって居ないんですか?」
「僕1人じゃご不満ですか?」
「いえ、ごめんなさいそういう事じゃなくて・・・」
なんか調子が狂う。
「僕1人です。だからこうやって他のお客様が居ない時はあなたと僕の2人きりですよ」
そう言ってカウンター越しから見つめられるとドキッとする。本当に何年か前の若い律みたいだ。
「うふっ、口説かれてるみたいですね」
「ええ、勿論口説いてますよ、常連さん獲得月間ですからね」
なんてふざけて言う。さすが客の心を掴むのが上手い。
この人と夢は関係ないのかな・・・。もしかしたら顔を見たらピンとくるかと思ったんだけど。強いて言えば律に、律の目に似てるって事位かな。律に兄弟が居たなんて聞いた事ないから他人の空似ってやつよね。今度は律と一緒に来ようかな?律もびっくりするかも。そんな事を考えて少しニヤついてしまう。
「なんですか?思い出し笑い?彼氏の事を考えてましたね?」
と、すぐに突っ込まれる。
「ち、違います」
そうは言っても顔が火照って恥ずかしい。
「どんな人なんですか?こんな美人と付き合える幸せな男って」
「やめてください、からかわないで」
「いいじゃないですか、教えてくださいよ、あっ、お名前伺ってもよろしいですか?その方が会話がしやすいので」
「あっ、井岡です。井岡眞希です」
あれ、なんだか完全に晶ペースにハマってる気がする。
「じゃあ、眞希さんって呼びますね」
「眞希さんの彼氏ってどんな人なんですか」
「どんなって・・・優しくて強い人、私をどんな時でも守ってくれる人」
「お~惚気けてくれますね。付き合って長いんですか?」
「まだ半年位」
「うわぁもう1番ラブラブな時期じゃないですか」
「そ、そう?」
「でも、今日は1人飲み?思い出し笑いをするくらいだから、ケンカしちゃって1人って感じじゃないですよね」
「仕事で忙しいので」
「あ~12月ですからね・・・とか言って浮気してたりして」
「そういう事する人じゃないんですよ」
「お~信頼度高い」
「付き合ったのは最近だけど、ずっと昔から知ってる人だから」
そう、ずっと一緒に暮らして来た人だから・・・。
「・・・家族にはもう紹介を?」
少し声のトーンが変わった気がした。
「私、家族は・・・」
「あっ、いや・・・お兄さん・・とかは・・・」
なんで?変な質問。お兄さん限定?
「もしかして私の兄を知ってるんですか?」
「いえ、なんか、眞希さんのイメージがそんな感じだったから・・・ブラコンみたいな?」
「ブラコン・・・そうかも、うふふっ」
確かに相当なブラコンだ。
「お兄さん、彼氏の事認めてくれたんですか?」
「認めた・・って言うか・・」
「あ~反対されてるんでしょ?お兄さんの気持ちわかるなぁ。僕、眞希さんみたいな妹が居たらヤキモチ妬いて彼氏に意地悪しちゃうかも」
「晶さんっていくつですか?」
「23」
「あら、4つ下、弟くんか、じゃあ晶君ですね」
「お姉さーん!」
「晶君」
「うん、いい感じ」
そう言って笑い合う。なんだろうこの居心地の良さ。前からの知り合いみたいな・・・。
「晶君、御家族は?」
「僕?僕も親は居ないんです。小さい頃に親に捨てられちゃったから」
なんでもない事のように言う。
「父親は元々居なくて母子家庭だったんだけど、ずっと虐待されてて。8才の時にお袋が突然居なくなって、親戚とかも居なかったから施設で育ったの」
「あの、私・・・ごめんなさい、余計な事聞いちゃった」
「なんで?余計な事じゃ無いですよ。僕が眞希さんに話したかったから話してるんです」
微笑んでくれるけど、目は律と同じ、辛い時の色を浮かべている。
「あっ、でもね、お袋居なくなって、行方知りたくて部屋中調べたら、僕以外にもお袋に子供が居た事が分かってね、嬉しかったなぁ、僕には兄が居たんだよ」
なんだろう・・・なんとも言えない感じ。
「住所とかも全部事細かに調べてあって、あぁこの人は俺の事は気に入らなくて虐待したのに、兄の事は気になってたんだなって思って、嫌なお袋だと思ってたのにちょっとヤキモチ妬いたりしてさ、だから思ったんだよ。僕を捨てて兄の所に行ったんじゃないかって」
心がザワつく。聞いているのが辛くなる。
「それでね、見に行ったんだ」
鼓動が早くなり、少し息苦しい。
「・・・それで?」
晶は私から目を離さない。
「それでね・・・」
入口のドアが開き3人の女性客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「晶~会いに来たよ~」
3人の中の1人が甘えたように声を出す。
「佐和子さん、嬉しいなぁ待ってたんですよ」
晶はわざわざカウンターから出てコートを脱がせてハンガーにかける。佐和子と呼ばれた女は胸元のざっくりと開いたセーターを着ていて、こぼれそうな胸を晶の腕に擦り付けるように抱きつく。晶も慣れた手つきで佐和子の背中に腕を回した。なんだか律がそうしてるようですごく嫌な気持ちになる。晶は佐和子の背中に手を回したまま3人を奥のボックス席へと案内する。
「あの、私帰ります」
そう言ってお会計してもらう。話が途中だったのは気になるけど、その先を聞くのもなんだか怖かった。
「ありがとうございました」
なんだかさっきまでと違って素っ気ない。コートを着ようとするといつの間にうしろに居たのか、私の手からコートを取り着させてくれる。
「あ、ありがとうございます」
「今日みたいな話は誰にもしてません、眞希さんにだけです」
奥の客に聞こえない様な小さな声で言う。
「続きを、是非・・・待ってますから」
肩に手を置かれてなぜか私はビクッとする。その手を振り払う様に急いでドアを開けて店外に出た。
「ありがとうございました、お姉さん」
私は逃げるように階段を駆け下りた。
◇
あの店には、何故夢を見るのか分かるような手がかりはなかった。だけど、あの晶って子の目、律によく似てた気がする。親が居ないって、施設で育ったって言ってたけどお兄さんとは会えなかったって事なのかな?それとも会っても受け入れて貰えなかったのか・・・つらい日々を過ごしたのかな。あっけらかんとしてたけど、あの目は苦しんでいる目だった。もしも、もしも晶の探してた兄が律だったら?23才って言ったっけ?8才の時に捨てられたって・・・15年前・・・・。私達の両親が殺された時期と一緒??まさか、そんな繋がりある訳ない。考え過ぎだ・・・。考えるのを止めようとしてふとまた疑問に思う。私・・・家族が居ないとは1言も言ってない。なのに晶に家族の事を聞いた時、僕[も]居ないって言った。そして、私に兄がいる事をまるで知っているかのように。足元からゾクッと寒気が襲ってくる。何故・・・否定したくても否定出来ない、律に似たあの目。どうなってるの?どうすればいいの?ハッキリさせたい。けど、怖くて深入りしたくない。1人ではもうどう考えたら良いのかわからない。律に会いたい。考え疲れて倒れ込むように律のベットに潜り込む。律の匂いに包まれて安心する。きっと大丈夫。もしも弟ができたら律、喜ぶかな・・・。
◇
結局色々考えてしまって眠りが浅く朝起きるのがつらかった。今日は例のホテルの打ち合わせがあってまた銀座に向かう。ホテルのイベントの仕事。この時期のイベントといえば勿論クリスマスパーティ。今回はホテル主催のパーティに参加してくださるお客様にメイクを施す仕事だ。当日参加される全員ではないにしても100名以上のお客様のメイクをしなくてはならず、私を含めた20名でどうやって当日メイクをしていくのか毎回集まった時に意見を出し合ってきた。今日はその意見をまとめて決定して行く。決まるまで時間がかかるのではと気が重い。それでも自分の力を発揮出来る良いチャンスでもあるのでやり甲斐はある。しっかり成功させなければと思う。
15時から始まった打ち合わせは中々終わらず、最終決定が下ったのは20時半を過ぎていた。仕事中はさすがに考えたりする暇もなかったが、一段落して帰ろうと思った時に昨日の事を思い出す。どうしよう・・・店に行くのはなんだか怖い。でも、このまま帰ったところで、1人、出ない答えをぐるぐる考えるだろう事はわかりきっていた。意を決して店へと向かう。昨日逃げるように帰って来てしまったが晶は気を悪くしていないだろうか。
「いらっしゃいませ」
昨日よりも遅い時間のせいか店内に人が多かった。
入ってきたのが私だとわかると晶の顔に驚きが広がる。カウンターから足早に出てきて私のコートを受け取り
「もう来ないかと思っていました」
と私にだけ聞こえる声で言う。
「こんばんは、どうしても昨日の話が気になってしまって」
と隠さずに言うと晶は店内を見回し、
「ちょっと今は話せないよ、混んでるし、お客さん引くまで少し待っててくれると嬉しいんだけど」
と上目遣いに私を見て笑う。
「あまり遅くはなれないの」
と言う私に
「彼氏が待ってるの?それともお兄さんが門限決めてるとか?」
ふざけたように聞いてくる。私は曖昧に笑って誤魔化す。まさか襲われて怖い思いをしたから早い時間に帰りたいなどとは口に出来ない。
「そうか・・・なら、ちょっとここで待ってて」
と言うと、更衣室みたいな所に私を押し込む。そのままカウンターに戻ると店内に向かって
「皆様、大変申し訳ないのですが、今日21時から断水になるのを忘れていました。トイレも流しの水も止まってしまうので営業出来ません。誠に申し訳ありませんが、今受けている注文をラストオーダーとさせていただきます。本当に申し訳ありません。お詫びと致しまして、次回お越しいただいた時の1杯目は店の奢りとさせていただきますので是非またいらしてください」
そう言って頭を下げる。えーっとか来たばっかりなのにとか、また晶の病気が始まったとか声がする。また?前にもこういう事してるのか・・。とにかく私は小部屋の中で聞いていてものすごく焦った。どうしよう、私、営業妨害してる。そんなつもりじゃ無かったのに。困っている私をよそに、お客達は帰り支度を始めていた。1人また1人とお店から出て行く人を扉の隙間から見て頭を下げる位しか出来なかった。全員を帰して看板の灯りを消し、シャッターを半分だけ閉めて晶が店に戻ってきた。
「もう出て来て良いよ。あっ、1本だけ電話掛けさせて」
そう言うと奥に引っ込む。
「・・・あっママ?僕、うん晶・・・えっ、もう情報行ってるの?早いなぁ・・・えっ、違うよ、大事なお客様だよ・・・うん・・・そう、昨日話したでしょ?・・・うん、そうだよ、時間が動き出したんだ・・・うん・・・うん・・・わかってるよ・・・ありがとうございます・・・うん・・・ママ、愛してるよ・・・じゃ、あとでね」
「聞こえちゃった?よね、電話の相手は僕を囲ってるママ。お店閉めちゃったからね、報告の電話だったんだけど、もう誰かが告げ口してた」
あははと笑う。
「ごめんなさい、私のせいで、申し訳なさずきて、どうしたら・・・」
「じゃあ、お詫びに僕を1晩買ってくれる?」
子犬の様な潤んだ目で見つめられる。
「へっ?」
変な声が出る。どういう意味??
「ぷっ」
晶が吹き出す。
「眞希さんって擦れてないんだね。これでも僕モテるんですよ。1晩買いたいって人も結構いる。1日のお店の売上よりも全然高い金額で僕を・・・」
「それって・・・」
「彼女達は1晩の僕の愛を買う」
ニッコリ笑ってそんな事言われても困る。
「で、でもさっき電話で、愛してるって・・・」
「ああ、勿論ママをとても愛してるよ。だけど、愛にだって色々あるでしょ。ママはね、僕がどうしようもない泥沼にハマってた所を助けて引き上げてくれたんだ。あのままだったら多分、今僕は生きてない。ママは僕の家族で、愛する人だ。そして僕を買うのは、絶対に消えない焦燥感を1晩だけでも忘れたい人達。僕を抱いた所で消える筈も無いのに・・・僕に出来るのは求めに応じる事だけ」
そう言ってフッと笑うけれど、その目は寂しく暗い、律とは違う色をしていた。
「さぁ、時間が無いね、こっちに座って」
晶がカウンターに戻る後をついて行く。
「なにか作るよ、何が良い?」
「お水を」
「遠慮しないで、僕も飲むから・・・ソーダ割で良い?」
そう言うとバーボンのソーダ割を作って出してくれる。
「・・・ありがとう」
晶がグラスを寄せてくるのでカチンと合わせて1口飲む。
「昨日の続きからだね」
「・・・うん」
「僕は・・・僕はお袋に選ばれた兄がどんな人か見たかった。兄がいるってわかった時、純粋に嬉しかったけど、お袋に選ばれた兄が憎らしくもあったんだ」
溶けだした氷がカランと音を立てる。晶はグラスを見つめていた。その目は深い深い所にあった。
「その日、4月の最後の日、書かれた住所を頼りに1人で電車に乗った。平日の昼間に子供が1人で乗っているのに気にする大人は1人も居なかったな。僕なんて存在してないみたいに誰も・・・」
4月の最後の日・・・。
「駅に着いて最初に思ったのは、家を訪ねて行ったらお袋にまた殴られるんじゃないかって事。せっかく兄と仲良く暮らしてるのにって、邪魔するなって。怖かった。足が竦んで前に進めなかった」
カラになった自分のグラスにバーボンを注ぐ。ソーダは入れなかった。
「そんな僕に声をかけてくる人がいたんだ。女の人、君、今日は学校どうしたの?って。それがさ、私服の婦人警官だったの。手帳見せられて、ビビったけど、創立記念日で学校は休みで、今日はおばあちゃんの家に遊びに来たって嘘ついた。久しぶりに来たからどっちに行ったら良いか迷ってたってね。そしたら納得したんだけど、ニュース見てない?って聞かれてさ、事件現場が近くて犯人もまだ捕まって無いから1人じゃ行かせられないって言うんだ。僕困っちゃってさ、トイレに行くふりして逃げちゃった」
細く長い指がグラスの汗を拭う。
「それでキョロキョロしながら歩いてるとあちこちに警察の人が居るのがわかった。兄の家に近くなればなるほど増えて行った。僕はまた声をかけられると困ると思ってなるべく堂々と歩こうと思ったリしてた」
私の心臓はドキドキと鼓動を早める。なんだかクラクラして貧血を起こしそうで身体をカウンターで支える。
「更に近くまで行ったらカメラを担いだりマイクを持ったりしてマスコミも大勢押しかけていてすごく嫌な予感がした・・・大人と目が合わないように俯きながら住所を確認してその方向に目を向けたら・・・」
怖くて耳を塞ぎたくなる。
「その家はドラマみたいに黄色いテープで誰も入れないように塞がれていて警察官だけが出入りしてた」
多分、それは私の予想通りの話・・・違うと思いたかっただけ。
「何が起こったのかどういう事なのか僕はもう何も考えられなくて、とにかくそこから離れたんだ。電車の中で、もしもお袋があそこに来ていて巻き込まれてたらどうしようとか考えてた。あんなに殴られてもう嫌だと思ったお袋を心配してた馬鹿みたいに。兄の所に来てた確証なんて無かったのに。本当に子供だったしニュースなんて見てなかったから何も知らなかった」
私の中の深い所から闇が広がってくる。胸がムカムカして今にも吐きそうだった。
「・・・家に帰って新聞とかテレビとかで事件の内容を知った。兄の両親が何者かに殺害されたって」
晶は私を見ていた。
「兄は・・・兄の父親が再婚して、新しい母親と妹4人で幸せに暮らしてたって。近所の人達誰もがこの家族を恨んでいる人を知らないって。羨ましいくらい仲が良かったって。だけどその日2人共、何者かに睡眠薬入のお菓子食べさせられて、殴られて殺されたって。用意周到だったから犯人に余程恨まれていたのだろうって。兄は・・・兄は外から帰って来て犯人と鉢合わせして襲われたんだよね?親を助けようとして向かって行ったって・・・」
あの日の律の目を思い出した。恐れ、悲しみ、憎しみ、そして不安、全てが混じり合い暗い影を落としていたあの目、私にごめんと言ったあの目。途端に不安と恐怖が襲って来て私の心は耐えられず、目の前が真っ暗になって床に倒れた。
◇
なにか冷たい物で頬を撫でられた気がして目を覚ます。私はお店のソファに寝かされていて晶が心配そうに私を見ていた。慌てて起きようとする私を晶が押さえる。
「急に起きたらダメだよ」
私はさっきまでの事を思い出して顔を覆った。
「ごめん、ショック、大きかったね」
そう言う晶もつらそうだ。
「僕の、父親違いの兄は井岡 律。そして眞希さん、あなたは僕の義理の姉さんだ」
何も言えなかった。言葉にならない。
「こんな偶然ってあるのかな?昨日眞希さんが店に来た時は本当に驚いたよ」
「・・・」
「あれからね、あの家を見に行った後、兄は怪我したけど生きてるってわかって病院まで行ったんだ。会えなかったけどね。毎日通ったよ。退院するまで。そして、あの家に戻らなかった2人の新しいマンションも、探して見に行った」
「何故?何故名乗り出なかったの?だって、まぁ確かに複雑な話だけど、律なら、きっとあなたを受け入れたと思う」
「だって僕はまだ8才だったんだ・・・どうしたら良いのかなんてわからなかった」
「・・・そうね」
「そのうち、僕があんまり学校にも行ってなかったし、様子がおかしいって児童福祉局に通報されて、親が居ないってなって施設に連れていかれたから・・・」
晶が俯く。
「あの頃・・・」
封印されたあの頃の記憶。
「私達も自分達の事だけで精一杯だった・・・私は・・・私はその日家に居なかったから・・・実際には何があったか知らないの。精神的にも不安定だったから誰も事件の事を教えてはくれなかった。律も、目の前で親を殺されて、犯人に襲われて怪我をして・・・。だけど警察は最初、律を疑ったみたいで何度も何度も事情を聞かれてた。ひどい週刊誌にはハッキリと律が犯人みたいに書かれた時もあったのよ。まだ未成年だった私達を面白おかしく書き立てた夕刊紙もあった。律がどんなに傷付いたか・・・。だけど世間なんて薄情で、親が殺された事件なんてすぐに忘れ去られて誰も気にしなくなった。あれから警察がどんなに探しても犯人は見つからないまま、もう15年も経ってしまった・・・」
しまい込んでいた記憶を辿る。
「私は引きこもってしまって中学も高校も行かなかったけど律は・・・相当辛かったと思うけど、高校行って、専門学校にも。そして努力して今の事務所を作った。社会との繋がりを必死に繋いでた。日常に置いていかれないように必死で。だって私達は親を殺されるっていう非日常的な場所に身を置いたから。日常は、幸せは、簡単に壊れるって知ったから、もう壊れないように必死で守ってくれたの」
涙か溢れる。
律はいつでも私のために、私を守る為につらいなんて1言も言わずに傍に居てくれた。
「羨ましいな・・・」
晶がぽつんとつぶやく。
「僕も眞希さんみたいに兄が傍に居てくれたら違った人生だったかな・・・」
私は弾かれたように晶を見つめた。孤独だった晶の子供時代。あの事件が無かったら、私達それぞれどんな人生を送っていただろう。
「僕はね、施設に入ってからも、時々2人のマンションを見に行ってたんだよ。社会人になってからの兄も何度か見たよ。勿論眞希さんも・・・ストーカーみたいに、ごめんね」
晶がクスクス笑う。
見られていたなんて、全然気が付かなかった。
「2人の幸せが僕の幸せだったんだ」
急に声が暗くなった気がした。
「あれから15年、僕はまあろくでもない人生を歩いてたけど、事件の事はずっと引っかかってて・・・。僕なりに少しづつ調べてた」
驚いた、調べていたなんて。
「何かわかった?」
「・・・兄は・・・?兄は犯人を見たんでしょ?あれから思い出してなにか言ってなかった?」
「律とは事件の話はしなかったの、避けていたのよ、私も律も。あの時、律は両親を助けられなかったって私に謝ったの。律のせいなんかじゃ無いのに。だから私は事件の事を心の奥にしまう事にした。私も律もお互いがつらくなるだけなのを知っていたからずっと触れずに生きてきたのよ。大好きだった両親の事なのに・・・。ひどい娘よね・・・。律は、当時の警察には知らない男の人だったって言ってた」
「そうだね、新聞にもそう書いてあった・・・」
「ねえ、何かわかったのなら教えて欲しい」
「眞希さん、これは僕の想像でしかないから・・・」
「想像でも!」
思わず晶の腕に掴みかかっていた。
「ごめん、想像では・・・」
晶が顔を背ける。
「ごめんなさい」
掴んでいた手を離して握りしめる。お互いどうしたら良いのかわからず沈黙が続く。
「・・・そういえば眞希さんって兄の事を名前で呼んでるんだね。意外な感じがする」
はっ、何を突然に・・・。
「えっ」
「なんか、兄さん とか呼んでるイメージだったから」
「・・・」
なんて言えば良いのか迷う。
「少し・・・少し前まではお兄ちゃんって呼んでたんだけど」
私達が付き合っている事は誰も知らない。まぁ言う相手も居なかったし、生活が変わった訳でも無かったし・・・。
「晶君、私達、私と律は・・・付き合ってるの」
「はっ?」
ポカンとした顔が面白かった。私は耳まで真っ赤にしながら
「いつからそう想ってたのか分らないけど、私達、その、お互いに・・・」
「そうなんだ・・・そっかぁ・・・」
晶は何度も頷いていた。
「眞希さん、あっ僕、姉さんって呼ぼうかな、眞希姉が良いかな」
と嬉しそうに言う。そして
「あの、僕を、認めてくれる?いや、そもそも僕が父親違いの弟って話信じてくれる?あなた達の弟って」
信じるも何もと思う。
「晶君が私を見る時、律に見られてる様で落ち着かなかった。そんなそっくりな目をした他人なんて、そうそう居ないと思うよ」
「そっかな?やっぱり似てる?僕もそうかなって思ってた。似てるんだあ」
嬉しそうだ。1人で生きてきた律の弟、晶。どんな人生を歩いてきたの?
「あ~そうだ、時間」
言われて時計を見て驚く。終電はとっくに無くなっている。
「・・・兄さんに怒られるな」
晶がニヤニヤして私を見る。
「今日も泊まりでいません」
「えっ?じゃあ早く帰る意味ないじゃん」
「・・・色々あるの」
これから同じ時間を共有していくかも知れない弟、時間を掛けてお互いを知り合いたいと思った。
「律には?律にはいつ会うの?」
晶の目がちょっと泳ぐ。
「もうちょっとしたら・・・自分から会いに行くから、眞希姉もそれまで黙ってて」
秘密かぁ・・・嬉しい事は黙ってるのが難しい。
「努力します」
絶対に喋ったらダメだと念押しされて、連絡先の交換をし、2人で店の外に出る。タクシーを拾ってもらい近い内にまたお店に来てと送り出してもらった。大丈夫だと言ったのに晶は運転手にお金を渡していた。どっちが年上か・・・。昨日の不安が嘘のようだった。早く律に会わせてあげたいと思った。2人の嬉しそうな顔が浮かぶ。私を乗せたタクシーを見送りながら
「あなた達はきっと僕が守るよ」
と晶は呟いていた。
◇
律は3日間の泊まり込みを終えて、夕方には帰ってきたけれど、ひどく疲れた顔をしていて食事もそこそこに部屋に入ってしまった。今迄の仕事でも泊まり込みなら何回もあったけど、こんなに疲れた顔をした律は見た事が無かった。仕事上手くいかなかったのかしら、それとも私が言った事で考えすぎて疲れてしまったのかしら。心配だけど、あまりしつこく聞くのも悪い気がして部屋にも近づけなかった。
律に早く晶の事を伝えたかった。きっと、きっと喜ぶと思う。そして1人で大変な人生を生きてきただろう晶の話を聞いたら、もっと早く会えたら良かったのにって思うはず。晶は母親に捨てられたって言ってた・・・私の母と律の父が結婚したのは私が3才、律が7才の時。私の本当の父は私がまだ1才の頃に病気で亡くなったと聞いていたけれど、律の、本当の母親の事は聞いた事がなかったかも知れない。どうしてお父さんと別れたんだろう。もしかして律も虐待されてたんだろうか・・・。もしそうなら、そんな事お父さんが許すわけない。義理の娘の私にもあんなに優しくしてくれたし、律の事も本当に大事にしてた。もしかしてそれで離婚したのかな。今どこに居るのかな律の本当のお母さん。晶も生きてるか死んでるか分からないって言ってたけど。どんな人なのか会ってみたい。でも、晶は虐待して放置されたんだもんね。律も虐待されてたなら・・・会わない方がいいよね。産んだだけで、虐待や放置する親なんて、どんな気持ちで子供を身ごもったのかな・・・。私は幸せだったんだなぁ。母は勿論だけど父にも、ものすごく優しくされた思い出しかない。家族4人で本当に幸せだったのに。なんで両親は殺されなければならなかったの?今まで封印してきた私の思いと、苦しんできた律の思いをなんとかしたい。・・・律はもう寝てしまったのかな?せっかく帰ってきたのに寂しいと思いながらも仕方なく自分のベットで寝る事にした。律が、泊まりで家に居なかった日よりも寂しかった。
◇
翌朝起きると律はもう仕事に出かけていた。声もかけないで行くなんて・・・もしかして私避けられてる?
一気に不安になる。やっぱり無理やり聞き出そうとしたから?昨日の疲れてた律も私のせい?どうしよう・・・。こんな事になるなんて、私はなんて馬鹿だったんだろう。私が律を幸せにするだなんて、自惚れてた。思い上がりもいいとこだ。ずっとしまい込んでいた気持ちを言わせようとするなんて、話したからって律の気持ちが軽くなんてなるわけないのに。軽くするどころかもっともっと重たくしてしまった。自分に腹がたって涙が出てくる。律の傍に居ても私はなんの役にも立てない。愛する人の力になれないってなんと歯痒い事か。無力感に苛まれながらも仕事に向かわねばならず、ノロノロと支度をして家を出た。
クライアントに迷惑をかけないように懸命に仕事に集中したので終了した時にはどっと疲れていた。切っていた携帯をつけると午前中の内に律からメールが届いていた。慌てて開くと、もしかすると今日も泊まりになるかもしれないので戸締りをしっかりするようにと書かれていた。このままどんどんすれ違っていく気がして怖かった。まっすぐ帰る気になれず晶の店に向かった。
◇
「いらっしゃいませ、あっ眞希姉いらっしゃい」
晶の声になんだかホッとした。
「嬉しい、会いに来てくれたの?」
そう言って笑いかけてくれる晶の目に律を探している自分がいる。最低だ。
「疲れてるの?美人が台無しだよ」
からかっても反応の薄い私を心配そうに見る。
「何かあったの?」
声が硬くなる。
「なんでもない」
と無理やりに笑う。バーボンのロックを注文する。晶は他のお客さんと談笑したりカクテルを作ったり忙しそうだった。そんな晶を見ながら律はご飯食べたかななんて思っている。晶が私の前に来る。
「眞希姉、ご飯食べた?」
「・・・あんまり食欲無い」
「どうしたの?兄さんと喧嘩でもしたの?」
「・・・・・」
恥ずかしいけど泣きそうになった。
「ちょ、ちょっと」
晶が慌てるのが可笑しくて泣き笑いになる。近くのカウンター席に座っていたお客さんに
「晶何泣かしてんのよ~」
と突っ込まれて
「僕?あ~モテる男はつらいなぁ」
なんて言うもんだから声を出して笑ってしまって、おかげで涙は止まった。
「マジで兄さんと喧嘩したの?」
「喧嘩はしてない」
「じゃあどうしたの?2日前までラブラブ感満載だったのに。あっ、やっぱり兄さん浮気してた?」
「してないよ・・・多分」
急に自信が無くなる。
「ふーっ」
と晶がため息をつく。
「男と女って不思議だよね。好きな相手の気持ちが自分に向いてるって分かると普通は自信が出そうなものなのに逆になるんだから。片想いの時なんて相手の人が他の人を好きでも振り向かせてやるとか、見てるだけで幸せとか言ってるくせにさ、両想いになった途端に自分を本当に好きかどうか心配になったり、ちょっと声が聞けなかったり電話に出なかったり、メールの返信が遅かったりするだけで気持ちがグラグラしちゃう。相手の言動に一喜一憂するの。大の大人が恥ずかしいけどね・・・」
「・・・」
「相手の気持ちをもっと信じられれば良いのにね。結局人は自分が1番なんだよね。どんなに愛してるって言われたって相手の気持ちを信用出来てないんだから」
晶は他のお客さんの相手をするために私の前から離れる。晶が言った事を考えてみた。本当にそうだなと思う。律は私にちゃんと気持ちの整理がついたら話すって言ってくれた。仕事が忙しいのも本当だろう。朝私を起こさなかったのも考えたらいつもの事だ。私が起きなかっただけ・・・。半年前まで、お互いの気持ちを知る前までなんて、ご飯を食べたか泊まりかなんてあまり心配しなかった。つくづく私は自分勝手だと、律に愛される資格はないんじゃないかとまたへこみ始める。晶が戻ってきて
「またそんな顔してる!そんなに兄さんの事が信用出来ないの?」
とちょっと怒って私を睨む。睨むと益々律に似てると思ってしまう私は本当に最低だ。
「眞希姉の事をずっと傍で見守ってきてくれたんでしょ?何年一緒に居るの、何年愛されて来たの?」
目頭が熱くなる。
「分かってるよ、分かってるのに律の気持ちを疑った自分が情けないの。律に何もしてあげられない自分が歯痒くて、律を傷つけた自分が許せないの」
俯いた私の頭をよしよしと言って晶が撫でる。
「私の方が年上なんですけど」
と涙目で見上げると晶が笑ってる。
「これじゃ兄さんじゃなくても心配で目が離せないね」
そういうと私の前にクラッカーとチーズを出してくれた。
「空きっ腹にお酒は良くないから、食べて」
そういうと他のお客さんからの注文を受けて仕事に戻った。
1時間程晶に相手をしてもらって家路につく。
下まで見送りに来てくれた晶に
「ごめんね、色々」
と言うと
「なんか姉の恋愛相談に乗るとか、ちょっと嬉しかった」
と言われて恥ずかしかった。また来るねと言って別れた私達を離れたところから見ている人影があったのには2人とも気が付かなかった。
◇
マンションに着いて玄関の鍵を開けると明かりがついていた。
「律?」
「おかえり」
律がソファから立ち上がって近づいてくる。
「ど、どうしたの?泊まりじゃなかった?」
「帰る前にメール送ったんだけど、見なかった?」
「!」
見てなかった、最悪。
「あれ?飲んで来た?」
「うん、ごめんね」
「謝らなくて良いよ別に、仕事だった?」
「・・・うん」
1人で落ち込んで義弟に慰めて貰ってたとは言えない。
「し、仕事は?大丈夫なの?」
「あぁ取り敢えず、終わらせる事が出来て安心したよ」
本当にホッとしてるのがわかる。
「昨日の夜つらそうだった」
「ごめんな、昨夜は。3日間ろくに寝てなかったから」
本当に仕事でしんどかったんだ。ホッとして律に抱きつく。
「眞希?」
「私、私、律に嫌われたのかと思った」
「えっ」
「ごめんなさい」
「えっ、いやごめん、なんか不安にさせてた?もしかして」
律の腕の中でこくんと頷く。
「ごめんな、本当に。クライアントから納期前に急に変更かけられてスタッフ全員泊まり込みでようやく仕上げられたのが昨日の夕方でさ、みんな寝てないから一旦解散して、最終で今日も帰れないかと思ったんだけど、どうにか終わったよ」
良かった・・色んな意味で良かった。
「おかえり律、お疲れ様」
「うん、ただいま。部屋に電気ついてなくてちょっと・・・寂しかった」
律が最後の言葉を耳に囁きかける。全身がその声に反応してとろける。律が私の身体を強く引き寄せ唇を重ねる。私は律の首に腕を回した。
◇
晶が最後の客を送り出して看板を消し、シャッターを閉めようとした時、女がふらっと中に入って来た。少し驚いた晶の目と、女は同じ目をしていた。
「驚いた、来るの随分早かったね」
晶が女に向かって言う。
「可愛い息子に会いたいなんて言われたら来ないわけにいかないだろう」
そう言う女に、晶は自分の感情すべてを殺して笑いかける。
「会いたかったよ、母さん」
◇
晶は自分が先に階段を上がって女を店の中に招き入れた。
「これがあんたの店なの?銀座で店を持つなんてすごいじゃないか、さすがあたしの息子だよ」
ニヤニヤと身体を擦り寄せながら、店の中を見回す。きっと頭の中でそろばんをはじいているのだろう。
「僕のじゃないけどね。任せてもらってる」
「なんだ、人のか」
あからさまに興味を失う。
「15年振り?母さん元気にしてた?」
「急に電話がくるからびっくりしたよ。どうやって居場所調べたのさ、だいたいなんなのよ急に呼び出して、金なら無いよ」
この女の頭には金の事しか無いらしい。
「違うよ、お金の話じゃ無いよ。そうだ、何か飲む?」
「あんたがご馳走してくれるの?気前が良いねえ。じゃぁ瓶ビール」
「瓶?」
「そうだよ、蓋はあたしが開けるよ。毒でも入れられると困るからね」
その言葉に驚いて苦笑する。
「なんで僕が毒なんて入れると思うの?」
「15年も前に捨てた息子に会いたいって言われたって、何か魂胆があるんじゃないかって気味が悪いだけだろ」
晶はついにこらえきれなくなって声を出して笑う。
「散々虐待した息子だもんね。自分のしでかした罪は理解してんだね。じゃなんで今日は来てくれたの?」
冷蔵庫からハイネケンを出してきて渡す。
「男がさ」
「男?」
「今の旦那がどうしようもない屑でさ、お金稼がなきゃなんないのよぉ。ねぇちょっとどうにかならない?」
結局金か・・・。
「僕の聞いた事に答えてくれたらお金渡しても良いけど・・・」
晶はあくまでも味方のフリをする。
「なにが聞きたいのよ」
「僕の父親って今どうしているの?」
「あ?そんな事?知るわけないじゃない、だいたいさ」
昔を思い出しているのか天井を見てニヤけていた。
「あたしは若い頃からもてたのよ。あちこちから声がかかってさ、フフッ、独り寝なんかした事無かったわよ。まぁそれは今もだけどね」
汚くていやらしい笑いを浮かべているのを見て虫酸が走る。
「あんたの父親なんて誰だったか、多分そうだろうと当て込んでその時付き合ってた中の1番金持ってる男に子供ができたって言ったらさ、フフッ、父親にはなれないってお金を送ってきたのよ。それも結構大金。あっはっはっはっ。言ってみるもんだよね。だから他の男に金渡して籍いれてもらってあんたを産んだんだよ。あんたが産まれたら、養育費をまた送ってもらおうと思ってさ」
こんな女から産まれたのかと思うと晶は自分の身を呪うしかなかった。
「じゃぁなんで、金の卵の俺を捨てたの?俺が居れば養育費貰えたんだろう?金に困らなかったんじゃないの?」
「フン、死んだのよ。役に立たない、これからもっと金のかかるって時にさ。なんであたしばっかり不幸なのか腹が立って」
「腹が立って?」
ハッとして口元に手をあてる。
「それで僕を捨てたの?」
「いや・・・。ちょっと、ビールもうないよ、ちょうだい」
冷蔵庫からビールを出して渡す。
「僕、母さんが居なくなって、あちこち探したんだよ。健気だと思わない?あんなに殴られたり蹴られたりしたのにさ、親が居なかったらどうやって生きて行けばいいのか分からなかったから。まだ小学生だったし・・・。母さんのタンスの引き出しとか開けてさ、どこに行ったか分かるものないかなって思って」
「なに、文句言うために呼んだの?今更そんなの」
「文句を言いたくて呼んだんじゃ無いよ」
口元だけで笑う。
「まあ恨んだ時期もあるけどさ、今の僕があるのは母さんが産んでくれたからだしね、これからは僕がお礼をする番だなと思ってさ、それで探したんだよ」
「はっはっ、嬉しいねぇ。まったく男運が無いと思ってきたけど、息子には恵まれたね~産んでおくもんだね」
本当のお礼の意味を女はまだ知らない。
「引き出しには知らない人の住所とかあとなんか領収書とか督促状とか。督促状はいっぱいあったな」
晶は思い出して呆れたように笑う。
「引き出しの住所なんて・・・昔の男のだろうきっと。それに督促状なんて一緒に住んでた奴が置いてったんだよ」
「もうひとつ質問、子供って僕だけなの?」
「何、なんで?」
「いや、随分モテたみたいだし、もしかして僕に妹とか弟とか居ないのかなって」
兄は?とはあえて聞かなかった。
「居ないよ居ない。あんた産んでしばらくしてちょっと病気してさ、子供が出来なくなったのよ。ちょうど良かったけどね、子供なんて居たって邪魔になるだけ、あっ、あんたは別よ~あんたは」
こんな女が母親って絶望的な気持ちで育つ子供が僕と兄さんだけで良かったよ。晶の目に鈍く闇が灯る。
「ねぇそういえばさ、15年前に母さんが居なくなった日。確か4月26日だったと思うけど」
「・・・何?」
「あとからさ、母さん居なくなって2週間位過ぎてから警察が来てさ」
「・・・」
「僕てっきり母さんが居なくなったから通報されたのかと思ったんだけど、違ってて、4月26日の母さんの所在を確認に来たんだ」
女の表情は見えない。
「・・・それで?」
「僕はなんとくなく、母さん戻ってきた時に喜んでくれるかもしれないって考えて、その日、母は風邪をひいて寝ていましたって答えたんだ」
女は驚いた表情の後に満面の笑みを浮かべる。
「やっぱりお前はいい息子だよ」
「だけど警察が来るなんてさ、なんだったのかな、あの日って」
「さぁ~なんだかね。警察なんてろくなもんじゃないからさ。罪も無いのに偉そうに呼びつけたり、そのくせ個室に2人っきりだといやらしい目であたしを見たりしてさ、まったく。あんたもよく覚えてるね、そんな15年も前の話」
少し訝しげに晶を見た。
「だって、母さんが居なくなった日だったし、それにほら、覚えてない?なんか殺人事件があったの」
女のビールを持つ手が止まった。
「確かまだ犯人捕まってないんじゃなかったっけ?そうだ、なんか久しぶりに母さんを見て思い出しちゃったよ。僕ね、引き出しの中の住所とかにも探して行ってみたんだよ」
女の顔が歪んだ。
「・・・それで」
睨む様に晶を見る。
「探して行ったんだけど、ダメだった」
「何が?」
「殺されてたから、会えなかった」
女の顔が更に歪む。
「偶然にしては出来すぎた話じゃない?」
晶は女にニッコリと笑いかける。
「あ、あたしには関係ないよ」
「そうなんだ、僕はてっきり母さんが殺して逃げたのかと思ったよ。だから警察が所在を確認に来た時も嘘をついたんだよ」
「な、何言ってんのさ、何かあたしが関わったっていう証拠でもあるのかよ!」
ガタンと立ち上がった拍子に椅子が倒れる。
「落ち着いてよ、別に僕は母さんを警察に突き出したい訳じゃないんだから。まぁ僕も人に言えないような事結構やってきてるしね。だいたい15年も前の話だし、もし関わってたとしても別に僕には関係ない。ただ事実として思い出したってだけだよ。母さんが出ていった日に殺人事件が起こって、殺された家の住所を母さんが持っていたって事。・・・ねぇ、あの家に行ったの?」
「・・・」
何も答えないで髪をぐじゃぐじゃといじる女に
「まぁ答えなくても良いけど、これがお金に替わる最後の質問だった」
と晶が笑ってみせる。
「・・・あたしにだって色々あったんだよ。何もかも上手く行かなかった。あんたが居たせいですぐに男には逃げられるし、金ズルの男は死んじまうし。そんな時に昔の男が何不自由なく幸せに暮らしてるなんて聞いたら腹が立つだろう?籍だって勝手に抜きやがって、こっちが騙してた事をバラしたって怒るどころか幸せだなんて言われたらさ、なんだか自分が地べた這いつくばってるちっぽけな虫けらみたいに思えてきて・・・。それにあの女、あたしを憐れむように見やがった。幸せにを見せびらかす奴らが憎かったんだ」
目にチラリと狂気が蠢く。
「・・・まぁ万が一あたしがあの家に行ったとして、あたしがやったっていう証拠はない。あんたの言う事件にもし関わってたとしてもだ。それに15年も経って未解決なんだろう?もう終わった事なんだよ。誰も気にしてない」
やっぱりあの事件の犯人はこの女なんだなと晶は思った。
「そうだね。ねぇこれは質問とは別の興味、15年間もどこで暮らしてたの?見つけるの苦労したよ」
「今の時代お金さえあれば身を隠すくらいなんでもないのよ。問題なのはむしろお金を稼ぐ方」
鼻で笑う。
「あんたが連絡してくるなんてちょっと身構えたけど、こんな立派になって金を稼いでるなんてさ、これからせいぜい恩返ししてもらわないとね」
化け物だなと晶は思った。
「とりあえずさ、今日母さんが来るとは思ってなくてお金の準備が無いんだよ」
そう言うと晶は財布から10万円を抜き取り女の手に握らせる。
「次いつ来れる?それまでに準備しておくよ」
女は満面の笑みを浮かべて晶を見る。
「儲かってんだね。明日は用事があるから・・明後日また来るわ」
「わかった、待ってるよ」
貼り付けた笑顔で送り出す晶に、女は笑いもせずに言う。
「今のあんたがこんな良い場所に店持たせてもらったり、可愛い子とよろしくやったり出来るのもあたしが産んだおかげだろ?何を考えて恩返しなんて言ってんのか知らないけど、これ以上あたしの事詮索するならあの可愛い子に責任取って貰うからね」
とニタニタと晶を見る。
「可愛い子?」
「あぁ、ここには結構早い時間に着いたからね。ちょっと外で店の様子を見てたのよ。他の客は送らなかったのに、あの子だけ外まで送ってきて見つめあったりしてさ、誰が見たって良い仲だってわかるよ」
晶の表情が曇る。眞希を見られていた。だが、眞希の顔を覚えていない?そうか事件の日も会ってないし、直接は知らないのかもしれない。
「あぁ、あれは結構なお金を落としていってくれる客だよ、僕が好きで通って来てるから優しくしないとダメだろう?」
そう言うと
「悪い男だね~でも子供なんて出来ないように気をつけなよ、ああいう女はすぐに結婚とか迫ってくるよ」
と、まるで自分を棚にあげて笑う。晶は思わず拳を握るが
「そんなヘマはしないよ」
と笑顔で答えた。じゃまた明後日と言い残して女は上機嫌で帰っていく。姿が見えなくなるまで見送ると晶は電話をかけた。
「・・・・あ、ママ?晶・・・うん、今日、来た・・・うん、あんまり早くて僕もビックリしたよ・・・うん。カマかけて聞いた・・うん、多分間違いない・・・ママ、例の物準備お願いします・・・ごめん、もう決めた事だから・・・ママに救って貰った命で、誰かの役に立ちたいんだよ。求められて答えるんじゃないんだ、僕が求めてるの・・・嬉しいんだよ僕は・・うん、分かった、ありがとうございます。じゃ・・・心から愛してる」
◇
翌日は律も私も揃ってお休みだった。律はどこかに行こうと言ってくれたけど、仕事で疲れてる律にゆっくり休んで欲しくて家でゴロゴロする方を選んだ。起きるのも遅かったからブランチでもと話していると私の携帯が鳴った。晶からだった。慌てて出る。
「もしもし、どうしたの?」
「ごめん、眞希姉、急に。あのあと兄さんとは仲直り出来たの?」
「大丈夫だよ、昨日はありがとうね。うん、あの~私の考えすぎだった」
「良かった、何とかは犬も食わないだね、本当に」
電話の向こうで笑ってる。
「どうしたの何かあった?」
「うん、あのさ、兄さんって今日の夜居る?」
「律なら今日お休みでずっと家に居るよ」
律に聞こえないように話しながらも、いよいよご対面かなとワクワクして私の声が弾む。
「本当に?どうしようかな・・・あの、急で申し訳ないんだけど会って話したいんだ。迷惑じゃないならこれからお邪魔しても良いかな」
なんだか晶の声が重い。
「全然大丈夫だよ、待ってるから来て」
「じゃ1時間後に」
そう言って電話を切った。沈んだ声の晶も心配だったけど、これから来る事をどんな風に律に伝えたらいいのか悩む。
「誰から?もしかして仕事になった?」
私が困った顔をしていたのか律が聞いてくる。
「ううん」
さて、困ったなぁ。
「えっと、律に会わせたい人が居るの」
「!それってドラマとかだと娘が彼氏を初めて家に連れてくる時に・・・」
最後は言葉にならない。
「んなわけないでしよ!」
何を言ってるのだ律は。
「えっと、律に、私達に、とっても縁のある人」
律は不可解な顔をしてる。
「親戚・・・の誰か?」
「まあそんなところ」
間違いではない。
「1時間後にここに来るから、それまでにご飯食べちゃいましょ」
私はいそいそと食事の準備を始めた。
◇
玄関のチャイムがなる。律をソファに座らせて私が迎えにでる。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
晶の顔が少し青い。
「緊張してるの?」
「そ、それはもう・・・ずっと会えるのを夢見ていた。けど、本当だったらもっと気持ちに余裕のある時が良かった」
困った様に頭をかく。
「大丈夫?」
会わせていいのか心配になってくる。
「うん」
晶を後ろにリビングに入って行く。
律は立ち上がって待っていた。
「えっと、律、こちら晶君、あれ?名字聞いてなかった」
私の脇を抜けて前に出た晶が
「初めまして、河上 晶です」
と律に向かって手を差し出す。
「河上 晶君?」
親戚に居たかなと思いながら手を差し出そうとした律が晶の顔を、目を見て固まる。
「僕達の母は山口 吉江です」
律は目を見開き、眉を顰め目を泳がせそしてまた晶を見る。そして私を見る。
「あの、あのね、私が偶然入ったお店に晶君が居てね、ほら、目、律も気づいたでしょ、目が律にそっくりで、私も最初びっくりしたんだよ。で、話きいてもっとびっくりして」
あたふたと私が2人の間に立って説明をする。律の顔がどんどん険しくなってくる。
「眞希」
低く怒ったような声で名前を呼ばれて身をすくめる。
「・・・はい」
「悪いけど、2人にしてくれないか?」
「えっ?なんで?私が居たらダメ?」
「・・・頼む」
感動の涙の対面になると思ったのに、律を怒らせてしまったようで晶に助けを求めるが
「ごめんね、眞希姉。そうしてくれる・・・」
と、すまなそうに言ってくる。仕方なく、このあとの展開がものすごく気がかりだけど家を出る。事前に晶の事を話しておけば良かったと、また律に嫌な思いをさせてしまったと悲しくなる。
眞希が出て玄関が閉まると
「どういうつもりで眞希に近づいたんだ」
律が目線を外さずに晶を睨みつける。
「待ってください」
晶が律を落ち着かせるように静かな口調で話し出す。
「何か勘違いをしてると思います。眞希姉とは、いえ眞希さんとは本当に偶然に会ったんです。それに、僕はあなた方の味方です」
晶が静かに微笑む。
「味方ってなに」
律はまだ緊張を解いてはいない。
「まず、僕の話を聞いてください。名前はさっき言いましたね。河上 晶 23才。晶って呼んでください。僕達の母親は旧姓だと山口 吉江、母の名前は知ってましたか?僕と律さんは父親が違う兄弟です」
「・・・」
律は何も答えなかった。
「母は、あの女は今、東京に、僕達の傍に来ています」
その事に律が激しく反応する。
「こ、ここを知ってるのか」
晶に掴みかかるかと思うくらい前のめりになる。
「大丈夫です。ここは分からないと思いますよ。今は僕の知り合いが見張ってくれてます」
「見張る?」
「あっ、いえ、とにかくさっきも言った通り僕はお2人の味方です。15年前のあの事件からずっと・・・」
律がハッと晶から離れる。
「少し、落ち着いて話しませんか?僕座っても?」
そう言うとソファに座る。律も反対側に座った。
「突然押しかけて来てしまってすみません。本当だったらもっと段階を踏んで律さんの前に立ちたかった」
残念そうに目線を下げ、そしてまた律を見る。
「時間が無いんです。今日はあの日の、事件の事を確認したくて来ました」
律はきつく手を握りしめ晶を睨む。
「・・・君は何を知ってるの?」
不安を悟られないように晶を見る。
「どこから話せばいいのか・・・あの日、事件のあった日、あの女は家を出てそれっきり帰ってこなかった。僕は8才で親に捨てられてどうしていいか分からなくて家中調べたら引き出しに井岡家の事が書かれた紙が入ってた」
「なにが書いてあった?」
「住所とか家族構成、仕事先の住所とか諸々身辺調査的なもの。あと、あの女が2才位の僕じゃない男の子と一緒に笑ってる写真、裏に名前と生年月日が書かれてた。それで僕はピンと来た。僕には兄さんがいるんだって。だって目が、もう僕と同じだから」
晶は嬉しそうに少しだけ笑った。
「それであの女が僕を捨てて兄さんのところに行ったのかもしれないと思って見に行ったんだ家まで」
律はぐっと歯を食いしばっていてこめかみがピクっと動いた。
「家には黄色いテープが貼られていて誰も、警察以外は入れなかった」
律は目をつぶる。
「それで僕は初めて事件を知って調べた。最初はあの女が巻き込まれたのではと思って、心配で。だけど調べていくうちに思い始めたんだ。あの女がやったんじゃないかって」
律をしっかり見る晶の目、いやあの女の目、あの日、律の腕を笑いながら折った目。律の顔が恐怖で歪む。15年間誰にも明かす事のなかった真実が体の奥から這い出てくるのを感じて思わず体を硬直させて目をつぶる。
「つらいあの日を思い出させるのは申し訳無いと思うけど、真実を知りたいんです。本当の犯人が誰なのか。律さん、警察に疑われたり嫌な思い散々したのに、なぜ本当の犯人を言わないで庇ったのか?自分の父親を、眞希さんの母親を、2人の両親を殺した犯人をなぜ警察に言わなかったんですか?」
晶の目を見る事ができなかった。あの女に見られているようで恐ろしかった。あの日俺達の両親を殺して俺の腕を折りケラケラと笑っていた女、朦朧とした意識の中で聞いた言葉。殺された両親の仇を取るよりも選んだ最後のあの女の言葉。
「俺は・・・」
どう話せばいいのか、それより話していいのか。
「君が・・・君が俺達の味方だとなぜ信じられる?俺には君を信じる理由がない」
「それは」
晶が言い淀む。
「それは信じてくれと言う以外にないです」
睨み合う様に見合う。律は訝しげに、晶は信じて欲しい一心で。
そして・・・律が意を決して話し出す。
「あの日・・・」
15年間誰にも言わなかった秘密。眞希に絶対に言えなかったあの日の事。
「あの日は物凄い雨と風で春の嵐って言われた日だった。その日は塾だった。びしょ濡れになって帰ったら玄関に鍵がかかってなかった。いつもと様子が違うと思って玄関を開けたら知らない女の靴があった」
思い出すようにゆっくりと話し出す。
「リビングの方から明かりが盛れていてテレビの音と笑ってる声が聞こえた。だけどよく聞くと笑ってるのは一人だけであとは泣いてるような呻いてる様な声だった。テレビの音とも少し違っていて不思議な気持ちでドアの隙間を覗いたんだ」
握ってる拳に更に力が入って白くなる。
「そこにはあの女が居た。テーブルの上に立って笑ってたんだ。手には何かバットみたいな棒が握られてた。下を見たらイスが倒れて父さんと母さんも倒れてて呻いてて」
律の体が震えて、目はギョロギョロと何かを見ているように動いている。
「思わず声を出してしまって女が気づいた。あぁおかえり、律遅かったねって普通に何事も無いかのように俺に言った。最初誰だか分からなかったよ、だって小さい時に別れた母だなんて。女がテーブルから下りて俺に近寄ろうとした時、父さんが、倒れてた父さんが」
律の言葉は泣き声に変わった。
「殴られて倒れてた父さんが律に構うなってあの女の足にしがみついて、そしたらあの女がまた父さんを殴って!何度も何度も」
律は言葉を失う。
「父さんは動かなくなった。俺はその場に立ち尽くして何も出来なかった。父さんが殴られてるのに、情けない事に俺を助けようとした父さんが殴られてるのをただ・・・・」
律は顔を覆い苦しそうに呻く。言葉が続かない。晶は黙って律を見つめていたが、その目にもつらい色が浮かんでいた。
「女がニヤニヤ笑って俺に近寄ろうとした時に、律逃げなさいって母さんが。そしたら女がうるさいって叫んだ。だけど俺そこでハッと我に返って、女が母さんを殴ろうとしてたから棒を掴んで止めさせようとしたんだ。だけど女が滅茶苦茶に振り回してそれが俺の頭に当たった。衝撃がすごくてその場にうずくまったよ。そしたらあの女がごめんねだけど律が悪いんだよ、こんな女庇うからって。その後はなんで自分がこんな事してるのかペラペラと話し出した」
◇
女は悪いのは全部律の家族だと言った。律が2才になる頃、子育てに疲れて家を出て行ったのも父さんの愛情が薄かったからだと。それでもいつかは戻ろうと思ってたのに気がついたら籍が抜かれてて他の女と結婚してたって。自分が苦しんでる時に幸せ家族なんて見せびらかされて腹が立ったと言った。本当は薬で眠らせて金目の物だけ取って行くつもりだったのに突然訪ねて来ても嫌な顔もせず、行方が分からなくなって5年の間探してたなんて言ったくせに縁あって今の妻と結婚したかったから籍を抜いてしまった、すまなかったと謝られたらもう我慢できなかったって。そして秘密にしてた事を父に言ったって。
「俺が、俺が本当は父さんの子では無いって事を」
晶は目を見張った、そんな、あの女は同じ事を繰り返していたのか。
「何を言ってるのか分からなかったよ。俺は父さんと血が繋がってなかった・・・。嘘だとあの女に言ったんだ、信じられないって、そしたらあの女がゲラゲラ笑って父さんと同じ事言うんだねってさ、作ったあたしが言うんだから間違いないよって、だいたい律はあたしに似てるけど、あの男にどこかひとつでも似てるところあるのかいってさ。本当の父親に逃げられたから、人の良い父さんに近づいてできちゃった婚をでっち上げた。仲良し家族なんてまやかしだ、他の男の子供をバカみたいに育てて、血の繋がりも無いくせにって叫んだって」
律はもう泣いていなかった。抜け殻のように暗く沈んだ目だけを前に向けて話続ける。
「それでも、父さんは俺を、律は俺の息子だって言ったって。正真正銘俺の息子だって。そしたら母さんも、間違いなく律は私達の家族だからって。万が一血の繋がりがなくたって私達は胸を張って家族だって言えますって言うからもっと腹が立って気がついたら殴ってたって言うんだ 。どう聞いたって理不尽だろう、父さんと母さんのどこに落ち度があった?あの女の勝手な逆恨みでしかない。血の繋がりが無いってわかっても俺を家族だと言ってくれた両親が俺と血が繋がってるってだけの知らない女に殴られてるのってどう理解すれば良いんだ?血の繋がらない俺の事なんか知らないって、いらないって言ったら殴られて殺される事はなかったって事か?ならそう言ってくれれば良かったんだ。俺の事なんてしらないって、俺のせいで、両親は、俺の俺の俺の」
晶は律の肩を揺する。
「律さん!律さん!兄さん」
ハッと我に返った律が晶を見つめる。
「兄さん、律さん、あなたのせいじゃないんだ、あの女はそういう身勝手な女なんだ。きっとあの時ご両親があなたを疎んだとしてもそれが気に入らないと殺してたはずだ、あの女はそういう女なんです」
律は静かに泣いた。涙があとからあとから流れたが拭いもせず流れるまま泣いていた。晶も胸が詰まって一緒に泣いていた。
「あの父さんを優しかった母さんをこんな目に合わせて、俺は許せなかった。俺は剣道を長くやっていたから竹刀さえあれば勝てると思った。竹刀に代わる物さえあれば」
律はまた思い出しながら話し始めた。
「竹刀はすぐ前の廊下の物置に置いてあった。それを取りに行こうと思った。あの女の隙を付いて廊下に出た時、母さんの悲鳴が聞こえた」
律はまた震え始める。
「慌てて部屋に戻ると母さんが殴られてた。どこに行くんだって俺を睨んであの女が母さんを殴ってた、やめろって言った、母さんを殴るなって。そしたら母さんを殴られたくなかったら俺に代わりになれって言ったんだ。勿論俺を殴れって言った好きな所を殴ればいいって。剣道をやってる事を知ってたんだろう。腕を出せって言った。いいのか竹刀は2度と持てなくなるぞって。勿論構わないと言った。そしてあの女は笑いながら俺の腕を折ったんだ・・・さすがに意識飛んだよ、母さんを守らなきゃいけなかったのに」
やっぱりあの女は化け物だ、生きている資格はないと晶は思った。
「すぐに腕の痛みで目が覚めたが朦朧としてた。あの女が妹はどうした?って聞いてきた。俺が何も言わないと母さんをまた殴った。悲鳴が、母さんの悲鳴が」
律は耳を塞ぐ。
「・・・今は合宿で家には居ないって言ったんだ。あの女は会えなくてガッカリだって言った。また会いに来ようかなって。俺は絶対に眞希には会わせたくなかった。その前にこんな事したんだから警察に捕まる、警察を呼ぶって言ったんだ。母さんも父さんも早く病院に運びたかった。だけどあの女は動じなかった。警察から逃げてる間に戻ってきて眞希を殺すって言ったんだ。あの女なら間違いなくやりそうな気がした。それに、俺のせいで、血の繋がらない他人の子供を守ったせいで両親がこんな目にあったって知ったら妹はどう思うかなって、俺の顔ニヤニヤ見ながら言うんだ。両親を痛めつけた犯人が大好きな兄ちゃんの本当の母親だって知ったらって・・・俺はどうすれば良かったんだ?警察にあの女が犯人って言わなかったら眞希には手を出さないって言ったんだ。母さんの事も、もう殴らないって。俺は女が居なくなるまで警察には通報しないって言った。あの女の言う通りに家中の窓を開けて雨風で証拠をダメにした。そして警察には犯人は男だって言った。母さんを守りたかった、眞希を守りたかった。眞希にあの女の息子だと知られたくなかった・・・あの女を庇った訳じゃない、家族を眞希を守りたかったんだ」
律は全てを話してぐったりと力尽きた。
「律さん、つらい事を話してくれてありがとうございました。ここから先は僕が、僕があの女の責任を持ちますので、律さんは眞希姉と、眞希さんと幸せになってください。もっと違う形で会いたかった・・・。律さん、兄さん、あなたが兄さんで良かった」
晶はそう言って部屋を出ていった。律はもう晶に声をかける気力もなくなっていた。
◇
晶から携帯に連絡があったのは家を出てから2時間ほど過ぎた頃だった。
「ごめんね、眞希姉、話終わった」
「律は、律はなんて?」
「眞希姉、よく聞いてね。今日話した事知りたい気持ちはわかるけど、いずれ時間が解決してくれるから、あまり兄さんに聞かないであげて」
「律と何を話したの?もしかして揉めたの?」
「違うよ、だけど・・・今ハッキリと言える事、兄さんはずっとずっと眞希姉を守ってきた。それはわかるよね?」
「うん・・・」
「事実はそれだけだよ。過去なんか関係ない、今を生きてる2人が大事でしょ?」
「だけど・・・」
「眞希姉が真実を知って、もしも兄さんが離れていってしまったら?」
「やだ、律と離れるのは嫌だ」
「なら、無理に兄さんに聞かないで、いずれ、きっと近いうちに耳に入ってくるから、ね」
よく分からないけど、律を信じていればいいと眞希は思った。
「分かった」
「それから、今帰っても、もしかしたら兄さんは眞希姉と顔を合わせようとしないかもしれないけど、それでも信じて待っててあげてね」
「晶君、律とはいったい・・・いい、ごめん聞かない」
晶はありがとう、兄さんをお願いしますと念押しして電話を切った。律が心配だった。買い物をそこそこに切り上げて家へ向かった。
「律?」
律は家には居なかった。電話をかけようかと思ったけどやめた。きっと1人で考える事があるんだ。私はご飯を作って律の帰りを待とう。
◇
晶が店に戻ると携帯が鳴る。
「・・・ママ・・・うん、会ってきた・・・もっと、もっと違う形で会いたかった・・・そうだね・・・僕の、僕の家族・・・血の繋がりなんて厄介だと思って来たけど、繋がってる事がこんなにも心を熱くするんだね・・・うん、ごめんね、明日はお店おやすみにする・・・なるべくママには迷惑・・・ありがとう。ママ、ママには本当に感謝してるんだ・・・僕の欠けた部分に収まってるのはママだけだよ・・・人として立って歩けるのも・・・うん、悲しませてごめんね・・・雪乃、愛してる、心から」
目をつぶり想いを込めて電話を切る。
晶は自分の頬を伝う涙を驚いたように拭う。ダメだなやっぱり、愛する者が増えると人は弱くなるんだな。1度泣いてしまったら泣かずにはいられなくなるんだな。兄さんは大丈夫だろうか、過去の自分を許す事はできるだろうか、15年も封印してきた自分を。僕も、僕を解放しよう、少しでも愛する者の役に立てるなら、この内の闇を解放してそして飲み込んでしまおう。飲み込んで過去と共に葬ってしまおう。
◇
夜暗くなって律が帰ってきた。静かに、私の元に。泣き腫らした顔を伏せようともせずに、頬に流れた涙の跡を拭おうともせずに。
「律、おかえりなさい」
「・・・ただいま」
「お腹空いてない?私空いてる。一緒に食べよ」
「・・・その前に話があるんだ、前に眞希と約束した話を」
「律、今じゃなくたっていいよ」
私を見つめてフッと寂しげに笑う。
「晶君になんか言われた?」
「違っ、・・・律が話をした事で私から離れて行っていなくなっちゃうなら聞かなくていい」
「晶君がそう言ったの?」
躊躇いがちにコクンと頷く。
「晶君は・・・間違ってる」
俯きがちにフフッと笑う。
「僕の話を聞いて離れて行くのは眞希、きっと君の方だよ」
「・・・私は離れたりしない。もしも、もしも話を聞いて私も傷付いたとしても律から離れたりしない。だって律の傍にいられない事の方がずっとずっとつらいから。私は律に、話す事で楽になって貰いたかったの。1人で抱えてるのがつらそうだったから。でも律は今、晶君と話した事で既に傷付いてる。そうでしょ?私に話す事で律が更に傷付くなら今は聞きたくない、聞かなくていい。自分がもっと傷付くかも知れないのになぜ今話すの?話を聞いたら私の方が離れて行くって言ったよね?良いの?律は、私が離れて行っても、それとも離れていって欲しいの?」
律は黙ったまま俯く。
「俺は・・・ずっと眞希を守ってきたつもりだった。・・・だけど、本当に守っていたのは自分の事だった。自分の醜い欲望だけ、眞希に嫌われないように、眞希が離れて行かないように・・・晶君と話していて気がついてしまった。15年間も俺は自分の欲望の為に眞希を裏切ってきたんだと・・・。そんな俺は許されるのか?もし眞希が話を聞いて傷付いても、本音では許して欲しいと思っている俺は許されるのか?ずっと傍にいて欲しいと思っても許されるのか?自分中心でしか考えられない俺の愛はエゴだ。それでも眞希は俺の傍にいられるのか?」
私は思う。それでもあなたを見ている、もがき苦しんでひどく歪んで見えたとしても、と。
「私・・・あの夢の中で何度も息苦しくてつらくて、それでも走るのやめられなくて、なんだろうって思ってた、なんの夢なんだろうって。得体の知れない、それでも愛しい生き物の命を守る為に何度も心臓が止まりそうだったり苦しかったり血を流す瞬間を見たり。だけど、なんとなく分かったの」
そう、ようやく分かりかけてる夢の事、夢見た事、どんなに私がもがき苦しんでひどく歪んで見えていても、ずっと、何度でも、そんな自分を見ていてくれる人がいるという事。
「全ては生きているから感じられる事だよ、前に進む事をやめないから感じられる、つらさ、苦しさ、痛み、悲しみ、別れ、そして愛おしさも。感情を向ける相手がいるからそう感じられるって事を、どんなに息が苦しくても、どんなに心が苦しくても。愛する者を簡単には救えない時もあるかもしれない、それでも、何度でも走る。向き合いたい相手がいるから、守りたいものがあるから。だから私はどんなに傷付いても、つらくても律からは逃げない。見続けたい。向き合いたい、向き合って生きたい」
律は苦しそうに、それでも話始める。
「眞希の母さんと俺の父さん・・・俺達の両親を殺したのは、俺と、俺を産んだ母親だ」
眞希は息を飲み、律からの次の言葉を待った。あの日のあの時の出来事が詳細に語られる。私が楽しく友達と過ごしていた時間は家族が地獄を見ていた時間。
「もう、何を言っても言い訳にしかならない。俺は腕を折ったあの女の表情にすっかり支配されていた。眞希とあの女を会わせたくなかった。合わせたら本当に殺されると思ったんだ。父さんも母さんも早く病院に連れて行きたかった、あの場を早く終わらせたかった・・・だからあの女の言う事を全て受け入れたんだ。女が居なくなって直ぐに救急車を呼んだけど、もうその時には・・・。強盗は見た事もない男の人だったと警察に嘘を言った。そして、そのうその中に、俺が父さんと血が繋がってなかった事、その事で俺を庇った父さんと母さんが殴られて殺された事を隠してしまった。眞希に知られたくない気持ちが強くあった。だって俺は、その時にはもう眞希が好きだったから、俺の母親が両親を殺したなんて眞希が知ったらと思うと怖かった。今思えばあの時犯人は俺の母親だって言わなきゃいけなかったんだ、眞希を殺しに来るって言った言葉を真に受けて、自分の嘘を隠す為に、15年も、眞希にまで嘘を突き通して」
律は顔を手で覆って呻くように泣いていた。指の間から涙が零れてくる。眞希は流れて来る涙をそのままにグッと目をつぶって手の甲で口を抑えて声を殺して泣いていた。
律の抱えた恐怖と自己否定の15年、両親が、亡くなるまで受けた恐怖と痛みは想像に余りある。自身の奥底に蠢いていた暗闇は突如白日の下に晒されても尚暗く晴れることは無かった。むしろ闇は深く濃くなった気がする。それでも、15年という時間が私に直接的な痛みを与える事はなかった。
いったい血の繋がりとはなんなんだろう、本来であればさほど意識する事もなく存在していて、多少の窮屈さを感じるかもしれないけれど、生を受けるのには必ず必要なもの。血の繋がりが愛情と直結していると感じてる人が居る一方で血の繋がりが無くても存在する家族もある。そして律の様に血の繋がりに翻弄される人も・・・。
「似てたよ」
眞希がポツンと口にする。
「えっ」
「似てるよ、律と父さん」
律は顔をあげて眞希を見る。
「血の繋がりなんてなくたって、考え方や人に対する接し方、優しさ、あと、好きな食べ物も・・・ふふっ甘い卵焼き好きだったよね、あとコロッケとイワシのみりん干し」
涙を拭って温かい団欒の時を思い出す。
「母さんの作る甘い卵焼き、いつも私達のお弁当用に作るのに父さんがすぐにつまみ食いしちゃうから母さん困ってた。詰め終わって残った1個を律と取り合って子供みたいだった」
律の表情にも思い出が広がる。
「・・みんなでコロッケ作った時、父さんがものすごくおっきいの作って、揚げる時に崩れて大変だったな・・・」
「そうそう、天ぷら鍋の中にパラバラに広がっちゃって、慌ててかき集めてフライパンで焼きコロッケになってた」
次々思い出す、幸せな時間。
「・・・なのに、俺が」
「律のせいじゃない!」
眞希は律の言葉を止める。
「律のせいじゃない、幸せを壊したのは律じゃない。
でも、私は許さないよ、律。律が警察に嘘の犯人を伝えた事。私の命なんて、言えば警察に保護して貰えたはず、律のお母さんが犯人だったからって私が律を、家族だった兄さんを恨んだり嫌ったりなんかしなかったよ、絶対に。そんな事も分からなかった律は許せないよ、バカ。血なんか繋がらなくたって私達は家族だったじゃない。父さんは私の父さんだったし、母さんは律の母さんだったじゃない」
眞希の目にまた涙が溢れる。
「悪いのは犯人なのよ、律の本当のお母さんだろうが誰だろうが、人を手にかけた犯人が悪いの。子供を守ろうとするのは親としての行動だったと思うし、父さんと母さんの人としての曲げられない信念と愛だった。だからその気持ちまでも自分のせいにしてはダメだよ律、最後に取った行動が自分の子供を苦しめてると知ったら2人とも庇い損、殺され損だよ。父さんと母さんの深い愛情を知って逆上した犯人が身勝手な人だったの」
そしてその身勝手な犯人はまだ野放しにされてる。
「律、律を許せないって言ったけど、あの時、律の置かれた状況で正しい判断が出来た人なんていないよきっと、私だって出来ない。父さんと母さんは死んじゃったけど、それでも律まで殺されなくて良かった。私を守ってくれてありがとう。生きて、私の傍に居てくれて良かった。私達が家族になって25年、父さんと母さんはもうこの世には居ないけど、私と律が生きて繋がってる。それは血の繋がりなんかよりもずっとずっと強い、そうでしょ?律」
律は手をきつく握って額に押し付け震えるように泣いている。
夜が、明けようとしていた。
しばらく経って、律が
「朝になったら警察に行って話してくる、晶君があの女が近くまで来ていると言ってたんだ。万が一本当に眞希が襲われないとも限らない」
と言った。眞希はひどく驚き、困惑から不安な表情へと変わる。
「何だかこの1年不思議な流れを感じる。私が夢を見るようになって、律と付き合うようになって。事件の話をしようとして、突然晶君が現れて、そして犯人まで・・・そういえば晶君が止まってた時間が動き出したって電話で話してた・・・」
15年間滞っていた時間が一気に動き出したよう、この後はどうなるんだろう・・・。
「晶君とはどうして・・・」
「あっ・・・私の夢に出てくるお店あるでしょ、あれがね、銀座に本当にあったの。買い物してて道に迷って、そしたら目の前に」
「本当にあったんだ」
「うん、それで気になって行ってみたの。そしたら晶君がいて、目が律にそっくりだったから、驚いた」
「・・・あの女と晶君と俺の血の証だ。疎ましいが同じ目をしている。晶君と話していて恐怖ばかりが先に立ってしまった。悪い事をした、もっとちゃんと向き合わなければいけなかったのに」
「これからもっとゆっくり会おう。晶君ね、私達の事ずっと見ていてくれたんだって。私達が付き合ってるって言ったらさすがにびっくりしてたけど、2人の幸せが僕の幸せだなんて言うの。まだちゃんと聞いていないけど、晶君今まで色々大変だったみたいだから、もし律が受け入れてくれるならもっと晶君と家族みたいに過ごせたら良いなって思ってる」
「良いの?眞希?俺にとって確かに弟になるけど、眞希は無理に」
「無理にじゃないよ。家族が増えるのは嬉しいことだよ、眞希姉って私を呼ぶの、ちょっと可愛い」
私は律にそっと近づく。律は少し身を引く。構わず近づいて律の手を握る。
「律、話してくれてありがとう。過去を無かった事には出来ないけど私達には未来がある。重ねた時間が私達を家族にしたようにこれからもっと時間をかけて本当の家族になりましょう」
「許してくれるのか・・・」
眞希が優しく律に手を回す。
「もう聞かないで。仮に今、私が簡単に、許すと言っても律の気持ちは収まらないでしょ?だから、今ここに律がいて、私がいてそれだけ。それ以上でもそれ以下でもない。ここから始めましょ」
薄曇りの空が明るさを増し夜が明けた事を教えてくれた。
◇
朝の通勤ラッシュを迎える頃、律は何件か電話をかけた後、警視庁特命捜査対策室というところで未解決事件の話を聞いてもらえるからと出かけて行った。律が私を1人にするのを心配し、私も一緒に行きたかったけれど今日は仕事が入っていたので別行動を取る。律は、なるべく人のいないところには行かない事となにかあったらすぐに警察に連絡する事を私に約束させて出かけて行った。
◇
律が出かけて行った警視庁特命捜査対策室で、話を聞いた捜査員達が慌てて動き出していた。未解決事件だけを担当している部署でも15年も経てば事件を全て覚えている人も居ないし、最近では捜査も頻繁にはされていない。なのに急に15年前に嘘で犯人を逃がしてしまったと言う当事者が現れて犯人を知っていてしかも都内に潜伏しているとなれば一刻も早く裏を取って犯人を確保に向かわなければならない。
「私がこうして警察に話している事が知れれば眞希、妹の命が狙われるかもしれないんです。助けてください、お願いします」
「勿論、今捜査員を増やして動いてますから。でもなぜ今になって」
「ずっと話したら殺すと言われた事を思っていたのと情けない自分のせいで・・・」
「と、とにかく今当時担当だった者がこちらに向かっているから。それまでもう1度最初から詳しく話してもらえますか」
律はまた心の闇を人前に晒す。今はもう自分の痛みなど考えてはいられない。それよりも眞希を絶対に守らないといけない。そして晶の事も。今思えば様子が少しおかしかった気がする。あの女の事はまかせてと言っていたし、あの時言った言葉はまるで次に会うことは無いような言い方だった。律は何度も同じ事を聞かれ、何度も同じ事を繰り返し説明した。時間だけが過ぎて行く気がして焦る。早く眞希の傍に行ってやりたかった。
◇
今日の私の仕事はホテルのクリスマスパーティのリハーサルだった。絶対に休む訳にはいかず、律の事が気がかりだったが明後日の本番にミスは許されない。仕事に集中して気がつくともう夕方になっていた。仕事を終えて携帯メールをチェックしながら駅に向かっているが律からはなんの連絡もない。まだ警察にいるという事だろう。どうしよう、警察に向かうべきか悩んでいる時にすれ違った人に目を奪われる。
律の目
律と同じ目の女の人とすれ違う。まさか!目が離せなくなる。銀座通りを横道に入って行く。そんな、間違いないこの方向は、あとを隠れるように追いながら行く先を思う。このまま行けば辿り着くのは、晶の店。女は店の前に着くと辺りを何度も見回してから半分開いたシャッターから慣れたように中に入っていく。看板に灯りはない。どういう事なのか、下りてるシャッターから入って行くって事はここが晶の店だって知ってるって事。一気に不安が吹き出てくる。晶とあの女は今も繋がってるか、でもこの前会った時、律にもそんな事言ってなかったと思う。私達は晶に騙されてるの?しばらく考えるがありえない。違う、晶は私達を騙したりはしない。なら、なぜあの人が今晶のところに・・・。あの人の事を話す時の晶の暗い目を思い出す。私に律をくれぐれもよろしくと言った。急に律と話をしたがった。晶は何をする気なの?何となくこういう時の感は当たる、ロクでもないことが起きるって!どうすれば・・・とにかく、律に知らせよう。
◇
本日閉店の看板を無視してドアが開く。来たか・・・晶はふぅと息を吐き顔を上げ、これから起こる何かに意識を向ける。
「こんばんは、いらっしゃい母さん」
満面の笑みで迎え入れる。女は店の隅々まで見に行って誰も潜んでいない事を確認してからイスに座る。晶が苦笑いしながら
「何してるの?」
と聞く。
「警察でも潜んでやしないかと思ってさ」
女はそれでもまだ安心出来ないのかボックス席側の窓に掛かったカーテンから外を見る。そして何かに目を止め、探るように見てニヤリとするがそのまま晶のいるカウンターまで来て座る。
「なにか飲む?」
「瓶ビール」
「なに、まだ僕を信用しない訳?僕の作るカクテル割と評判良いんだよ、良かったらどう?母さんのオリジナルを作るけど」
18-8ステンカップを指の間に挟んで作る真似をしてみる。
「ハッ」
鼻で笑って
「カクテルなんて1番リスキーな飲み物をこの後に及んで頼む訳ないじゃないか」
相当、身の危険を感じてるのか、野生動物のようだなと晶は笑いそうになるのをこらえる。
「長居はしたくないの、お金さえくれたらすぐに帰るよ」
チッ、晶が心の中で舌打ちする。
「なんでそんなに慌てて帰ろうとするのさ、これからも仲良くやってこうと思ってるのに、何だかお金が惜しくなってきたな」
上目遣いに女を見て寂しげに言ってみる。
「そんな顔はあの子にしてやりなよ」
女が馬鹿にしたように笑う。あの子?。
「なによ、下に来てるよ、あんたのあの子が。呼んできてやろうか?」
「今日休みなの知らなかったんだろう、もう帰ったよきっと」
あの子が誰か分かった晶が思わず早口になるのを女は聞き逃さなかった。ドアに向かうと外に出ていった。チッと晶が舌打ちして後を追う。
◇
眞希は律に電話をかけたがコール音だけで出ない。仕方なくなくメールで女が晶の店にいる事を知らせる。地図を貼り付けて自分が外で見張っているので気づいたら直ぐに来て欲しいと書いて送る。もう1度店に目をやろうと顔を上げて初めて目の前の人影に驚く。
「あんた・・・」
女が私を探るように見ながら言う。
「あんた、晶の女だろ?呼びに来たんだよ、もしかして晶に連絡してたの?こんなのいらないよ」
そう言うと私の携帯を奪う。
「返してください」
面と向かうと益々、目がそっくりだった、否定できない繋がりを感じてしまう。どうしよう、律の話を思い出して背筋が凍る。
「み、店がおやすみなので」
帰ろうとするが前を塞がれる。
「良いんだよ、わざわざ来たんだ、寄っていきなよ」
「母さん」
晶が店から出てくる。私を見ながら
「今日は店、休みなんですよ、すみませんが、また今度・・・」
晶も私を帰そうとしたが女は私の腕を掴んで店へと引き返した。
「母さん、やめてくれ、その人は関係ないだろう」
「へえー庇うんだね、本気なの?この女に」
「僕達の話にこの人は関係ない、手を離せよ」
晶が怒った声で女の前に回り込む。
「へぇ、益々この女は返せないね、出し惜しみしたあんたが悪いんだよ。さあ中で金額の相談をしようよ、ねぇ」
女はすごい力で私を引っ張る。
「やめろって言ってるだろ」
晶が私を掴んでいる女の手を振り払おうとした瞬間
「うっ」
顔をしかめる。
「晶君!手」
晶の手の甲から血が出ている。女の手には果物ナイフが握られていた。
「あたしに逆らうんじゃないよ、さあ、店に入りな」
女は私の首筋にナイフをあてる。ごめんなさい晶君、律・・・メールに早く気がついて。
◇
三人で店に戻る。女はドアに鍵をかけ私の携帯をカウンターに置いた。指紋認証で勝手に見られない事が救いだった。ナイフが首から外された隙に晶の傍に寄って傷にハンカチを当てて止血する。
「ごめん、眞希さん」
「いいえ、私こそ余計な事をしてしまってごめんなさい」
涙が浮かぶが泣いている場合ではない。
「あんた達・・・男女の仲じゃないね?・・・」
「だから関係ないって言っただろ」
晶が私を体で庇いながら女を睨む。
「ふぅーん、まぁもう関わっちゃったんだからしょうがないよね、あんた名前は」
「・・・眞希」
「あたしはね、この子の母親、仲良し親子だよ、ねぇ晶」
そう言われて晶が睨む。
「ナイフなんか持ち歩いてどういうつもり、危ないじゃないか、しまいなよ母さん」
「どういうつもりってのはこっちの台詞だよ、晶。やっぱり腑に落ちないんだよ、15年も経ってあんたがあたしを探して産んだお礼に金くれるって?そんな上手い話ある訳ないと思ってさ。護身用だよ」
ニヤニヤと笑ってナイフに着いた晶の血を見ながら私に目を向ける。
「あんた、警察って感じでもないか・・・騒がないで大人しくしてたらすぐに返してやるよ。ふふっ、多分ね」
晶は少し俯いて考えてから
「金は渡すからとっとと帰って」
そう言ってお金を取りにカウンターに行こうと動くと女は晶にナイフを向けた。
「お金は勿論貰ってくよ。でもさ、その前にあんたにも質問に答えて貰いたいんだよ。なんであたしを探した?」
「フッ、今更産んでくれたお礼って言っても信じないか・・・でもね、お礼がしたかったのはホントさ、違うお礼だけどね」
そう言うと晶は後ずさりながら私の所まで戻ってくる。そして私に小声でこの前の更衣室に入ってと言った。私が心配そうに晶を見ると大丈夫とでも言うように頷いてみせる。
「何コソコソ話してんのさ」
女が私の方に近寄ってくる。
「別に・・・ねぇ母さん、昔の話しようか」
「はぁ?どうせあんたの恨み言じゃないか、聞いてどうすんのさ」
女の返事を無視して話し出す。
「昔さ」
移動しながら女と私の間に立つと晶が目で合図をくれる。うしろを向くと更衣室に飛び込んで扉を閉めた。
「鍵閉めて」
晶がすぐに言う。
「晶、それで守ったつもりなの?フッ、まあいい2対1じゃどっちにしても分が悪かったから」
私が鍵をかけたのを確認するとまた晶が話し始める。
「昔さ、僕が産まれるずっと前の話」
「はぁ?なんの話よ」
「多分、最初の子供が産まれた話」
横目でチラッと女を見る晶。さっきまでの焦りが無くなり自分のペースを取り戻す。
「なんの事だよ、この前言ったよね詮索するなって」
「母さんの事が気になっちゃってさ、しょうがないよね、僕捨てられちゃったから寂しくてさ、母さん・・・いやもう嘘は面倒だな。あんたの悪事を調べたくなっちゃったんだよね」
馬鹿にしたように口許だけで笑う。女は黙っている。
「この前、事件の話したよね。裏が取れたよ。やっぱりあんたが殺したんだね。僕の兄さんの親をさ」
女の顔が一瞬曇るがまたすぐにニヤニヤと笑い始める。
「兄さん?会ったのかい、律と」
私は律の名前をあの女の口から聞いて、腕を折って笑っていたと言う話を思い出しゾッとする。そして自分の息子の腕を折るなんて人間のやることじゃないと改めて思う。でもなぜ、あの人はそんな風になってしまったんだろう。
「そうだよ、本当だったら時間をかけて僕を認めて貰いたかった。たった1人の僕の身内」
「何、あたしは身内に入れて貰えないの?ひどいじゃない」
あまり残念そうではない。
「律はお前に話したのかい?自分が如何に情けなかったのか」
カッとなった。情けなくなんかない!思わず更衣室の中から叫んでしまいそうになって口を抑える。
「情けなくはないでしょう、まだ少年だったのに、むしろ義理の母の為に身を挺した凄い人ですよ。皮肉ですよね。血の繋がったあんたから血の繋がらない母を守ろうと自分の腕を差し出すなんて」
晶は憐れむような視線を女に向ける。女の目に怒りが灯る。
「あんな女、人の亭主盗んでおいて、あたしの息子を盗んでおいて、母親面しやがって、私達は家族ですって、いけしゃあしゃあと」
私は耳を塞ぐ、違うお母さんは盗んでなんかいない。
「あぁあ、年をとって昔の事は忘れちゃったのかな?それとも都合の悪い事は記憶から消えるようになってるのかな?」
さらに馬鹿にしたように晶は言うが目は笑ってない。
「あんた兄さんの時も僕と同じ事したんだってね。驚いたよ。本当に父親が誰か分からないの?そんなに何人も同時に付き合ってたの?ねぇそう言うのモテるって言わないんだよ、尻軽って言うの」
女は顔を顰めて歯をむきだしにして怒鳴る。
「母親に向かって」
「ハッ笑える。どの面下げて母親って言うのかね。本当の相手もわからず、都合の良い相手を父親にして、子育てに飽きたから捨てるって?ふざけるなよ、僕も兄さんもあんたみたいな女から産まれて、翻弄されて、こんなの自分の人生だなんて胸張って言えるかよ。いくら血が繋がってたってあんたの勝手で人生狂わされたこっちの身にもなってみろよ」
抱えきれなくなった怒りが晶からほとばしる。
「兄さんの家族の名誉の為に言うけど、あんたが家出して再婚するまでの五年間休みの度にあんたを探してたってさ、男手ひとつで子育てしながらさ、探されてる当の本人はその間に何してた?えっ?フラフラと所在を変えて男を変えて、金払って戸籍も何度か新しく買ったよね」
女はさすがに顔色が変わる。
「な、何を調べて・・・」
「死にそうな爺さんに取り入って結婚もしたね。そのすぐ後に爺さん死んじゃったけど、本当に老衰だったのかね・・・」
「医者がちゃんと診断したんだ、間違いないさ」
「まぁ思ってたほど遺産が無くて残念だったみたいだけどね」
女はイスを腹立たしげに蹴飛ばす。
「そんな事してた人に泥棒呼ばわりされたくないよ兄さんだって。2才の時に捨てたんだろ、顔も覚えて無かった女に母親だって言われて、家族ぶん殴られて殺されて、腕折られて、しかも自分を庇って死んだ父親と血の繋がりがないって、どんな地獄だよ。産んだってだけでそこまで子供の人生踏みにじっていいのかよ」
「うるさい、うるさい、うるさい、あんたに関係ないだろ」
「関係あるよ、だって僕の大切な兄さんだからさ」
「はぁ?」
女がわざとらしく笑う。晶の目に闇が灯る。
「僕はね、突然あんたに捨てられてから、どう生きて行けばいいのか分からなくなって、そんな時に血の繋がった兄さんがいると知ったから、そりゃ心の拠り所にするよ。兄さんに僕を見つけて欲しかったから執拗いくらいに回りをウロウロしちゃったけどね、まるでストーカーだった」
晶が少し照れたように笑う。私は引きこもっていてそんな晶に気づいてあげられなかった当時の自分が残念でならなかった。
「両親を殺された後、まだ未成年だった兄妹2人で生きて行くって並大抵ではなかったと思うよ。子供だった僕からしたら凄い人達と血が繋がってるってちょっと力貰った気がして嬉しかったよ」
「金さえ持ってりゃなんとかなるだろ」
「ハハハッ」
晶は目を見開いて笑った。
「あんたはやっぱり全てが金なんだな。なぁ、生を受けたものはさ金以外の、目には見えない大切な物を受け取って初めて人になれるんだよ。兄さんは新しい家族がきっとそれをくれたんだ。年月をかけて体の隅々に流れ込んで1人の立派な男になった。あんたに心も体も随分傷付けられて15年前の時間で止まったようになっていたけど、それでも愛する人の為に、自分を愛してくれる人の為に時間を前に進めたんだ。だから兄さんはもう、あんたの事を恐れてはいないよ」
晶君の律に対する思いが嬉しい。
「なんだよ、律にいい人が出来たの?なら挨拶に行かないとね、母親なんだから」
話をまるで聞いてないような言葉に晶はカッとなる。
「あんた、頭おかしいんだなやっぱり。兄さんには近づくなよ。兄さん達は俺が守る」
「はっ?晶は正義の味方なのかい?」
女がアッハッハッと馬鹿にして笑う。
「正義では無いけどね、あんたからは守るよ、何があっても」
「ああぁ、それでお金くれるって言うの?結局あんただって金で解決しようとするじゃないか、どんな立派な事言ったって世の中やっぱり金なんだ」
晶は納得した女の様子にさも呆れたような目を向ける。
「金はあんたを呼び出す口実だよ。そうでもしないと出てこないと思ってさ。本当の目的はこの世からの抹殺、なんてね」
晶は冗談のように言うが目は笑っていなかった。眞希の方を少し振り返って見ていたけれど、また女に向き直った。
「僕もさ、あんたに捨てられて色々あった訳よ。兄さんの存在だけでは、僕は明るい場所には立っていられなかった。誰も僕に、人になる為の大切な物を分けてくれなかった、出会った奴らは何故かみんなあんたと同じ殴ったり傷付けたりしながら奪って行く奴らばっかりだった。だから僕も欲しい物はそうやって人から奪えばいいんだって学んだ。仕方ないよね、中学を出る頃にはそれはもうひどい生き物になってた」
自嘲している晶の声に悲しみが広がっている。
「高校へは行かなかったから施設も追い出されてどうしようもなく堕落した生き方をしてた時に人生が変わる出会いをしたんだ。今僕がここに立っていられるのもその人のおかげ。17年間誰にも分けてもらえなかった大切な物をその人は惜しみなく分け与えてくれた。色んな事を学ばせてくれた。生きる力を、暴力じゃなく相手と対等に向き合う方法を根気強く時間をかけて教えてくれた。だから僕も一端な人間になれたの、あんたに説教できるくらいにはね」
「ふん、すぐにあんたらは話を難しくして、偉そうに人を見下して自分の立ち位置は上だと思いたがるんだ。自分より足下に人がいれば安心なんだろ、踏まれてたまるか」
晶の苦労して生きてきた時間を女は理解もせずに言う。
その時、携帯のバイブが鳴る。晶が取ろうとするが女の方が早かった。待機画面に相手の名前が出る。[律] 女が目を丸くする。
「あの子、名前なんて言った?」
晶は質問を無視する。女が更衣室の中の眞希に声をかける。
「あんた、あんたがもしかして律の女なの?いや・・・妹?マジ?どっちでもいい。ふっはっはっはっはっ、こんな、こんな面白い事・・・」
女は笑いすぎて言葉が続かない。
「だからあんなに必死で帰そうとしたのか、いいじゃないの、律も呼びなよ、家族で集まろうよ、ねぇ」
晶が怒る。
「ふざけるなよ、家族じゃない」
「早く出なよ、律が心配してるよ」
どうしよう、私がここにいることは伝わってる筈・・・電話に出て脅されたら警察に黙って1人で来るもしれない。
「お断りです」
「はぁ?」
「私はあなたとは家族じゃないし、あなたなんかの言う事を聞く必要はない」
「生意気な女だね」
「あなたに両親を殺されてどんなに私達がつらかったか、律、兄さんがどれだけ苦しんでるか、あなたなんかには絶対に会わせられない」
「妹の方か、あんたを殺すって言ったら飛んでくるね~フッフッフッ早く出なよ」
「出る訳ないでしょ ・・・私の方があなたを殺したい位だわ、最悪な母親、いいえ母親って言葉が汚れる、身勝手なバカ女。尻軽のバカ女」
「なにー」
怒れ!今は私が律のウィークポイントになってはいけない。
悪態をついて女を挑発する。怒れ、もっと!電話のバイブが止まる。
「切れちゃったじゃないよ、出てきてこっちからかけな、かけて呼びな」
「執拗いバカ女、嫌、絶対に嫌」
女が痺れを切らして更衣室に向かってくる。晶に背を向けた。更衣室のドアをどんどんと叩いている。ナイフを持つ手に隙ができる。晶は女を羽交い締めにしてナイフを取り上げて今度は女の首にあてる。
「何すんのさ」
「あんたが先にこんな危ないものを向けてきたんだろ」
良かった、これで終わり、っと思った。なのに晶は
「はぁ、色々考えていた流れと違ったけど、これで元の流れに変わるかな」
と言うと女を抑える手に、更に力を加える。
「く、苦しい、晶やめてよ」
「ねぇ、僕と心中しようか」
晶の目は本気だった。
◇
律はもう何度同じ話をしただろうかと思った時に、元担当だった女の捜査官が他の分署から到着した。何度か家を訪ねて来ていた刑事。挨拶もそこそこにまた最初から話をするが、さすがに事件の内容は分かっている人だったのでその後の指示も的確だった。逮捕状の請求がまだ通らないらしい。少し待つように言われた時に携帯をチェックして眞希からの着信とメールを見つける。30分も前のものだった。律は慌てて捜査官に内容を伝える。すぐに現場に近い派出所から様子を見に行ってもらったが外に眞希の姿は無かった。次に電話をかけるように指示がある。万が一、本人以外が出た場合の合図やなるべく会話を引き伸ばすことなど決める。その間も晶の店の間取りや回りの状況報告など、にわかに慌ただしくなる。自分の携帯に他の線が繋がれて眞希に電話するように言われる。12、3回コールで一旦電話を切るように指示があったので切る。なぜ出ないのか、眞希が心配で居ても立ってもいられなくなる。もう1度かけるよう言われる。律の傍に捜査官が付く。
◇
また携帯が鳴る。が、さっき女が落として滑べらせてしまったせいで店のどこで鳴っているのか私からでは確認できない。
「ほ、ほら、晶・・・電話 出た方が良くないか」
女が少し苦しそうに晶に声をかけるが晶は聞く耳を持たない。
「晶君、私電話に出るね」
鍵を開け出ようとすると
「眞希姉、開けないで、兄さんには悪いけど、少しこのままで、ごめんね」
眞希は晶に言われて出られなくなる。電話は切れた。晶は女の首にナイフを当てたまま
「ねぇ、僕にさ謝って」
「はぁ~?あ~ごめんごめん、悪かった」
真剣に謝ってないのは誰にでもわかる。と、晶が女の腕を切りつける。
「やっ、ぎゃー、なっ、い、痛い」
「危ないよ、ふざけてると傷が増えるよ」
少し笑いを含んだ声で言う。
「あんた、正気かい、やめてよ、痛いじゃないよ」
女の声が少し震える。晶はもう一度謝ってと言った。
「わ、悪かった、あんたを捨てて、悪かったよ」
「眞希さんにも謝って」
「・・・」
「謝って、ご両親を殺して申し訳ないって謝って」
「殺すつもりじゃなかったんだよ、ちょっと痛めつけてやったら勝手に死んだんだ、ぎゃー」
晶がさっきと反対側の腕を切る。
「晶君?何をしてるの?」
私は更衣室から出ていた。
「眞希姉、ダメだよ出てきたら、こんな所は見せたくない」
「やめて、晶君。それはよくないよ」
「そ、そうよね、ね、あんたも止めて」
女は私に懇願する。
「うるさいよ、あんたが殴った時、兄さん達の両親もそうやってやめてって言っただろ?あんた、それでやめたのか?やめてないよね。何回も何回も殴ったよね」
そう言うと晶は私の目の前で女の太腿を何度も切りつける。
「いやーっ、痛い痛い、やめてよ」
晶が押さえ込んでいた手を離すと崩れ落ちた女が悲鳴と泣き声をあげた。私は恐ろしくて耳を塞いで目をつぶってしまった。
「やめて!晶君、こんな事しちゃいけない」
そう懇願するが、晶の私を見ている目は絶望に侵されたように何も見てはいなかった。
「止めないで、眞希姉。僕ね、嬉しいんだよ、兄さんと眞希姉の役に立ちたかったんだ、ずっとどうすれば役に立てるのか考えてた。それでね、2人の大事な両親を殺して2人をずっと苦しめたこの女を殺せば喜んで貰えるかなって」
「晶君、それは間違ってるよ。確かに両親を殺したこの女は憎いよ、律を、私達を苦しめたこの女を殺したいくらい憎んでる!でもね、だからって殺していいわけない、それは間違ってる」
私が話している間も女は痛いと泣いている。出血もだいぶしている、早く手当しなければ。
「晶君、聞いて、あなたさっき言ったよね、大切な物をもらったって、あなたを愛してくれてる人がいるんでしょ?つらかったあなたの17年間を埋めてくれる程の、大切な物をあなたに惜しみなく分け与えてくれた人がいるんでしょ?その人が悲しむよ、晶君」
「ママは僕がしようとしてる事知ってるよ」
「えっ」
こんな事をするって知ってるって、なぜ止めないの?
「なぜ?なぜママはこんな事するの知ってて止めないの?」
「それが僕の望みだから、ふふっ」
晶は微笑む。
「最初はね、眞希姉みたいにやめてって言われたよ。だけどね、どうやっても僕の気持ちが変わらないって分かって最後はこの女に渡すかもしれないお金を用意してくれたよ」
「そんな・・・」
「まあね、本気でにこの女を殺そうって思ったのはさっきだけどね」
「な、なんであたしがこんな痛い思いをしないといけないのよ、信じられない、血の繋がった母親を殺すつもりだなんて」
女が泣きながらも晶に向かって怒鳴る。
「血の繋がった兄さんの腕を笑いながら折ったあんたが何言ってんだよ」
晶は怒りを隠さない。晶から少しづつ距離を取っていた女にナイフを振り上げて近寄っていく。
「いやー、来るな来るな」
女が叫びながら何とか立ち上がってドアに向かって逃げる。晶が女より先に邪魔するようにドアの前に立つ。
「晶君、だめ!」
私は晶を抱きしめて動きを止める。晶はビクッとして止まる。
「眞希姉、危ないよ、離して」
晶が静かに私に言う。私は更に力を入れて晶を止める。
「だめ、絶対にだめ。晶君を殺人犯なんかにしたくない。なんで、殺さなくたって、罪を償わせればいい」
晶が鼻で笑う。
「さっきの話聞いてたでしょ、この女は反省なんかしないよ悪い事をしたなんて思ってないんだ。だから」
「でも」
女が話してる隙にドアの鍵を開け逃げ出す。
「チッ、わかるんだよあの女は殺すしかないんだ、眞希姉、ごめんなさい」
そう言うと晶は私を突き飛ばして女の後を追って店の外に出ていった。
「待って、晶君」
起き上がって私も外に出た。
◇
2度目の電話にも出ない。捜査官の出動命令が出た。これから店を包囲し、内部を探りながら店内に入る方法を探る。捜査協力という事で一緒にパトカーに乗り込んで晶の店へと向かった。もうすぐ店というところで無線が入る。怪我をした中年の女性を若い男が追いかけ、その後を追っている若い女性もいるという。
「どうなってるんだ?」
同乗している警官がつぶやく。眞希は無事なのか不安だけが募る。
◇
怪我をしているせいで女は早くは走れない。晶はすぐに追いついて女の背中に切りつける。
「やめてよ」
女が泣き叫ぶ。眞希が後ろから追いつく。
「晶君、もうやめて!」
「来るな」
晶が私に怒鳴る。
「晶君、私達の為にそんな事するならやめて、その人が死んでも私ちっとも嬉しくない。律だって絶対に喜ばないよ」
晶は女の腕を掴んだまま私の方に向き直る。
「なんで、こんな女生きてる価値ないよ、眞希姉の家族だけじゃないんだよ、この女が関わって死んだのは・・・」
そんなに罪を犯しているのか
「だからって、晶君が殺人犯になっちゃったら私達どうすれば・・・」
「眞希姉達に迷惑はかけないよ」
「そんな話してない!迷惑とかそんなの、私達まだ知り合ったばかりでしょ、これから兄弟として沢山時間を共有して生きて行きたいと思っているのよ。私達のこれからをこんな女の為に無駄にしないで!」
私は泣いていた。晶の頬にも涙が伝う。
「晶!」
律の声がした。振り向くと沢山の捜査官の後ろに律がたっている。
「律」
私は思わず叫ぶ。
「眞希、大丈夫か?」
律も大声で聞いてくれる。
「私は大丈夫、晶君が守ってくれたから」
捜査官が少しづつ距離を詰めて取り囲むようにしている。
「晶、俺は今日、警察で15年前の事を何もかも話してきたよ。だからもう、その女を警察に渡してくれ」
律が落ち着いた声で晶に話しかける。
「兄さん・・・ダメだよ、兄さん、この女は死んだ方がいいんだ」
晶が律に向かって話す。
「こんな女のせいで、僕らの人生はめちゃくちゃだ、そうでしょ?こんなやつ生きてる価値ないよ」
「ダメだ、晶、そんな事したら。そんな事をしたら俺は死ぬまでお前を許さないからな、わかるか晶、その女はお前の人生をかける程の人間じゃないんだよ」
晶は目を見開いて律を見つめる。
「いいか、晶、絶対にダメだ、やめろ」
晶は律に嬉しそうに笑いかける。
「ありがとう、兄さん」
それでも晶は女から手を離さない。捜査官が晶に銃を構えているのが見えた。
「晶君、ママから受け取った大切な物はどうするの?」
晶は首をかしげる。
「どうするって?」
「晶君、大切な物を受け取った人はね、次の人に渡さないといけないのよ」
「・・・そんなの知らない」
「私が両親からもらった大切な物はね、仕事だったりプライベートだったりで出会った人に少しづつ渡したり、また私も受け取ったりしていくものなのよ。勿論、将来自分達に子供が出来たら残さず渡したいと思ってる。晶君だってママから沢山貰ったんだから誰かに渡さないとダメよ。きっと晶君みたいに大切な物を分けてもらいたい人達がまだ沢山いるはずだから、そうやってみんなが少しづつ出会った相手を思いやって生きていくのが人なんだと私は思う」
晶が私を見る。私は晶の目を見てうなずく、さあ終わりにしましょう。そう言おうと思った時に女が動く。
「お前なんかに殺されてたまるかー」
晶が反射的にナイフを女に振り上げたのを見て律が叫ぶ。
「晶」
私が晶の傍に走るのと同時だった。
パンッ、パンパンッ
乾いた音がビルに響いた。
その瞬間、全てがスローモーションのように見える。目の前に血しぶきが飛ぶ。夢とは違ってそれは生温かかった。
「眞希姉」
晶の驚いた顔、そして歪んだ顔、晶の手からナイフが落ちる。腹部からの出血が見えた。
「晶君」
叫んだつもりが言葉にならなかった。何故か右肩が熱い。
私は晶を守れなかった。愛すべき白い小さなモフモフを、怯えたあの子を私は守れなかった・・・そして私は暗闇に沈んだ。沈む少し前に何度も私の名を呼ぶ律を見た気がした。
続く