第1話「友達になってください、天気さん」5
待ちわびていたチャイムを無視して続く授業に焦りを募らせ、ようやくかかった号令には誰よりも早く立ち上がった。
食堂や購買で昼食を取ろうと話し始めるクラスメイトを避けて向かったのは、教室の中央に位置する彼女の机。
「天気さん!」
張り上げたつもりはなかったのだが、僕の声は教室中の音を消し去り、僅かなざわめきだけを残して嵐の如く過ぎ去っていった。
静まり返る教室、射抜くような彼女の目。数日前とよく似ているようなその光景を、もう怖いとは思わない。
「その節は、大変お世話になりました」
本当なら、ここでそのときのお礼と言って菓子折でも差し出したいところだが、今日の僕は差し出す菓子折など待ち合わせてはいない。
さしもの天気さんも、面と向かって差し出された菓子折を受け取らないわけにはいかないだろうが、それは何だか外堀を埋めていくようで卑怯な気がするし、本当の礼にはならない気がしたのだ。
仁義とは、他人に対して為すべき礼儀。人として大切な志のことだと教わった。今ここで尽くすべき仁義は、菓子折などではないはずである。
「……この前のこと、よく考えてみたんです。覚えてますか? 土曜の夕方の……」
「ほんの気まぐれで、対価を求めない何か、だったかしら」
「それです。僕の気まぐれなので、この前のお礼ではないですし、何だったら断っていただいても構わないので、まずは聞いてもらえませんか」
天気さんは真っ直ぐに僕の目を見つめ、僕の言葉の真意を汲み取ろうとしているようだった。
しかし諦めたのか、それとも読み切ったのか、静かに目を伏せ、口を開く。
「分かったわ」
「ありがとうございます」
誰に対しても使う敬語のせいか、何だかこの空間は昼休みの教室ではなく、面接会場に変わってしまったようである。
場所を変えるべきだったと今更ながら後悔するも、時すでに遅し。クラスメイトの大半は固唾を飲んでこちらを見守っている。
伏せた目を再びこちらへ向け、僕を見上げる形で見つめる天気さん。恐ろしいまでに整った顔立ちだとは思うが、目の前の少女を難攻不落の美少女と表現することは、もうなさそうだ。
「それで、その何かとは何なの?」
週末休みをフルに使って考えた、僕の気まぐれ。それはもはや気まぐれと呼べるものではない気がするが、それは形式的なものなのだから別に構わないはずである。
ほんの気まぐれで、対価を求めない何か。そんな言葉で彩られたものが、目の前にいるこの少女の助けになり得るならばそれでいい。そう信じて、凡人の僕が何とか導き出した答えを、口にした。
「僕と、友達になってください」
その瞬間、天気さんの頭にクエスチョンマークが浮かぶのが分かった。
恐らく、周りで見守るクラスメイトの頭にも、似たような記号が浮かんでいることだろう。
彼女にしてはあり得ないほどたっぷりと時間を置いて、天気さんは尋ねた。
「……如何いうこと?」
それはそうだろう。対価を求めないというからにはこちらが相手に何かを与える必要があるが、僕が彼女にしたのはただの要求である。
しかしそれは、この言葉だけを聞けばの話だ。
「笑ってほしいんです。天気さんに」
数日前に口にしたのとほとんど変わらない言葉に、天気さんはほんの少し目に悲しげな色を滲ませた。その目に少しでも侮蔑の色が見えたなら、僕がこんなことを言うことはなかったかもしれない。
「今すぐじゃなくて、一年後でも、二年後でもいいんです。いつか天気さんに心から笑ってほしいと思ったので、僕にその手伝いをさせてくれませんか?」
あのときの彼女の姿を思い返したとき、いつかの未来の彼女に、笑い方が分からないと言った自分の寂しい姿を笑い飛ばせるくらいになってほしいと思ってしまったから。
「学校帰りの買い食いとか、休みの日にどこかへ遊びに行ったりして、楽しいことを知ってほしいんです。そうして本当に楽しいと思えたときに、笑ってほしいんです」
たとえ彼女がそれを望んでいなくとも、この申し出は僕の気まぐれとしてここにあるのだから、構わないと結論づけることにした。
仮にも彼女はそのつもりで、僕からこの言葉を受け取っているはずなのだから。
「天気さんに友達と笑顔を贈ること。これが僕の、ほんの気まぐれで対価を求めない何かの内容です」
まるでプレゼンか何かのような言葉で締めくくると、天気さんはもちろん、クラス中の誰もが言葉を発することもせず僕を見つめていた。
そこでようやく自分が言っていることの支離滅裂具合を自覚した僕は、いつかのようにえっ、あっ、とみっともない声を漏らしながら弁明を試みる。
「だから……ええと……あ〜……」
とはいえ友達と笑顔を贈るなどという訳の分からない言葉に対する弁明の言葉など簡単に浮かぶはずもない。
その結果、気まずい沈黙を埋めるべく、もうどうにでもなれと天気さんに握手を求めるような手を差し出し、同時に勢いよく頭を下げた。
「これからは友達として、天気さんに天気をあげたいです! よろしくお願いします!」
叩き落とされるか、それとも無言で制されるか、例に漏れずネガティブ思考が脳を支配する中で、そんな考えを断ち切ったのは不意に湧き上がったどよめきと、手に触れる柔らかい感触。
恐る恐る顔を上げると、そこにあるのは他者の手によって握られた僕の手。
もはや僕の触覚は仕事を投げ捨てて、情報の認識は視覚に頼り切っている状況だ。目から得られる情報を考えるに疑いようもなく、天気さんは僕の手を取っている。
「晴れ乞い目当てなら断るところだけれど、そうでないなら断る理由はないわ」
僕の手を握ったまま、ゆっくりと立ち上がる天気さんと目が合った瞬間、教室内の喧騒は一瞬にして遠ざかっていく。
「これからよろしく。時雨くん」
にこりともせずに言い放たれた言葉に頷く代わりに、情けない笑みを返したこの日が、全ての始まり。
この日のこの言葉から、僕、今日時雨の無謀な挑戦は幕を開けたのだった。