第1話「友達になってください、天気さん」2
「……てっ、天気さん!」
四月某日、曇り。どんよりと分厚い雲が空を覆う中、周りを囲むギャラリーの視線を感じつつ、もしかすると過去最高速度で脈打っているかもしれない心臓を押さえながら切り出したその言葉は、みっともなく震えていた。
そんな僕を冷ややかな眼差しで見つめるのは、入学から数週間で校内中にその名を轟かせ、あっという間に校内一の美少女という称号を勝ち取った、モデルも女優も文字通り顔負けの超絶美少女である。
輝夜姫が現代に蘇ったならきっとこんな髪だったのかもしれないと思わせるほど艶やかな黒髪に目を落とし、続いて陶器のような肌と、その肌に影を落とす長い睫毛を見てため息をついた。
冷たくこちらへ向けられた目はぞっとするほど美しく、きつく結ばれた口すらも彼女を彩る装飾品でしかない。
彼女の美しさそのものが、何の取り柄もない地味な僕を責め立てるようである。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。僕は彼女に、どうしても言わなければならないことがあるのだ。男は度胸、ここでやらねば男が廃る。
深く息を吸い込み、腹の奥底にため込んだ言葉を思い切り吐き出した。
「てっ、転職とかけまして、貴方の笑顔と解くぅ!」
勢い余ってひっくり返る声。その時点で逃げ出したくなる僕の背中を、教室のどこかから聞こえた「その心は」と言う声が優しく押してくれた。
ありがとう。入学式から早数週間、まともに人の顔を見ずに話してきたせいで名前もろくに覚えられていないけれど、ありがとう。たとえこの思い出が黒歴史になろうとも、君のその一声だけで僕は救われる。
「……どちらも、てんきになるでしょう」
絞り出した渾身の謎かけは、目の前の席に座る美少女の冷たい瞳に吸い込まれて消えていった。真っ直ぐに僕の目を見つめる美少女の唇は、動かざること山の如し。眉一つ動かさず、ただ無言で僕を見つめるだけである。──終わった。何とは言わないが、全て終わった。
「……お……おあとが、よろしいようで」
最初の威勢は何処へやら。するするとすり足で蛞蝓のように自分の席へと戻った。
よろしくない、何一つよろしくない。そしてこれはたぶん謎かけの締めに使う言葉じゃない。謎かけというのは、もっとこう、観客のため息だとか、笑い声だとかで和やかに締めるものであったはずだ。決してこんな、美少女からの冷ややかな目線とギャラリーからの哀れみの眼差しで終わっていいものではないのである。
窓際の席でため息をついた僕の心境は最悪。曇りを通り越して土砂降りの雨だ。
こんなことになるならばいっそやらなければよかったとも思うのだが、それでもどうしてもやらなければならない理由があったから、教室のど真ん中、公開処刑覚悟で玉砕したのだ。
美少女相手に勇気を振り絞って玉砕というと、普通は告白を思い浮かべるものだが、僕が披露して玉砕したのは謎かけである。
何故、僕が渾身の謎かけを彼女の前で披露したかといえば、それは彼女と、彼女の名前に関するある噂が関係している。
彼女の名は明日天気。「あしたてんき」と書いて「あけびてんき」と読む、靴飛ばしの呪文のような名前である。
「天気」というあまりにもド直球な名前に「明日」という名字。もはや悪意しか感じないこの名前と名字のコラボレーションによって生まれたのが「明日天気を笑わせれば、明日は天気になる」などというおかしなジンクスである。
実際に彼女のその噂にあやかって、大事な試合やデートの前日に彼女を笑わせようと試みる生徒は少なくないのだが、そのほとんど、いや、そのうち全員が僕と同じように玉砕してとぼとぼと背中を丸めて去っていく。
何故か。その答えは簡単。
明日天気は、笑わないのである。
決して、絶対に、何があっても、彼女は笑わない。笑ったところを見た者もいない。明日天気という名前の割に、彼女の顔は一向に天気にならず、いつもどんより曇り空のままである。
つまり彼女が笑わないこと自体はいつものことだし、彼女が笑わなかったところで必ず雨が降るというわけでもないのだが、僕にはどうしても、明日を天気にしなければならない事情があるのだ。
朝のホームルーム後にしかけた謎かけは失敗に終わったが、これも想定内。想定外のダメージの大きさには驚いたが、回復を待っている暇はない。次なる一手は一時限目の休み時間に発動すると決めている。謎かけがだめなら手品だ。
「左手に入れたボールが……消えました!」
固唾を飲んで見守るクラスメイトの群れの中からまばらな拍手が起こるも、天気さんは笑わない。残念、次だ。
二時限目終わりの休み時間。今度の作戦は物真似。
「えー、校長先生の物真似します。……『え〜、人生にはぁ、二つの大事な柱がありましてぇ』」
喉を絞って出した演歌歌手のような声色に、どこかから聞こえた小さな笑い声が答えてくれたが、天気さんは笑わない。次。
三時限目終わりの休み時間、の突撃を試みたものの、三時限目は体育なので断念。途中で何度かバレーボールが顔面に直撃するという偶然の産物による珍プレーを連発したが、天気さんは笑わない。次だ。
「どうして私を笑わせたいの?」
四時限目終わりの休み時間。午前中最後のチャンスと意気込みつつ天気さんの席へ向かうと、まず投げかけられたのはそんな問いだった。涼やかな凛とした声に思わず息を呑みつつ、えっ、あっ、とみっともない声を漏らしながら何とか答える。
「ええと……その、明日……大事な日で」
「具体的には?」
教室の隅で本を読んでいるようなぼさっとした眼鏡の僕が、校内一の美少女と、言葉を交わしている。そんな感動にいちいち打ち震える体を押さえつつ、何とか説明文らしい説明をしようと頭を働かせた。
「……で……デートが、あるんです。明日、入学式のときに出会った先輩と、あちこち行く予定で」
デート。口にすることも恐れ多い、僕には一生縁がないであろうと思っていた単語を口にする日が来るとは夢にも思わなかった。
だが、デートはデート。紛れもなく、デートなのである。勇気を振り絞って直接お礼を言いにいったとき、先輩は確かに「デート」と言ったのだから。
「……私を笑わせても晴れる保証はないし、笑わなかったからといって雨が降る心配もないのだけど」
「……あ、いえ、それが……」
冷ややかに言い放ち、もう帰れと言わんばかりに視線を下へ戻そうとした天気さんの目が、再びこちらへ向けられた。身体中から変な汗が噴き出す中、何とか簡潔な説明を心がけるべく口を開く。
「……僕、あだ名が雨男なんです。天気さんと同じで、名前がそんな感じなのと、本当に雨男っていうのもあって……しかも、大事な日だけ雨を降らせるタイプの雨男なんです」
僕、今日時雨は、その名の通りの雨男なのである。
天気さんと違うのは、僕が笑っても泣いても、僕にとって大事なイベントは全て雨が降るということ。
修学旅行、文化祭、花火大会などなど。僕のこの性質のせいで台無しになったイベントは数知れず。嘗てのクラスメイトから言われた「お前がいるといっつも雨降るから来んなよ」という遠慮容赦のない言葉は、僕の心に深い深い傷となって居座っている。実際にその通りだからさらに救いようがない。
僕がいて唯一雨が降らなかった行事といえば、運動会くらいのものだろうか。運動が苦手というわけではないが、人前で何かを披露することを苦手とする僕にとってはそのときこそ遺憾無く雨男パワーを発揮して欲しいところだったのだが、降って欲しくないときに雨を降らせる男の願いを雨が汲んでくれるはずもなく、小中の九年間、運動会だけは雲ひとつない完璧な快晴だった。
だが、今回のデートでも雨が降られては、今まで厄病神扱いされてきた僕のこれまでがあまりにも報われない。一生に一度の勝負所、ここで雨を降らせるわけにはいかないのだ。もしかするとこれが僕の人生において最初で最後の女子とのデートになるかもしれないのだから。
「だから、明日はせめて晴れてほしいなっていう……願掛けみたいなものです。天気さんを笑わせられたら、大丈夫な気がするので」
「…………」
「あっ、でも、無理に笑ってほしいとかそういうわけじゃなくて、僕が勝手にやってることなので……ええと」
口籠っている間に、授業の開始を知らせるチャイムが鳴ってしまった。まだ四時限目終わりのネタを披露していないが、早く席に着かなければ先生が来てしまう。
「あっ、とっ、とりあえず今日一日、授業終わりにお邪魔しますってことだけ言わせてください。お邪魔しました」
ぺこぺこと頭を下げつつ席に戻り、ほっと息をつく。
ところどころ詰まってしまったところはあったが、何とか話すことができた。しかも、女子と、校内一の美少女とである。相変わらず笑わせることこそできていないが、女子とあれだけ会話ができれば僕としては上出来である。
あとは天気さんを笑わせて、明日の天気を晴れにすることだけだ。それが難しいのだが、先輩とのデートのためだ。何としてもやり遂げなければ。
なかなかやってこない先生を待つ中で何となく目を移した窓の外では、明日のデートの相手である先輩が友達と楽しげに言葉を交わしている。
緩いウェーブがかかった明るい茶髪、朗らかな笑顔が今日も眩しく輝いている。
先輩は天気さんのように絶世の美女ではないけれど、かわいい人だ。それでもやはり女子という存在は僕にとって別の世界の住人のように思えていて、数日前にお礼を言いに行ったときも、今日と同じく玉砕覚悟だった。まさか了承してくれるとは夢にも思わなかったし、正直今でも信じられない。
けれど、来るところまで来てしまったのだ。あとは後悔のないようにやるだけである。
頼むから失敗しないでくれよ。
願掛けというにはあまりに志の低いそんな願いを空に放ったこのときの僕は、まだ翌日の自分がどんな惨状に置かれるのかなど知る由もない。というより、どれだけネガティブ思考の僕でも、あんな可能性に思い至るはずがないのだ。
待ちに待ったデート当日に、まさか──あんなことになるなんて。