第0話 Until rain of time clears 上
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キックコック邸 AM2:40
雨脚が強まってきた。予報では明け方にかけてさらに激しくなるとのことだった。
好都合だ。もちろん逃走経路は確保してあるが、万が一の可能性も考えなければならない。その場合、視覚と聴覚を同時に妨害する雨は悪者の味方だった。さらにペンタゴンとって雨は重要な戦力になりうる。今日のような暴風雨はまさに泥棒日和と言えた。
後ろを振り返ると黒レインコートに包まれたロックが苦い表情をしていた。雨が目に入るのがイヤなようで、顔に手をかざしている。
「おい、いくらなんでも天気が悪すぎないか? これじゃ、前も見えないぞ」
「だからいいんじゃないか。キックコックはこれを見越して外の警備を外した。再三の注意を無視してね。のわりに邸内には退役後の老兵が二人しか配備されていない。おまけに当の本人はモスクワで避暑を満喫中だ。泥棒も台風なら休暇を取ると思われてるんだよ」
キックコック邸は町の外れのまさに辺鄙の地にぽつんと存在していた。この地域は地殻の直交衝突により様々な構造改変が起きている。そのためデタラメに隆起した地盤に家を建てる者はほとんどいない。にも関わらず氏がここに居を構えたのは学術議会やマスコミの追及から逃れるためと言われていた。彼が指揮をとっていたラボで高次情報磁場に関するデータに不正改竄が行われた疑惑があったからだ。その他にも彼には黒い噂が絶えなかった。第一線から遠退いた後も隠れるように過ごしているのは、後ろめたさからより他なかった。
♢
予定していた邸の裏口玄関付近についた。ざっと目を光らせる。やはり、監視カメラの類いは見当たらなかった。それは外観の雰囲気に似つかわしくないだけでなく、邸内の防衛システムに信頼を寄せているからだろう。
ヌルい。ハルはほくそ笑んだ。
キックコックが契約している警備会社は事前に調べた限り、なんの特色もない一般企業だった。気休め程度に呼ばれた老兵もお飾りに過ぎない。見られて困るものがザラにあるだろうに、危機感がマヒしているのだろうか。
「――こちらレッド、目的の位置についた」
『こちらライラとビー、準備できてる』
通信を受けたロックがぷっと吹き出す。
「――こちらロック、準備も何もライラは今日何にもしないじゃねえか」
『そういう意地悪キライ』
「――悪い悪い、ベイビーに代わってくれ」
ロックの言葉に、向こうがバタバタと動く気配が感じ取れる。またいつもの押し問答が始まる予兆だった。
『――だから』
『ベイビーって呼ばないでください!!!!』
ベイビーと揶揄された少女は今回逃走時に最も重要な働きをする要の人物だった。
ベイビーことビー・ベイカーはアリアだ。そして前回の測定ではTTPが400を超えたと聞く。その数値であれば並みの方術学校だと特待入学も可能なくらいだった。見た目こそフランス人形のように幼い風貌をしているが、水の扱いに関してはエキスパートと言える。
やはりこれだけの悪天候であれば帰りに彼女を頼る他ない。
「――こちらレッド、ビー聞こえるか」
『聞こえちゃいました、バブー』
「やっぱりオマエ赤ん坊じゃねえか!」
「――ビー、雨天時の作戦にシフトする。問題ないか?」
『ダイジョブです。ライラと一緒に予定の位置にもう着いてます』
『ビーはやる気満タン。後は貴方達がデータを盗ってくるだけ』
ライラの注文にロックが胸を叩いた。
「――おうよ、パパッと行ってくるから待っとけ」
またさらに天候が悪化してきた。唸るように轟く雷鳴が耳を劈く。空が哭いているように思えた。
「しかしよレッド、こうもまで天気が悪いと何か起こる予感がしてこないか?」
「それを昔の人はフラグと呼んだそうだ」
「フラグ?」
「昔人は場面の流れやセリフの文脈を読み取ってその後の展開を予測できたらしい。戦場に向かう前の告白は二人の死別の前振りだとかね」
「おいおい、それじゃまるでバイオテレジアじゃねえか」
『無駄口はいいから早く行っちゃってください。こっちも外なんだからいい加減寒いんですよ。ライラなんかさっきから固まっちゃってます』
「だとさ、隊長」
それぞれの準備が整った。不安と高揚で心拍が上がっていくのがわかる。しかしこれは決して悪いことではない。いつまでも初心を忘れず、石橋を叩く。教訓を思い起こさせる合図だった。
「ロック、仮面をつけろ」
「あいよ」
「――只今よりペンタゴン、突入する」
「『了解』」